ホーム | サイトマップ | リンク

ホーム > 講演会 > 講演会一覧 > 平成29年度 講演会 > 要旨

平成29年度 講演会 要旨   「日本人の極限 南方熊楠」

作家、博物学者 荒俣 宏 氏

民俗学の巨人、柳田國男が「南方熊楠は日本人の可能性の極限だ」と評しました。極限と言うからには比較する相手がいないといけないので、20世紀初期の日本で突出した2人を選び、熊楠がどのくらいユニークであったかを述べます。

1人は「大菩薩峠」を著した中里介山です。熊楠はその本を自分の書庫に入れるほどでしたが、その2人をつなげて考えるとおもしろい展開が出てきます。「大菩薩峠」は陰惨なチャンバラ小説で、主人公の机龍之助は、誰かれ構わず斬ってしまうというニヒルな剣士です。そういう話なのかと思うと大間違いで、その後の二十四巻では机龍之助はだんだん霞んできます。中里介山は、この小説は人間の運命や、その他転々とした先の分からぬ一生、一言で言えば修羅の世界を書いたものであると前書きに記しています。しかも、曼陀羅という言葉もそこで使っていたと思います。世界観が近いことを意識していたかもしれません。

曼陀羅といえば、熊楠曼荼羅には因果と因縁があります。仏教の言葉ですが、因果は因果関係ですから、原因があって結果があること。論理的に明快です。仏教にはもう一つ、因縁という言葉があり、元々は「縁」と言っていました。「縁」とは、原因はわからないけれども関係や結果が生じてしまうことです。お釈迦様は、人間は「因果」で動いているようだが、実は大事なのは「縁」である、「縁」を大切にしなさいと説いています。

ちなみに、この小説のキーワードは修羅です。修羅とは戦いのことで、戦争は修羅場です。修羅の世界を語るために、机龍之介の「無関係な相手を無暗に斬る」という展開を用いています。まさに、不条理な修羅の世界のイメージが出てきます。中里介山は、熊楠が「大菩薩峠」の愛読者と知って大変喜んだという話がありますが、二人の関心は偶然のように一致しているのです。熊楠も関わった神社合祀問題と同じ聖なる森林の破壊反対とかマドロスとかピグミーとか、果ては恐竜の話まで時代劇に取り込むという発想もすごいですが、この小説は読めば読むほどわけがわからなくなります。この筋の飛び方が「熊楠まんだら」的であり、それだけ飛んだ展開がどことなく収斂するあたり、やはり熊楠のいう「やりあて」をおもいださせます。

今、恐竜の話が出ましたが、もう1人、恐竜の話を書いた極限の日本人がこのときに登場しました。宮沢賢治です。彼も「大菩薩峠」の大ファンでした。宮沢賢治がなぜあんなチャンバラ小説を読んだのか、私も不思議で、最初は信じられなかったのですが、証拠がありました。何と宮沢賢治は「大菩薩峠の歌」を作詞・作曲しています。そのくらい「大菩薩峠」が好きだった。これもやはり修羅だからです。

宮沢賢治は修羅を描いた文学者でした。なぜなら彼の一番有名な詩集は「春と修羅」です。修羅というのは当時の文学者が使う言葉ではなかったのですが、彼が使った理由は明確です。宮沢賢治は法華経の世界を日本中に広めるために宣伝活動を一生懸命、東京で行った人でもあります。

さらに言えば、彼は青森で農業にかかわりました。農業で青森の農村を助けようと建設的な動きをしましたが、もう一つ、彼は地質学者でありました。特に化石のコレクションを得意とする化石ハンターだったのです。そして、岩木山を初めとする山に登るのが好きで、いろんな化石を見つけています。山の中で化石を探しているうちに、おばけに会います。それも、会った記憶があるとか想像ではなく、本当に会うらしいのです。

熊楠もそうです。粘菌の研究などで1人で那智の森の中にいると、だんだん意識がおかしくなってきて、見てはいけないものをたくさん見、そして自分自身が幻覚とおばけの見分け方を観察するようになるという話が伝わっています。宮沢賢治もそのようなおばけを山の中でたくさん見、見てはいけない体験をしたために、「座敷わらし」に関する民俗学的エッセーを書きます。

熊楠は、曼陀羅と修羅の世界を脱出する方法を考えました。修羅の道を延々と歩くと机龍之助になってしまいますから。この2人が極限なのは、それから脱出する方法を近代日本に授けようとしたからではないでしょうか。熊楠は、西洋でも東洋でもない、両方を足して、さらにその上を行く新しい世界観を持とうとしました。宮沢賢治は何で救われようとしたか。科学の言葉ではだめだと考えました。なぜなら科学は合理の世界であり、人間界の思想ですから、人間界を超えた天界に近い「縁」の発想も持たなければいけない。では科学と文学の言葉、音楽の言葉、そういう言葉で表現される、悲しいことも楽しいことも、生も死もみんな含まれる新しい世界観をつくる方法は何か。

一つは法華経の経典、お経の響きだと思っていたのです。でも、お経も絶対的だと思えなくなってきます。では、一体何なのか。そこで気がついたのは、自分の心の中に浮かんでくるイメージと心。彼は心象風景と呼んでいます。わかりやすくいうと詩の言葉、ポエムが必要なんだと。詩なら宇宙のことも書けるし、あの世のことも書けるし、死者との交信もできる。死者に呼びかける交信の言葉は詩しかないと結論づけたのです。

熊楠は曼陀羅を書きました。中里介山はとんでもない小説を書きました。賢治は最終的に詩で表現しようとしました。戦時中に賢治の童話はたくさんの人に読まれます。学徒動員で戦場に行った人たちが残した遺書に本のことが書かれています。当時、一番人気があったのは、高村光太郎の「智恵子抄」と並んで賢治の童話でした。文字どおり修羅に出かけていった若者にとって賢治の物語が大きな慰めになったことは間違いありません。熊楠はけっして孤独な知の巨人ではありませんでした。少なくとも同時代に、互いにその存在を知らなかったかもしれませんが、戦乱と哲学の危機に立ち向かった「日本人の極限」だったと思います。

このページのトップへ