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南海貴志川線むかしむかし

主任研究員  亀位 匡宏

はじめに

南海貴志川線の前身山東軽便鉄道が産声を上げて89年。高野町石道だとか熊野古道だとかが刻んできた長い歴史に比べれば、ほんの一コマに過ぎません。では、そのたった89年の歴史がしっかりと残っているの?と聞けば答えは否。巷に存在する廃線探訪ものの書籍にも、詳しく(正しく?)記されたものを見たことがありません。

みなさんご存じのとおり、南海貴志川線は何度目かの廃線の危機を迎えています。今度はけっこう崖っぷちのようにも思えます。もし、このまま廃線になってしまったとしても、「和歌山駅〜貴志駅間14.3kmの鉄道支線」としてみなさんの記憶には残るでしょう。しかし、そうなる以前の姿、たった7年の間、今の和歌山市のど真ん中を横断していた幻の鉄道の記憶は完全に埋もれてしまうのではないでしょうか。

そこで、当時の地図や、新聞記事などから「幻の鉄道」を断片的にではありますが、振り返ってみたいと思います。

1.「幻の鉄道」が走っていたところ

貴志川線を、今も「山東軽便」とよぶお年寄りがおられます。そして、起点和歌山駅が「東和歌山駅」であったことはネイティブの和歌山市民ならほとんど常識(?)。でも山東軽便が生まれた当時の起点駅を覚えておられる方なんて、もう僅かしかおられないのでは。

では、「幻の鉄道」がどこをどう走っていたかをみてみましょう。

地図1 地図2
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この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院および陸地測量部発行の
2万5千分の1地形図を複製したものです。(承認番号 平16総複、第114号)

左は大正11年測図、15年発行の地図です。

大正13年2月28日開通の紀勢本線(紀勢鐵道)はまだ工事中の路線として記されています。和歌山駅(現紀和駅)から北に延びているのは、紀勢本線建設のための砂利運搬用仮設線路。有本の紀ノ川河川敷まで延びています。

そして肝心の山東軽便はというと、そう、和歌山駅近くの中之島駅を起点として、市街地(当時の和歌山市域)に張り付くように南下していました。

右の地図と比べてみてください。(紀勢本線を目印にして比べるとわかりやすいと思います。)

2.山東軽便略史1

では、山東軽便のおいたちを見ていきましょう。

年月日できごと
明治29(1896)年10月 6日(1)和歌山市〜西山東村間の鉄道申請
明治43(1910)年 8月 3日(2)軽便鉄道法施行
大正 2(1913)年 4月 1日(3)和歌山〜山東間免許取得
大正 3(1914)年 6月12日(4)山東軽便鉄道会社創立
大正 4(1915)年 7月23日(5)起工
大正 5(1916)年 2月15日(6)大橋〜山東(現伊太祁曽)間営業運転開始
大正 6(1917)年 3月15日(7)中之島〜大橋間開業
大正13(1924)年 2月28日(8)中之島〜秋月(現日前宮)間廃止、東和歌山〜秋月間開業

明治29年、和歌山から山東に至る鉄道の申請が初めてなされます。日露戦争後の起業ブームの頃です。社名は山東鉄道。起点は手平あたりでした。でも、この時は許可されませんでした(1)。

明治43年、都市と郊外の輸送力向上をめざし「軽便鉄道法」が施行されます(2)。これは、それまでの私設鉄道法(明治33年)とは異なり、個人でも申請可、仮免・本免の二段手続きではなく一発免許、軌間の制限なし、曲線・勾配の制限もゆるやか。駅施設や車両等についても何ら制約なし、必要な場合は道路上への敷設も可能。おまけに赤字は国が10年間補填と、とってもお得な法律だったので、のちの第一次世界大戦後景気もあいまって地方鉄道ブームがやってきます。和歌山県内でも加太軽便鉄道(大正3年開通、後の南海加太線)、野上軽便鉄道(大正5年開通、後の野上電鉄)、有田鉄道(大正4年開通)、新宮鉄道(大正元年開通、現在のJR紀勢線勝浦新宮間)が短期間に生まれています。

そして、大正5年2月いよいよ山東軽便がスタート(6)。当日の和歌山新報にはこう書かれています。

●山東輕鐵愈開通
和歌山市田中町より海草郡山東村に通ずる山東輕便鐵道は既記の如く既にその筋の検査を了し諸般の準備整ひたれば愈々今十五日より營業を開始することゝなれり、停車場は 大橋、秋月、神前、竈山、岡崎前、吉禮、山東 の七ヶ所にして賃金は大橋山東間片道十七錢、往復二十七錢「通行税共」なりと、尚本日は會社株主を招待して試乘をなさしめ、餘興として大橋構内に於いて大阪信濃屋の二〇加(にわか)を一般の觀覧に供する外投餅をなす筈なり、但し開業式は暫く延期し三月陽春の候を待つて花々しく之を擧行する豫定なりといふ(結局3月になっても開業式はありませんでしたが。)
山東軽便
山東軽便鉄道の時刻表
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写真のような小さい機関車が、通称「マッチ箱」といわれる40人乗りの小さい客車2、3両を引っ張って一日10往復ぐらいでしょうか、のんびりと走っていました。まさに軽便な鉄道でした。上の写真、時刻表は大正末、昭和初期のものですが、雰囲気はわかっていただけますよね?

山東軽便は和歌山市と東部の西山東村を結び人員と物資(まつたけやたけのこ)の輸送が主たる目的なのですが、もうひとつ重要な役割を担っていました。日前宮・竃山神社・伊太祁曽神社の「三社参り」線です。これは発起趣意書にも「(前略)斯くの如く霊跡に富み、物産の豊富、土地の肥沃、人口の密度又他に譲らざる此地方に対し、交通運輸の便を図らんか、年々日前・伊太祁曽・竃山の三大神社に参詣する数多の旅客に便利を与ふるのみならず、地方の富源を開発し産業を発達せしむるや明らかなり(以下略)」と書かれています。階段状の路線は、駅を無理やり三社に近づけた結果です。

翌日の紀伊毎日には、いい加減ながら、沿線観光情報も合わせ、こんなことが書いてありました。

●全國一の山東鐵道
▽沿線に海のない鐵道
軌道幅員を狹く(狭くありません。日本の標準軌です。)して工事費の最も廉く上つた點において全國一と稱する山東輕便鐵道は愈昨ふから開通した、縣下の各鐵道は海と古刹を以てその條件としてゐるのとは全く打つて變つてこの鐵道線には海はない、この點において縣下鐵道界に一特色有するものである、その代りに畏くも日前國懸両官弊大社、竃山官弊大社、伊太祁曾國弊中社の三大社が沿線に鎭座まします、地方開發といふ事業の外にこの鐵道には實に日本國民の血潮となつてゐる神社崇敬の尊い尊い心を一層起さしむるの鐵道である(以下略)
大正11年の乗車・下車人員

当時の神道熱ゆえに、山東軽便は沿線村々住民はもとより和歌山市民にも大いに受け入れられたと思います。

翌大正6年には和歌山線和歌山駅に近い中之島まで延伸、(7)ついに省線(鉄道省線)との接続駅をもつに至りました。もっとも、省線接続もあまり効果はなかったようです。右の表にあるように山東軽便のターミナルは、やはり変わらず大橋駅だったんですね。

和歌山駅の名を冠してはいても、海草郡中之島村。和歌山市の表玄関はというと、名実ともに南海和歌山市駅でしたから。

大正年間の営業成績

その後も山東軽便は乗客数を伸ばしていったのですが、戦後景気は大正11年に終わり、長い恐慌時代へと突入、山東軽便は転落の時代、流浪の時代を迎えます。

まず最初に降ってわいた災難は、80万県民が夢にまで見た紀勢鐵道(和歌山〜箕島間)の建設でした。

3.中之島〜秋月間廃止、東和歌山〜秋月間開業の時期に関する考察

1.もっともそうな3つの説

和歌山駅を起点に南へ延びる紀勢鐵道(ほんとは逆。和歌山駅が終点。)が選んだルートは、山東軽便を分断しようとするものでした。方や郊外とを結ぶ軽便。方や省線、バックに80万県民の熱望付き。優劣は誰の目にも明かです。しかし山東軽便も頑張りました。分断される中之島〜秋月(現日前宮)間を廃止する代わりに、新線を建設して、新たにできる将来のターミナル駅「大和歌山駅(東和歌山駅のことらしい)」乗り入れを勝ち取ったのです。

が、ここで「山東軽便最大の謎」にご対面です。中之島〜秋月間はいつ廃止されたのか。東和歌山〜秋月間はいつ開通したのか。これがいまいちはっきりしません。主なところは下のA説、B説、C説といったところでしょうか。

  • A:大正13年2月28日中之島〜秋月間廃止・同日東和歌山〜秋月間開業
  • B:大正11年7月頃中之島〜秋月間廃止・大正13年2月28日東和歌山〜秋月間開業
  • C:大正13年6月15日東和歌山〜秋月間開業

公式に言われているのがA説。大正15年発行の「海草郡史」、昭和5年発行の「海草郡宮村史」にも記述されています。極めて時代が近く、地元の公共機関が記した記録となれば疑う余地はないはずです。紀勢鐵道の開通と同時に山東軽便も線路を切り替えた、ということです。でも少し変ですよね。

紀勢本線地蔵前踏切
紀勢本線地蔵前踏切(手前道路が山東軽便跡)

右の写真は現在のきのくに線(紀勢本線)と山東軽便の交点「地蔵前踏切」です。手前の道路が山東軽便跡になります。この写真を見ると紀勢鐵道と山東軽便とは直交していたことがわかります。

省線の線路がまさか一朝一夕にできるはずはありません。おまけに、浜中村(現下津町)の工事に大量の砂利が必要になったため、前述の仮設線路がいち早く建設されました。だから、この地点はかなり早い時期に、工事用の砂利積載の貨車が走っていたはずです。となると、まず山東軽便をとめて、その上に土工と線路の敷設をしないと紀勢鐵道の線路工事はできないのでは?

B説はそういう考えに立っていると思われます。紀勢鐵道の和歌山〜紀三井寺間の建設着工が大正11年8月。いくらなんでもそれまでに、山東軽便は廃止してるだろうと。この説は鉄道研究の分野ではご高名な先生も採用されているようです。最近では新聞などの貴志川線存続キャンペーン記事広告などに使われています。

C説は、昭和53年発行和歌山駅編集「和歌山駅記録写真集」収録の年表にでてきます。なにせ起点駅の記録ですから、これも信憑性は高い・・・・はず。

どれももっともそうですが、結局どれが正解なんでしょうか?山東軽便史を語る上で、こういう重要事項があやふやなままではまずいですよね。当時の新聞記事をチェックするという地道な作業で確認してみましょう。

2.当時の記録との整合性
T11.7.2和歌山新報 紀勢鐵工事に就て(鉄道省技師談・・・一工區も近く着工の筈)
T11.7.14和歌山新報 紀勢鐵一區工事土地買収に近々着手
T11.8.9

和歌山新報 紀勢鐵道第一工區着工(藻屑川鐵橋工事は・・・八日から着工した・・・土地買収は数日中に契約成立するにより南北両方より工を進る)
T11.9.7

和歌山新報 紀勢鐵道の和歌山湯淺間開通は十三年度中(第一工區・・・は近く着工さる・・・)

と、いうぐあいに紀勢鐵道建設に関する記事ばかりが続きます。しかし、8月8日着工と発表しながらなかなか工事は始まらなかったようですね。用地買収にずいぶん時間がかかったようです。一方山東軽便の一部区間廃止の記事なんか、ぜんぜん載ってない。でも、やっとこんな記事を見つけました。

T11.11.18



大阪朝日新聞 和歌山の大玄関「東和歌山」停車場(・・・同停車場開設と共に山東軽便鐵道現大橋驛より中の島に到る區間は廢線となり・・・終點は現秋月停車場の以西四十鎖(約805m)の所よりカーブを附して省線東和歌山停車場に入り、同停車場を兼用すべく其の間の工事は鐵道省に於て之を施行せらるゝやうである)

施行が鉄道省であるため、山東軽便の線路のことなど発表しなかった、ということでしょうか。ただ、この記事どうりだと、廃止は2月28日ということになります。

それから、事件・事故の記事が多い和歌山新報、こんな記事がありました。

T11.9.3 和歌山新報 軽便に触れて(大橋驛より北方約貳丁余のケ所を線路に沿い・・・)
T11.11.21

和歌山新報 列車轉覆を企つ帰校途中の中の島小學生(中の島驛の東方約一丁餘の踏切ポイントを・・・)
T12.4.7

和歌山新報 宮村新田の泥田の中で出刃包丁を揮つて親友の頭部を滅多斬り(宮村大字新内山東鐵道大條驛(大橋驛の誤り?)から東に約貳丁餘の泥田の中で・・・)

接触事故に、小学生のいたずら、傷害事件。直接関係は無いにしろ、12年4月になっても、まだ山東軽便中之島〜秋月間は営業していたようです。これでまず、B説は無くなったわけですね。

続いて、大正13年2月28日、紀勢鐵道開通前後。もう新聞は紀勢鐵道開通一色。山東軽便に関する記事はほぼないに等しい状況でした。本当にこの日に廃線と開通しているのなら一言ぐらいあってもよさそうなのですが。結局A説の真偽はあやふやなまま、C説の大正13年6月15日の前後へ。ここでようやく答えらしきものを発見。

大正13年6月14日付け大阪朝日新聞

田中口驛事業開始
 山東神社臨時祭と藝妓の手踊と投餅
山東軽便鐵道會社線大橋驛は去る二月末紀勢鐵道開通と同時に廢驛となり従來同驛で取扱つた旅客貨物すべて東和歌山線(駅?)と秋月線(駅?)が分屬し旅客と荷主不便云ふばかりなきに至りしより市内田中、瓦町(大橋駅のあった辺りの旧町名)方面の有志率先して中間驛設置の運動を開始し山鐵會社に對して交渉を重ねし結果夢の妙憧(現惣光寺)附近に『田中口驛』を新設する事となり爾來驛舎の建築其他の工事を取急いでゐたが諸般の設備も既に完成を告げ愈明十五日を以て田中口驛旅客取扱ひを開始することゝなつた右に就き西山東村伊太禧曾神社にては當日臨時祭を執行した東廊の藝妓は同日午後二時より同社神樂殿に於て手踊を催し尚ほ四時から田中口驛々前において投餅をなし夫々祝意を表する筈で賑ひを呈するであらう

この記事によると、やはり紀勢鐵道開通と同時に中之島〜秋月間廃止、東和歌山〜秋月間開通。6月15日は請願駅「田中口駅」が新設された日であることがわかります。廃止開通については、リアルタイムではないのでちょっと疑問符が残りますが、疑いだすときりがありません。大正13年2月28日廃止・開通というA説が正しいと結論づけることにいたしましょう。

3.平面交差か立体交差か

じゃあこれで「山東軽便最大の謎」に終止符が打たれたのかというと、そうは問屋が卸しません。紀勢鐵道開通日前日2月27日の山東軽便最終列車通過後、突貫工事で紀勢鐵道線路を敷設、翌朝の開通に間に合わせたのでしょうか?いえ、それは考えづらいです。前述の砂利積載貨車も走っているし、なにより鉄道省の事前検査時に紀勢鐵道の線路が締結されていないというのは考えられません。やはり山東軽便中之島〜秋月間と紀勢鐵道は、同時期に機関車が走っていたのです。

ではこの2つの鉄路が交わる地点、現在の地蔵前踏切は、当時どんな状況だったのでしょうか。可能性は2つ。道床の高さを合わせて「平面交差」していたか、とても考えづらいのですが「立体交差」していたかのいずれか。「平面交差」というと、とても危険だと思われがちですが、列車本数の少ない遠い昔、会社のちがう営業線同志でもたまにありました。

でも山東軽便と紀勢鐵道とは、どうやら「平面交差」ではなかったようです。

山東軽便高架線の推定復元(?)図
山東軽便高架線の推定復元(?)図

現在の地形からは想像もできませんが、山東軽便跡道路の北側に大きな土盛りが昭和10年代まであったそうです。土が崩れ落ちないよう周囲を杭で固めたその土盛りこそが、山東軽便の高架跡であったらしいのです。まず、山東軽便本線北側に高架線を新設、切り替えた後に本線を撤去、その後高架線を潜るように紀勢鐵道を建設した、ということになります。山東軽便の小さな蒸気機関では急勾配は登れません。省線の建設現場を跨ぐ程の高度をとるにはかなりの距離が必要で、大工事だったろうことは容易に推測できます。今となっては何の痕跡もなく、ただ空想するしかないのですが。

和歌山市周辺の「鉄道の立体交差」というと、昭和5年(1930)6月に「日本一快速」との誉れ高い阪和電鉄(現JR阪和線)が、和歌山・紀勢の2つの省線を跨ぐまで存在しませんでした。軽便鉄道と建設線とはいえ、そんなめずらしい、また規模の大きい「立体交差」の記録がどこにも残っていないというのは、ちょっと信じられないのですが、謎に包まれた山東軽便史なら不思議ではないのかもしれません。

4.東和歌山駅での山東軽便

さて、無事省線接続を果たした山東軽便ですが、東和歌山駅のどこに乗り場があったのでしょう。開業当時の東和歌山駅は紀勢鐵道の一途中駅。現在のようにホームを何面も持つ巨大駅ではありません。小さな駅舎にひっつく1面1線の単式紀勢鐵道下りホーム、中線1本をはさんで1面2線島式の上りホームがあるだけでした。

記録によると山東軽便は上りホームの測線側に間借りしていたようです。今で言えば3番ホームということになるのでしょうか。居候みたいな扱いですが、和歌山駅から来た乗客は、降りたホームの向かい側で山東軽便に乗り換えできたわけです。地下道をくぐる今とはずいぶん違いますね。

4.山東軽便略史2

始発駅を東和歌山駅に変更、市街地から遠くに追いやられたものの、遂に省線駅乗り入れを果たした山東軽便。その後の流転の時代について少し。

年月日できごと
昭和 4(1929)年11月(9)山東軽便鉄道から山東鉄道に改称、ガソリン動車導入
昭和 6(1931)年 4月23日(10)山東鉄道から和歌山鉄道に改称
昭和 8(1933)年 8月18日(11)山東を伊太祁曽に改称、伊太祁曽〜貴志間を開業。
昭和16(1941)年12月(12)東和歌山〜伊太祁曽間を電化
昭和17(1942)年12月(13)伊太祁曽〜大池間を電化
昭和18(1943)年12月(14)大池〜貴志間を電化
昭和32(1957)年11月 1日(15)和歌山電気軌道に合併、和歌山電気軌道鉄道線に改称
昭和36(1961)年11月 1日(16)南海電鉄に合併、南海貴志川線に改称

恐慌の時代に飲み込まれた山東軽便は、乗客の暫減を運賃引き上げで補うという鼬ごっこに突入、赤字体質が染みついていったようです。

第二次世界大戦のさなか、燃料不足から廃止か電化かの二者択一を迫られます。最初の「廃線の危機」でしょうか。しかしこの時は電化を選択(12〜14)。なんと、山東(現伊太祁曽)の車庫で客車を自分たちの手で電車に改造、そこまでしても苦しい経営は依然続いていきます。

昭和32年にはついに和歌山電気軌道(市電)に合併(15)。「軌道線」に対し「鉄道線」という、わかったようなわからないような名をいただきました。遂に単独での経営に終止符が打たれ、「おまけ」の時代に入ります。しかし、「おまけ」になったからこそ、まがいなりにも今日、私たちはその長閑な勇姿を見ることができているのかもしれません。

「関西の奥座敷(だったんです。昔は。)和歌浦」への路線延長を幾度と無く試みながら実現に到らなかった南海電鉄は、昭和36年、和歌山電気軌道を合併することで、念願を果たします(16)。が、「おまけ」付きでした。こうしてたまたま(?)南海電鉄貴志川線が誕生したのです。

5.廃線跡中之島〜秋月間探訪

たった7、8年でその使命を終えてしまった中之島〜秋月間。せめてそこに川や山といった天然の障害があれば、加太軽便鐵道の紀ノ川橋梁や新宮鐵道のトンネルのように、いわゆる「産業遺産」が残ったのでしょうが、まったくの平野部を走っていたこの区間には、その後市街地化に飲み込まれたこともあり、昔のよすがなど何も、ほんとになーんにも残ってはいません。

しかし廃線翌年、道床跡は宮村の「西部第一幹線」と称する村道に認定されました。完成を待たずに宮村は和歌山市に合併し、市街化の過程で曲線部は程なく失われましたが、直線部を中心に、その大半は和歌山市道に引き継がれ現在に至っています。そう、あなたが通勤通学に使っている「いつもの道」が、実は80年前、小さな機関車が走る線路道だったのかもしれません。では、その廃線跡を歩いてみましょうか。

1.秋月〜大橋間
秋月〜大橋間
秋月〜大橋間
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分岐点附近の県道踏切から西を望む
分岐点附近の県道踏切から西を望む

秋月駅(日前宮駅)を出てしばらく続いていた直線は、現在、県道和歌山・野上線を跨ぐ手前から右にカーブを始めます。しかし、当時はその直線が問題の地蔵前踏切を越え、国体道路あたりまで続いていました。

この直線400数十メートルは、今は市道新南44号線というそうです。

旧線は国体道路手前から大きく右にカーブ、現在の新南公園を経て田中町3丁目へ到ります。

県道和歌山・野上線を横切ると、ここから500数十メートルの直線道路が現れます。これが市道新南9号線。そしてこの道の入り口付近に大橋駅がありました。ライオンズマンションのある西側です。昔はこの部分だけ道幅が広かったそうです。

2.大橋〜畑屋敷間
大橋〜畑屋敷間
大橋〜畑屋敷間
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大橋駅といっても、ほんとの大橋までは350mほどあるでしょうか。山東軽便の廃止路線は前述のようにそのほとんどが宮村と中之島村。和歌山市はごく僅か、かすっているだけ(勿論現在はすべて和歌山市)。大橋駅も東京ディズニーランドの如く、「せめて駅名だけでも和歌山市」ってところですね。

大橋附近は龍神街道が和歌川を越える地点で、藩政期から水陸交通の要所として多くの物産の集散地でした。そのため田中町には数多くの問屋があったといわれています。請願駅田中口駅の設置からもわかるように、明治・大正期にも引き続きかなりの商業集積があったようです。まさに和歌山市の東の玄関だったわけです。大橋駅は最大乗降者数を誇る、山東軽便の顔のような駅。それなりに駅も立派だったのでしょう。下は和歌山新報に掲載された大橋駅舎の写真です。なんだか全然わかりませんが、写真付き記事が貴重な時代ですから、わざわざ載せたということは、それなりの建造物だったということなのでしょう。

大橋駅舎
大橋駅舎

大橋駅跡から北方面を望む
大橋駅跡から北方面を望む

大橋駅をでて、道は直線のままけやき通りを渡ります。セッサビルの東側を通り城東公園へ。「この店の前の道は昔ね・・・・」ってアフターファイブの話のネタぐらいには使っていただけるでしょうか。

さて、城東公園を過ぎたところで、廃線跡は市道とは異なり右へカーブしていきます。そして東の宮神社の近くで畑屋敷駅に到ります。畑屋敷駅も本来の畑屋敷とは数百メートル離れています。大橋駅同様「名前だけでも・・・」だったのでしょう。

さてこの駅、大正11年測図の旧版地図をよく見ても駅名がありません。理由はわかりませんが、大阪で発行されていた和歌山観光地図などを見ると「聖天前駅」となっています。これは聖天宮法輪寺最寄り駅だということで、出版者が勝手に書いたものと思われます。当時駅名はさほど重要なものでは無かったのかもしれません。ちなみに法輪寺は紀州徳川家の保護を受けたかなりの・・・大寺院。かの川合小梅もお参りしていました。えべっさんを勧進して有名な東の宮神社となるのは戦後のことです。

3.畑屋敷〜中之島間
畑屋敷〜中之島間
畑屋敷〜中之島間
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畑屋敷駅を過ぎると城北通りを横切り、北大通りへ。マツヤデンキ向かいの斜めの道が廃線跡、市道中之島24号線です。現道は大門川を渡り、中之島公園東側を直進しています。少し進んだのち、大きく左にカーブ。

柳通りを横断したところ、共栄市場の場所が中之島駅でした。

この区間については、当時の思い出話が「和歌山の民話(下)」 (和歌山市発行 昭和58年3月31日)に載っています。

「・・(前略)・・今の中之島の天王の踏切あるやろ。そのはたの共栄市場というところが昔の山東軽便の終点やった(起点です。)。この終点から中之島小学校の裏を通って、畠ばっかしの今の大門川あるやろ、あの辺はゴミ捨て山やったよって、通ってもくそうて、くそうてよ。・・(中略)・・今の和歌山染工(今はあき地ですが。)の前の道を軽便が走ってたんやしょ。そこからは今は賑やかになってる吉田の聖天宮さんの辺りまで竹藪のトンネルやったんや。その竹藪ぬけたら、すぐに東和歌山(畑屋敷?)ちゅう駅があったわ。山東軽便のくさった駅やったな。その辺りに瓦を焼くとこがあって、そのはたに三角池ちゅう大きな池があったんや。わしら子供の時分によう泳いだもんや。・・(以下略)」(話者:小林正一)

大門川に架かる北中橋から北を望む
大門川に架かる北中橋から北を望む
中之島駅があった辺り
中之島駅があった辺り

おわりに

今の和歌山市のど真ん中を縦断していた鉄道が、かつてありました。でも流浪の時代に、おまけの時代に、記録がどっかへ行っちゃったんでしょうか。詳しい変遷は霧の中です。せめて、断片的にでもそのあやふやな記録を補えたらと、このようなお話を書きました。この話は現在盛んに議論されている南海貴志川線存廃問題に一石を投じるものではありません。ただ、地元資本が生みだした山東軽便の歴史は、和歌山市民が、貴志川町民が、せめて沿線住民が、もう少し誇りにしていい歴史なのではないかな?と思うんです。多分にノスタルジックな感傷なのかもしれませんが・・・・。いや、山東軽便に限ったことではなく、まだまだたくさんの輝かしい、誇りにすべき「歴史」が和歌山には埋まっているような気がします。ただ、掘り返そうとしないだけで。ただ、人に言おうとしないだけで・・・・。

ここに書いたのはたった10年間程度のお話です。でも、まだまだわからないところはたくさんあります。間違っているところもあるでしょう。「ここは間違っているよ」とか「こんなこと知ってるよ」とかありましたら是非教えてください。お待ちしています。

参考

《出典》
  • 写真「昔なつかしい山東軽便の機関車」・・・・和歌山の民話(下) (和歌山市 昭和58年3月31日)
  • 山東軽便鉄道の時刻表・・・・和歌山の民話(下) (和歌山市 昭和58年3月31日)
  • 発起趣意書・・・・和歌山県史資料編
  • 大正11年の乗車・下車人員・・・・和歌山県統計書大正11年版
  • 大正年間の営業成績・・・・和歌山県史通史編
  • 「本日開通の山東軽便鐵道大橋驛」・・・・大正5年2月15日付け和歌山新報
《地図等》
  • 陸地測量部発行2万5千分の1地形図(和歌山)大正15年発行 (承認番号 平16総複、第114号)
  • 国土地理院発行2万5千分の1地形図(和歌山)昭和61年発行 (承認番号 平16総複、第114号)
  • 国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省HPより
《参考資料》
  • 和歌山県史 (和歌山県発行)
  • 和歌山市史 (和歌山市発行)
  • 和歌山縣海草郡史 (大正15年5月31日発行)
  • 和歌山縣宮村史 (昭和5年4月15日発行)
  • 和歌山駅記録写真集 (昭和53年10月2日発行)
  • 和歌山の民話(下) (和歌山市 昭和58年3月31日発行)
  • 南海沿線百年史 (南海電気鉄道株式会社 昭和60年5月10日発行)
  • 紀伊名所図絵 (平成3年3月25日発行)
  • 紀伊国海草郡名所図絵(昭和53年5月15日発行)

写真「昔なつかしい山東軽便の機関車」転載にあたり高岡義治さんの、「山東軽便鉄道の思い出」引用にあたり小林正一さんのご子息に、それぞれご快諾をいただきました。

出泰之さんに貴重なお話を聞かせていただきました。

この場をかりて厚くお礼申し上げます。

(2005.2)
(執筆者の所属、役職等は発表当時のものです)

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