ホーム | サイトマップ | リンク

ホーム > レポート > 歴史・文化 > 本脇糸切餅

本脇糸切餅

主任研究員  亀位 匡宏

はじめに

昔、とても有名な「お餅」が、今の和歌山市本脇、射箭頭(いやと)八幡神社前にありました。加太(淡島)街道を行き交う人ほとんどすべてが食した、いや、街道を通るからには食べなきゃならなかったお餅。南海道随一の大都市和歌山城下町の住民がほとんどみんな知っていたお餅。しかし、鉄道の開通と共に廃れ、今はほとんど誰も覚えてはいないお餅。『糸切餅』。そんな幻の名物『糸切餅』について、すこしお話ししたいと思います。

糸切餅ってどんな餅?

多賀糸切餅(総本家多賀やさんにて)
多賀糸切餅(総本家多賀やさんにて)

糸切餅というと、滋賀県多賀町多賀大社参道の糸切餅を思い浮かべられる方も多いと思います。お多賀さんの糸切餅は、あんこを包んだ長い棒状のお餅を糸で短く切ったもので、赤青3本の糸状の模様が入っています。多賀大社参詣のおみやげとしてはもちろん、これを目当てに県外から来る人も多い、美味しい「名物」餅です。鎌倉時代、元寇(1281)の戦勝記念に作られたお餅と言われています。でもほんとのところは江戸末期、子供の延命と幸せを祈り創られたお餅だとか。どちらにしたって由緒も正しく美味しくて、見た目にもきれい。そりゃあ売れるだろうってお餅です。

一方、本脇の糸切餅はというと、米粉でつくった棒状の餅を糸で切るという点では同じなのですが、あんこなどは入っていません。粳米と糯米の粉を合わせたものを蒸してついた白いお餅に、黄粉をまぶしただけの、とても“素朴”なお餅でした。

糸切り餅のすごい歴史

1.起源

黄粉をまぶしただけの、素朴な本脇糸切餅。しかし、その歴史は多賀糸切餅に負けてはいません。

本脇糸切餅について記されている最も古い書物は、文化8(1811)年「紀伊名所図會」、天保10(1839)年編纂の「紀伊続風土記」。19世紀には既に「名物」として認知されていました。

全国に広まった淡島信仰の総本山加太淡島神社、円光大師の大会式で有名な大川報恩講寺と、加太(淡島)街道は、熊野古道や高野町石道に次ぐ「信仰の道」でした。そして、信仰の道の陸・海の中継点が本脇、射箭頭八幡神社だったのです。多くの旅人が必ず足をとめるその場所で、旅人のお腹を満たし、帰宅を待つ家族への格好のお土産となったのが糸切餅でした。

現在の射箭頭八幡神社
現在の射箭頭八幡神社

明治末期の神社明細帳に記された射箭頭八幡神社の由緒にはこうあります。「抑も當神社創祀の基因は息長足姫命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)御凱旋の砌大臣武内宿禰(たけのうちのすくね)胎中天皇を奉して紀伊國日高郡衣奈浦へ御幸の節頓宮を營み暫く蹕(ひつ)を駐められ給ふ舊趾にして射箭頭の社號は古渚郡加太浦に御着船の際弓に矢を番(つが)ひ給ひしに其矢紀の水門飽浦の下地ヶ尾に止る其處を尋ね息長足姫命胎中天皇蹕を之に駐められ給ふ時に百官弓弦にて餅を切て献上せしより其所を名つけて糸切と云ふ今に至る迄村民餅を鬻(ひさぎ)て業とする者あり」つまり、弓の糸で餅を切り、神功皇后・武内宿禰に献上したので、ここの地名(字)は「糸切」といい、当時から現在まで餅を売っているのだと。同様の民話も言い伝えられています。

日本書紀・古事記に登場する神功皇后・武内宿禰は空想上の人物だ、というのが通説です。しかし、紀北地方は両名にまつわる伝承が多く残っている所。モデルとなる何らかの出来事があったとしても不思議はないですよね。神功皇后三韓出兵は記紀の記述から西暦に換算すると西暦400年頃。なんと1600年前!・・・ということになります。

古墳時代からずっと糸切餅が販売されてきたのかというと、これはかなり眉唾。国学華やかな時期に記された「紀伊名所図會」・「紀伊続風土記」にも神功皇后にまつわる糸切餅のエピソードは収録されていません。しかし糸切餅が1600年前の故事にちなんでいるのは事実。ゆえに1600年の歴史をもつ餅、と言ってもけっして間違いではないはず。こんな古いルーツをもつ(可能性のある)名物、よそにはないんじゃないでしょうか。

2.終焉

江戸後期には街道筋はおろか、紀伊家領内有数の名物だった糸切餅。真偽のほどは分かりませんが、藩主(射箭頭八幡神社へ奉納していることから考えると2代光貞?)が絶賛したという民話も残っています。かの川合小梅も食しました。時代が変わって明治の世になってもその名声は衰えはしなかったのですが、この地に遅れてやってきた文明開化の波が糸切餅を飲み込んでゆくことになります。

明治45年6月16日、加太軽便鉄道(現在の南海電鉄加太線)が開通します。当日の紀伊毎日新聞には『加太に到るもの必ず磯脇に名物糸切餅を購(あがな)ふを例とせるを、軽鐵開通後は自然此の街道の往來も寂れ行かん、さればこれ糸切餅は磯の浦名物として停留所付近において商ふにおいては風雅なる家土産とて多大の歓迎を受くるなるべし』と、糸切餅の行く末を危惧し、対応策まで示している記事が掲載されています。案の定その危惧は現実のものになっていきます。昭和初期には常時販売ではなく、地元学校の遠足や、報恩講寺円光大師大会式の日など、限られた日のみに弁当代わりとして売られていたようです。そして昭和10年頃には全く作られなくなりました。

鳥居前の4軒の茶屋(紀伊名所図會より)
鳥居前の4軒の茶屋(紀伊名所図會より)

「紀伊名所図會」には4軒の茶屋が描かれています。4軒とも糸切餅屋であったのかどうかはわかりませんが、少なくとも大正頃には3軒、昭和初期には「宮源(みやげん・宮前の森下源次郎の略)」・「宮久(みやひさ)」の2軒となり、そして昭和10年頃最後に残った「宮源」も看板を下ろし、糸切餅は歴史の舞台から(ひとまず)姿を消します。

3.変遷

射箭頭八幡神社の由緒では、最初の糸切餅は、ただ弓の糸で切った「餅」としか分かりません。「日本の民話紀の国篇」に収録されている言い伝えでは「(前略)宿弥はんが、何ぞ家来に食べさすもんないやろか・・と本脇の方までやってくると、そこに二、三軒の茶店みたいなのがあって、モチゴメとウルチマイの粉をまぜてつくった餅が置いてあったんや。こらうまそうやちゅうて、その餅を細長うに引き伸ばし、自分の持ってた弓のツルで、試しに二つ、三つに切り分けて食ってみると、これがなかなかええ味やして。(後略)」と、ごくごく普通の白餅であったと伝えられていますが、この粉を用いた作り方は、廃れる前の糸切餅と同じ。どうにも1600年間正しく伝わったお話とは信じがたいのです。

どんな餅だったのかが文面でわかるようになるのは、ずーっと時代が下ってから。江戸時代の紀伊名所図會ではこう説明されています。「其製黄なるもちを白きもちにてつゝみ、棒のごとくになして、小口より煮貫鶏卵(ゆでたまご)を切るごとく、いとにて薄くきり、白砂糖をかけて出すなり」と。薄切りのゆでたまごのように見えるお餅だったようです。

そして廃れる前、昭和の糸切餅は前述のとおり、粳米と糯米の粉を合わせたものを蒸してついた白餅に黄粉をまぶしただけのシンプルなものでした。特徴といえるものがあるとすれば、糸で切るときに付いた指の跡でしょうか。摘んだように真ん中が窪んで、ひょうたん型になっていました。

もうひとつ最後に番外編、加太の糸切餅もご紹介しましょう。第二次世界大戦の戦前・戦中にかけて加太で糸切餅が復活しています。これはヨモギを入れた草餅であんこを巻き、糸で切ったもの。作られた場所も餅そのものも違いますが、本脇から糸切餅を作っていた人が招かれ、指導しているので、一応後継者と見なしましょう。ちなみに加太糸切餅は、警官から「国の許可なく神功皇后の名を使うとは何事か」とのお叱りを受けて販売中止、短命に終わったらしいです。

直近の200年、記録に残っているだけでも「砂糖がけゆでたまごの切り身」、「黄粉がけのひょうたん型」、「あんこいり草餅」と3種類。糸切餅は時代と共にその姿を変えていってたようです。

糸切餅はいつの時代にも、その時代にあった、売れる名物として長い歴史を築いてきました。いうなれば「糸切餅」という名はその歴史をつなぐ記号に過ぎないのかもしれません。多賀糸切餅にしても、誕生以降まったく何の変化もなく作り続けられて今日に至る、なんてことは恐らくないでしょう。だったら今の時代にあう、売れる糸切餅があってもおかしくはないはず。

糸切餅ついに復活

新生「平成糸切餅」(10個入り500円)
新生「平成糸切餅」(10個入り500円)

本脇には昭和46年設立という歴史と、約200名という会員数を誇り、活動も活発な老人クラブ「いときり会」があります。当然ですが、いときり会々員のなかには糸切餅を食べたことがある人もおられ、そういう方々に懐かしんでもらおうと、過去に何度か、糸切餅の再現を試みたそうです。有志が記憶を頼りに試作してみましたが、どうにも違う。なかなか思い出の味の再現はできませんでした。

平成14年。この年はいときり会の設立30周年。記念事業として糸切餅の再現が再度企画されたのですが、今度は会の文化伝承活動の一環として、毎年10月14日の射箭頭八幡神社例大祭宵宮での屋台出店をめざし、和菓子の「プロ」に製作をお願いすることになりました。

そこで、射箭頭よろしく白羽の矢があたったのが松江北の和菓子屋「川口屋」さん。依頼を受けた川口屋さんは、多賀大社へも足を運ぶなどして独自に研究を重ね、ついに糸切餅は復活を果たします。いえ、今時の嗜好にあった新生「平成糸切餅」が誕生した、というべきでしょうか。

宮の前森下源次郎店の看板
宮の前森下源次郎店の看板

この「平成糸切餅」は、昭和糸切餅と同様ひょうたん型で、黄粉をまぶしていただきます。しかしまったくの白餅ではなく、江戸糸切餅を模して中を黄色く色づけしています。おまけにそれを見て楽しめるように黄粉と砂糖は別包装という凝りよう。しかし、恐らくこれまでの糸切餅とは異なり、とても柔らかく、お餅自体の味も甘味を十分にだした、美味しいお餅に生まれ変わったのです。もう、和菓子というにふさわしい食べ物です。

毎年10月14日、年に一度この日だけ、夕刻のほんの数時間とはいえ、訪れさえすれば幻の名物餅が賞味できるようになりました。

射箭頭八幡神社の例大祭宵宮は、本脇地区の住民一丸となって行われる、盛大な秋祭りです。人と音であふれかえった狭い境内の一角で、小さな屋台は「名物糸切餅」の提灯も鮮やかに、その昔を彷彿とさせる賑わいを見せてくれます。脇には、最後の糸切餅屋「宮源」の看板も展示され、由緒を知らずとも歴史と伝統を感じさせてくれます。翌15年からは、長いままのお餅を持ち込み、実際に糸で切って試食させてくれるおまけ付き。平成14年、15年とも200パック完売。3年目となる平成16年は一挙350パックが完売されました。

*平成23年現在、「糸切餅」の製作には、駿河屋様のご協力をいただいております。

江戸糸切餅の復元?

「糸切餅屋」挿し絵(紀伊名所図會より)
「糸切餅屋」挿し絵(紀伊名所図會より)

江戸時代後期に作られていた“ゆで卵の切り身”状の糸切餅は、紀伊名所図會に詳しく記載されています。特にお餅の切り方は挿し絵を見れば一目瞭然。糸の片方を口にくわえ、右手で糸のもう片方を持ち、左手に持ったお餅に糸を廻しかけて切っています。形はほぼ円形、直径5、6cm、厚さは1cm弱といったところでしょうか。

しかし、どうしてもわからない問題がひとつ。それは「『黄なるもち』とは何の餅なのか」ということ。

しろきもち」はわかります。糸で切ることを考えれば、固くなく、かといって粘らず。粳米と糯米をあわせたものと考えられます。恐らく昭和の糸切餅とまったく同じで、それぞれ粉にしたものをあわせて蒸しているのでしょう。甦った新生糸切餅は現代指向でかなり柔らかめ。糯米粉の比率が多いせいですが、粘りが強いため糸で切るのがかなり難しく、黄粉に埋めて切らないと離れないのです。挿し絵の切り方は、粳米粉の比率がかなり高くないと無理だろうと推測できます。おおよそ半々といったところでしょうか。

復元(?)した江戸糸切餅
復元(?)した江戸糸切餅

では、「黄なるもち」は? 残念ながらその正体がわかる記録にはまだお目にかかっていませんが、おそらく「黍(きび)餅」だろうと思われます。ゆで卵の切り身と見まがうお餅というのは、江戸時代後期においては十分に「売れる要素」であったろうと考えられます。それがなぜ、後にすべて白餅に変わったのでしょうか。「黄なるもち」が黍餅だとすれば、この変遷も頷けますよね。大正・昭和の時代に、雑穀である黍をつかった餅は売り物にはなりにくかったでしょうから。

せっかく「黄なるもち」の正体が推測できるところまできたのですから、実際に作ってみました。

* 江戸糸切餅いいかげんレシピ *

  粳米粉(上新粉をつかいました)・・・・・・・・・・・・130g
  糯米粉・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・80g
  黍粉(市販の混ぜ炊き用を粉にしました。)・・・・100g
  糸(釣り用のテグス4号を使いました。多賀糸切餅は三味線の3番弦で切るらしい。)

  1. 耐熱食器に粳米粉130gと糯米粉50gと塩少々と砂糖適量をあわせて水適量を加えよくまぜます。耳たぶぐらいのやわらかさになればOK。
  2. 白餅(1)にラップして、電子レンジで約4分加熱。
  3. 耐熱食器に黍粉100gと糯米粉30gと塩・砂糖少々をあわせて水を加えよくまぜます。白餅(1)と同じぐらいのやわらかさに。
  4. 黄餅(3)にラップして、電子レンジで約3分加熱。
  5. ラップをひろげ、その上に白餅(2)を円形に延ばします。延ばした白餅の上に黄餅(4)をまるめて置き、白餅で包みます。合わせ目はしっかり閉じてください。
  6. (5)をそのまんまラップでくるんで、電子レンジで約3分加熱。
  7. 打ち粉をした上で(6)を両手で転がして細長く延ばしていきます。直径5、6cmの円柱状がベスト。あとは少しだけ放置してあら熱を取ります。
  8. 糸の片方を口にくわえ、もう片方を右手で持ち、(7)を左手に持って糸を廻しかけて切っていきます。
    粉砂糖をかけてできあがり。
※これは素人が適当につくったお餅です。もう少しマシな作り方があると思います。「こうした方が美味しい」とか、「これじゃダメだ」とか、ご意見ございましたらメールください。

できあがったゆで卵の切り身状糸切餅は、まさに「餅」。素朴としか言いようがなく、食感もぱっとしません。でも予想どおり見た目はかわいいし、黍を使っているんですから体にもいいかもしれませんね。

糸切餅のこれから

糸切餅は、誕生1600年(かもしれない)という超特級の歴史的価値を持っています。これにくわえて新生・平成糸切餅はじゅうぶんに美味しいです。食べてもらった数十人に聞いたところ、すべて美味しいという感想が返ってきました。味も食感も申し分なし。まず、歴史と味の2点においてまちがいなく合格です。しいて弱点をあげるとすれば、よその名物餅などと比べて、糸で切るということ以外、これはという個性に乏しいのが難点でしょうか。でも黍粉を使って江戸糸切餅に近づければ個性も十分。健康食という付加価値まで付くのでは。平成糸切餅は、再び「和歌山を代表する名物」の地位に返り咲く可能性を充分に秘めていると思います。

宵宮での糸切餅屋台(平成16年10月14日)
宵宮での糸切餅屋台(平成16年10月14日)

お菓子文化があるんだかないんだかわかんない和歌山の地で、希望の星になるかも?と思い取材を始めた糸切餅。その時はまだ復活しているなんてつゆ知らず。復活したと初めて聞いたときは、食べられる宵宮の日がとても待ち遠しくなりました。

でも取材するうちに少しばかり考えが変わりました。「今のまま」というのもいいのかもしれないと。

ここ本脇ではコミュニティーの空間としての「鎮守の森」が生きています。この森を舞台に、年に一度盛り上がろうという住民のエネルギーも満ちています。例えば獅子舞のように、そういったものを次代に継承する媒介として糸切餅が今後機能していくのなら、本脇から糸切餅を奪うわけにはいきません。

「駅・デパートでいつでも買える和歌山名物」より、「古き良きコミュニティーを肌で感じながら、年に一度だけその場所でのみ食べられる幻の名物」のほうが、今の世の中、よっぽど人を惹きつけるのかもしれませんね。こういう名物が他にもあちこちにあれば、それも「豊かなお菓子文化」が息づく街の一つの形ではないでしょうか。

こうなったら、毎年10月14日は、「本脇へGo!」ですね。

参考資料・図等出典、お世話になった方々

参考資料・引用
  • 「紀伊名所図會」 高市志友編 文化8(1811)年
  • 「紀伊続風土記」 仁井田好古ほか編 天保10(1839)年
  • 「和歌山の民話(上)」 和歌山市発行 昭和58年3月31日
  • 「日本の民話紀の国篇(燃焼社)」 荊木淳己氏著 平成5年8月
  • 西脇地区公民館シリーズ講座資料「郷土をしろう」 射箭頭八幡神社縁起
       中村幟嗣・宮本暉久製作等 平成4年8月
  • 紀伊毎日新聞(明治45年6月16日付)

射箭頭八幡神社中村幟嗣宮司様、本脇老人クラブいときり会操本保会長、同貴志弘会長様、同平野保彦様、森下佐知子様とそのご近所の方々、川口屋様、多賀町の瓜生様、この場をお借りしてお礼申し上げます。ありがとうございました。

(2004.11)
(執筆者の所属、役職等は発表当時のものです)

このページのトップへ