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南海加太線むかしむかし

主任研究員  亀位 匡宏

はじめに

社名「和歌山電鐵株式会社」。線名「わかやま電鉄貴志川線」。

南海電鉄貴志川線の存続が決まりました。多くの赤字鉄道線が廃止に追い込まれていく中、これは稀有な例と言えるでしょう。岡山電気軌道株式会社さまには感謝頻りです。でもこれからが本番、未来に残すための長い戦いのスタートです。

ちなみに、貴志川線は昭和6年〜32年の間「和歌山鉄(鐵)道」を名乗っていました。「和歌山を代表する鉄道に」との期待からでしょうか。残念ながらその願いは叶えられませんでしたが、再びチャンスは巡ってきました。今度こそ・・・・。

さて、南海貴志川線はひとまずおいて、今回は南海電鉄加太線です。

和歌山市の旧市域に外接し、片や南東に、片や北西に。同じ頃建設され、同じように延伸され、同じ出資人が名を連ねる南海貴志川線の前身「山東軽便鉄道」と南海加太線の前身「加太軽便鉄道」は、まさにお互いが鏡に映った影のような存在でした。

今回はその南海加太線について、歴史を紐解いてみましょう。加太線は貴志川線に比べるとその歴史ははるかに鮮明です。巷に存在する廃線探訪ものの書籍にも、頻繁に出てきます。でも、やはりその初期の姿が克明に記録されている、とは言いきれないようです。では、その輝かしい軌跡を見ていきましょう。

I.和歌山市〜加太その変遷

南海加太線というと和歌山市駅と加太とを結ぶローカル支線、というふうに認識されている方も多いのでは。確かに列車は和歌山市駅が始発なのですが、和歌山市駅〜紀ノ川駅間は南海本線。紀ノ川駅〜加太駅間が加太線です。しかしこの経路、簡単にできたわけではなく、幾多の変遷を経た結果なのです。では、その変遷を現在から遡ってみていくことにしましょう。

地図1
i 現 在
地図2
ii 昭和33年以前
地図3
iii 昭和25年以前
地図4
iv 昭和20年以前
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iは皆さんご存じの現在の路線。この路線に落ち着いたのは昭和33年のことでした。

iiそれまでは、東松江から北島までのたった2区間の「支線の支線」がありました。

iiiその「支線の支線」は、昭和25年までは紀の川を渡り和歌山市駅につながっていたのです。そして同じ和歌山市駅でありながら、加太線の和歌山市駅はすこし場所が離れているのがわかるでしょうか。

iv紀ノ川〜東松江間が完成したのは昭和19年。そのころは貨物専用線でした。当初加太線は独自の紀の川橋梁を持った、本当に「和歌山市〜加太間の鉄道」だったのです。そして始発駅の名は「和歌山口駅」。和歌山市駅とは違う駅だったのです。

II.加太線略史

それでは次に加太線の歴史を、順を追って見ていくことにしましょう。

1.加太軽便鉄道時代
年月日できごと
明治29年1月(1)加太鉄道申請(野崎村北島〜加太)
明治42年10月28日(2)申請(43年8月4日付軽便鉄道法による申請に変更)
明治44年1月10日会社設立
明治45年6月16日(3)和歌山口(北島)〜加太間開通
明治45年6月23日(4)開通宴開催(加太駅車庫)
大正2年1月20日和歌山市駅への線路延長の免許申請
大正3年9月23日(5)和歌山口(二代目)まで延伸

明治29年、日露戦争後の起業ブームの頃、加太までの鉄道が始めて申請されます(1)。しかし、この時は許可されていません。同じ年には和歌山〜山東間の鉄道も申請され、同様に不許可となっています。

実際に動き出したのは明治42年。基準が厳しい私設鉄道法に基づく申請がなされていました。しかし翌年、基準の甘い「軽便鉄道法」が公布されるや、急遽申請を変更、軽便鉄道としての建設に変更しました(2)。

そして、山東軽便開通に先んじること4年、明治末年6月16日ついに「加太軽便鉄道」が開通。しかしこの時の始発駅「和歌山口駅」は紀の川の北、現在の北島にありました(3)。紀の川橋梁の建設が後回しになったのは、資金難とルートの未決定が主な原因だったようです。

ちなみに開通記念式典というかイベントは、なぜか一週間後の6月23日、それも終点加太駅の、おまけに車庫で行われたとのことです(4)。関係者だけの祝宴だったのでしょうか。それとも加太の住民だけを招いて・・・・? そういえば、加太駅があんな町はずれにあるのは住民の反対が原因だと聞いたことがあります。一週間遅れの祝宴にはそのへんも関係しているのかもしれませんね。内容はというと、山東軽便鉄道同様、芸人を招いての喜劇だったようです。

大正3年9月23日、加太軽便はついに紀の川を渡ります(5)。ただ和歌山市域(当時)に乗り入れたばかりではなく、和歌山市の玄関であるターミナル・和歌山市駅への接続を果たします。ちなみに、山東軽便が延伸して省線和歌山駅(現紀和駅)に接続するのは、この3年後。この時点で加太軽便は山東軽便に大きく水をあけた、と言えるでしょう。

このころの加太軽便はどんなだったのでしょうか。当時を偲ぶ資料をいくつか見てみましょう。

加太軽便蒸気機関車
加太軽便蒸気機関車
加太軽便時刻表
加太軽便時刻表
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ごらんのとおり1時間に1本、小さな蒸気機関車がのんびり走っていました。その点では山東軽便とあまり変わりません。しかし大きな相違点がその沿線にありました。「軽便鉄道敷設特許願」にはこう書かれています。

「(前略)抑も加太町は人口約八千人を有し、日用の雑貨は多年の習慣としてこれを和歌山市にあおぎ港湾の便よろしく淡路、四国、大阪等の連絡要港にあり。殊に有名の淡島神社は参詣者おびただしく、深山重砲連隊もまた設置せられ、旅人の出入頻繁なり。(後略)」

加太軽便のルートは加太(淡島)街道に沿っています。終点加太の淡島神社は全国淡島信仰の総本山。その他にも、西庄には6世紀にまで遡れる由緒正しい八幡宮のひとつ木本八幡宮、大川には浄土宗々祖円光大師自作の大師像を安置する報恩講寺と、著名な神社仏閣が目白押し。信仰と観光を目的とする人々が引きも切らずに訪れたのです。

そして、忘れてはならないのが、明治27年からある由良要塞深山重砲兵連隊。深山地区は一般人の立ち入りは禁止されていましたが、連隊の兵営があり、それ自体が街を形成していました。加太軽便は和歌山から、また全国から同連隊への物資輸送の要となったのです。大正9年に加太〜深山間が県内で2本目の国道に指定されていることからも、加太軽便の重要性がわかります。

また、夏には磯ノ浦へ向かう海水浴客が押し寄せました。和歌山新報のタイアップもあり、すし詰め状態で動かなくなった汽車を乗客が降りて押したこともあったようです。

当然、営業成績も好調そのもの。恐慌など時代の要因はあるものの乗客数はほぼ順調に増加。大正6年を100とする乗客人員増加率を山東軽便と比べるとその差は歴然です。

加太軽便鉄道乗客人員の推移
加太軽便鉄道乗客人員の推移
加太・山東軽便の乗客人員増加率
加太・山東軽便の乗客人員増加率
※大正6年を100とする
2.加太電鉄〜南海〜近鉄
年月日できごと
昭和5年12月1日(6)600V電化、東松江・西庄駅新設、加太電気鉄道に社名変更
昭和17年2月1日(7)南海鉄道に合併される 南海鉄道加太線に
昭和17年4月11日(8)住友金属和歌山製鉄所開所
昭和19年5月(9)南海鉄道は関西急行鉄道と合併、近畿日本鉄道に
昭和19年10月1日(10)紀ノ川−東松江間に貨物線(松江支線)が開業
昭和22年6月(11)近畿日本鉄道から南海電気鉄道が分離
昭和25年7月25日(12)旅客輸送が新線経由に切替、旧線和歌山市〜東松江間は「北島支線」に
昭和25年9月3日(13)ジェーン台風上陸 北島支線紀の川橋梁損傷(和歌山市〜北島間運転休止)
昭和30年2月14日(14)北島支線の和歌山市〜北島間が廃止
昭和41年11月30日(15)北島支線全線廃止

昭和5年全線を電化、「加太電気鉄道」に社名を変更しています。山東軽便より11年も早い電化でした(6)。

昭和17年。これ以降、重要路線であるがゆえの激動の時代に突入していきます。まずは南海電鉄との合併。南海加太線の誕生です。和歌山口駅も和歌山市駅の一部となります。これは決して営業成績が不良だったわけではなく、より大きな組織で効率よく運行するとともに統制をしやすくすることを目的とした、戦時下という時代の要請でした(7)。

同じ年、加太線の重要性をいや増すできごとが起こります。住友金属和歌山製鉄所の開所です(8)。原材料・製品の輸送、従業員の輸送と、加太線は国家の生命線とでもいうべき役割を担うことになりました。

同製鉄所は人造石油(液化石炭)製造用反応筒の生産を主目的として建設されましたが、戦時下のこと、開所と同時に増産に継ぐ増産。特に海軍の戦艦・戦闘機・魚雷・爆弾にいたるまで様々な材料を軍命で作っていたようです。しかし加太線は所詮軽便鉄道。まもなく輸送力の限界を向かえます。紀の川橋梁が輸送需要に耐えられなくなってきたのです。そのため、本線紀ノ川駅〜東松江駅間に新線「松江支線」を敷設、これを貨物専用線とし、貨物車をすべて本線の紀の川橋梁を経由することにしました。これが現在の加太線ですね。敷設者は近畿日本鉄道だったんです(9・10)。

3.その後の南海加太線

昭和20年近鉄加太線は終戦を迎えます。22年、再び南海加太線として再出発(11)。

深山の兵営は失われましたが、戦後復興の立役者となる製鉄所、一般に開放された旧由良要塞の友が島への観光などのおかげで、再出発後も引き続き重要路線であることに変わりありませんでした。また、沿線の人口増もあいまって、着実に乗客を増やしていきました。昭和40年代前半までは・・・・。

さて、平和な時代を迎えてなお、加太線の激動の歴史は続きます。昭和25年、これまで貨物のみ新線経由であったのですが、旅客も新線経由となります。これにより加太線は現状と同じく紀ノ川駅起点に変更されました。しかし旧線は廃止とはならず、和歌山市〜東松江間の「北島支線」として存続します(12)。

が、それも束の間、同年ジェーン台風により北島支線の紀の川橋梁が損傷、北島支線は北島〜東松江間の盲腸線になってしまいます(13)。そして北島〜和歌山市駅間は休止したまま時が過ぎ、昭和30年、復旧することなく廃止されてしまいます。残った盲腸線も昭和41年、国道バイパス建設に伴い廃止されます。式典もなく、詰めかけるファンもない、日常どおりの廃止日だったようです。

この北島支線、全廃まで旧式の電車が1両編成で走っていました。しかし当時のJTB時刻表には収録されていません。路線図にも載っていません。外部にその存在が、あまり知られていない路線ということになります。沿線住民、住金通勤者のためにだけ南海が残してくれていたのでしょうか。

III.2つの和歌山口駅

加太軽便時代、始発駅は「和歌山口駅」といいました。しかし、紀の川橋梁完成前と後、2つの和歌山口駅がありました。それぞれについて見てみましょう。

1.紀の川架橋後の和歌山口駅−和歌山市駅むかしむかし−
和歌山市駅周辺の変遷(いいかげん)

順番が逆ですが、まず、紀の川橋梁完成後の和歌山口駅を見てみましょう。そう現和歌山市駅です。

加太軽便和歌山口駅は現在の和歌山市駅の車庫付近にありました。一方南海和歌山市駅は駅舎が現在のバス車庫の辺り、ずいぶん西にありました。終戦後すぐの航空写真で確認すると、両駅をつなぐ跨線橋は、それぞれの駅舎から遠く離れたホームの端にあり、乗り換えは大変だったようです。

市電を利用するときは和歌山市駅下車ではなく、杉の馬場を利用していました。そのため和歌山口駅は「杉の馬場駅」とも呼ばれていたようです。

そしてこの状況は南海合併後、和歌山市駅に統一されても変わらず、昭和25年の旅客ルート切り替えまで続きます。

二代目和歌山口駅(昭和7年頃)
二代目和歌山口駅(昭和7年頃)
(株)郷土出版社「紀勢本線の70年」より

2.紀の川架橋前の和歌山口駅−初代和歌山口駅は北島駅か−

では、初代和歌山口駅はどこにあったのか。多くの資料には北島駅がそうであったと記されています。紀の川渡河に際し、そのまま線路を延ばせばいいのですから無駄がありません。しかしほんとにそうだったんでしょうか。初代和歌山口駅ができた時は渡河ルートは未定だった上、時代が下った北島支線廃止時でさえ、北島駅周辺は一面のハス池だったらしいです。そんなところに始発駅があったんでしょうか。

ちなみに南海本線も当初、終着駅は「和歌山北口駅」といって紀の川北岸、堤防に近い粟地区にありました。しかし、資料では紀ノ川駅と混同されているものが多いのが現状です。和歌山口駅も同様では・・・・。

当時の新聞に、こんな記事が出ていました。

●和歌山新報(大正3年9月19日)
加太輕鐵紀の川鐵橋一昨日試運轉の結果好成績を示したるを以て(中略)尚ほ賃銀は同會社の申請額 杉の馬場より和歌山口まで 三銭にして其儘許可となることなるべし
●和歌山新報(大正3年9月23日)より
加太鉄道は昨日まで、紀の川の前方、北嶋からでなければ乗車することが出来なかったそれがため北嶋橋を渡るまでは誰れでも億劫で堪えられなかったが、昨日からは杉の馬場市駅の南海プラットと平行した加太のプラットが出来て、それに汽車がペタリと着く、(中略)杉の馬場の駅は和歌山口駅というので、紀の川を渡った北嶋のところが地名をそのままの北嶋駅と改称した、(後略)

これらの記事によると北島駅が初代和歌山口駅であったかように読みとれます。

これに対し紀の川架橋以前の加太軽便が記された地図が見つかりました。もちろん陸軍測量部の地図ではありません。民間出版です。下図がそうです。

大正2年発行の和歌山市街地図
大正2年発行の和歌山市街地図

この地図によると、当初の加太軽便は、島橋駅から紀の川に向けて直進、堤防手前で大きく左に折れて、北島集落と堤防の間に和歌山口駅を設けています。

初代和歌山口駅から堤防をあがったところには、当時木橋であった北島橋が架かっています。木橋の北島橋は、現在鉄橋北島橋が架かっている位置よりずっと西寄りで、昭和11年まで石橋丁と北島集落を結んでいました。つまり、和歌山口駅は、紀の川北岸で当時の和歌山市域にもっとも近い場所にあったのです。

ちなみこの地図、発行者は本町一丁目の津田源兵衛氏。実はこの方、中ぶらくり丁津田書店さんの先々代。津田書店さんは江戸末期創業で代々源兵衛を襲名していたとのこと。時代の空白を埋める貴重な地図が、地元出版社から発行されている、さすが、大都市(だった)和歌山、ですね。

3.和歌山口駅の変遷に関する一考察

次に、初代和歌山口駅から二代目和歌山口駅へのバトンタッチの過程を「和歌山縣海草郡史(大正15年発行)」から拾ってみましょう。

(前略)大正三年二月十五日紀の川鐵橋架設起工式を擧げ、同年九月十五日竣成せしかば同月二十三日より開通するに至り以て南海鐵道和歌山市驛に連接せしが爲め大に運輸の便を得るに至れ。而して舊(旧)和歌山口驛を同三年九月二十一日現位置に移轉す。(後略)
和歌山口駅の変遷
和歌山口駅の変遷

さて、いまいち分かり辛い記述です。紀の川橋梁が9月23日開通であるのに、2日早い21日に、杉の馬場に和歌山口駅を「移転」したのでしょうか。無論この2日間は杉の馬場和歌山口駅を発着する列車はありません。

とすると、「現位置」とは北島駅を指していると考えて差し支えないと思われます。駅を廃止したというよりは、同じ大字北島地内で駅を移転した、ということでしょう。

さて、紀の川橋梁開通2日前に営業を開始したこの新線上の駅、9月21日から「北島駅」だったのでしょうか。それとも2日間だけ「和歌山口駅」だったのでしょうか。前掲の和歌山新報の記事も考えあわせると、和歌山口駅であった可能性も捨て切れません。残念ながら、どちらであったかを確定するだけの資料は見つかりませんでした。しかし、ここでは9月21日の移転当初から「北島駅」であったと考えます。昭和43年、国鉄和歌山駅の名が1ヶ月間消えたのと同じ「襲名披露」の儀式がたった2日間ではありますが行われたのではないでしょうか。

IV.廃線跡東松江〜和歌山市間探訪

廃線になってしまった北島支線即ち東松江〜和歌山市間。現在はどうなっているのでしょうか。東松江〜北島間で39年、北島〜和歌山市間で50年の時が過ぎ去っています。しかし、意外なほど、その区間は道として残っています。そう、皆さんご存じの河西橋もその一つ。では、実際に歩いてみましょう。もしかしたらあなたの家は加太軽便鉄道の駅があったところに建っているのかも知れませんよ。

1.東松江〜和歌山市間

東松江駅を駅舎とは反対側に降りてみましょう。歩道というか、軽車両道というか、いずれにしろ細い道が、線路に沿って東へ延びています。これが北島支線跡。この道(?)は道路ではありません。市有地だとは思うのですが。ちなみに、東松江駅の南側にはかつて住友金属和歌山製鉄所への貨物引込み線が引かれていました。こちらもほとんどが現在道として利用されています。iiの地図を参考に探してみてはいかがでしょう。

廃線跡 東松江〜北島間
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現在の土入川橋梁と平行する橋梁
現在の土入川橋梁と平行する橋梁
島橋駅のあったところ
島橋駅のあったところ
歩道橋から見た認定外道路
歩道橋から見た認定外道路
歩道橋から見た市道野崎139号線
歩道橋から見た市道野崎139号線
紀の川橋梁(現河西橋)
紀の川橋梁(現河西橋)
北島駅のあったところ
北島駅のあったところ

東へ歩いていくと加太線鉄橋に平行にして土入川を渡ります。この橋の橋台は東西両方とも当時そのままのレンガ積み。そのまま歩いていくと、広い道にでます。その向こう、読売新聞販売店舗のあたりからが島橋駅。駅跡はすべて家が立ち並んでおり、まったく痕跡はありません。ここまでの道は島橋から東松江駅への抜け道のような存在で、今も多くの人が利用しています。

島橋駅を過ぎると、線路跡は不思議な道に変わっています。ここは市道ではない市有道路「認定外道路」。国道26号線まで、市道野崎住宅6号線に家1件分はさんで並行しています。アスファルト舗装された道ですが、路上駐車しまくり。それもそのはず、終点は国道の歩道が通せんぼしていて袋小路。車両の通り抜けはできません。市道沿いの家が駐車場代わりに使っているようです。

国道26号線と交差しているところは、まるで線路跡に沿うように歩道橋が架けられています。支線廃止時、通勤手段を奪われる利用者の便を図るため、こうしたのでしょうか。今となっては公共性が薄れ車庫化した道と、誰も利用しない歩道橋が、ここに線路があったことを主張するかのように、ただそのためだけに一直線に伸びています。

国道より東側は市道野崎139号線。この道、地図等で見るとわかるのですが、スーパーヒラマツのあたりでわずかに右に屈折し、「く」の字になっているのが分かるでしょうか。開業当初の加太軽便は屈折せず、まっすぐに紀の川堤防を目指していました。紀の川架橋に際し、枝分かれするように新線を建設したため、このような屈折した路盤が残ったのです。北島支線はこの小さな屈折を超え、県道和歌山港北島線に突き当たります。ここに北島駅がありました。ホームの土台まで枕木を利用した、完全木造のちっぽけな駅が、蓮池だらけの中にぽつんと建っていました。

県道から向こうは再び道ではなくなっています。これも市有地なのでしょうか。でもこの道(?)も途中で行き止まり。すこし民有地をはさんだ後、紀の川堤防へ上がります。ここからは市道市駅湊線。まずは小さな橋。これも当時のレンガ製橋台がそのまま残っています。そしてそれに続く紀の川橋梁は現河西橋。台風による損傷で今も1本の橋脚が傾いたままですが、多くの人、軽車両が行き交い、陸上部のレンガ製橋脚は90年以上を経た今も、その堅牢さを見せつけてくれます。

紀の川を渡り終えた線路跡は、和歌山市駅へ向け堤防の急な坂道を下ります。これが、かつて海水浴客が降りて押したという急勾配。まぁ、納得ですね。坂を下りると目の前は南海電鉄の電車区。そこが二代目和歌山口駅。駅舎は現在月極駐車場になっているあたりです。

廃線跡 北島〜和歌山口間
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2.分岐点〜初代和歌山口間
初代和歌山口駅があったところ
初代和歌山口駅があったところ

さて、市道野崎139号線のヒラマツあたりで直進していた、元祖加太軽便の廃線跡はどうなってるのでしょうか。存続期間はたったの2年、廃止後93年の時を経て、残念ながらその痕跡は何も残っていません。初代和歌山口駅のあったところもびっしりと家がたちならんでいます。加太軽便と機能的につながっていた旧北島橋も、昭和2年から始まった河川改修が行き届き、詳しい場所は特定できません。

ただ、初代和歌山口駅のあったところから堤防にあがると、南海和歌山ビルがすぐ近くに見えます。暫定とはいえここに始発駅を設けるのは、やはり必然だったんだなあと納得してしまいます。

さて、駅跡地に建つ家々に住む人々のうち、はたして何人が、ここに始発駅があったことをご存知なんでしょうか。

おわりに

加太駅舎
加太駅舎

南海加太線も他の地方鉄道同様、昭和40年代中頃からモータリゼーションの進展に伴い、利用者数は一転下降線をたどり始めます。

加太軽便鉄道は山東軽便鉄道と同じく、紛れもなく、地元資本が育てた鉄道です。しかし、いつしか「大手企業が運営し、大手企業が利用する、私たちには関係のない鉄道」と考えてしまってはいないでしょうか。「大手企業が運営しているが、乗るのは私たちしか・・・・」の貴志川線の方がまだましなのかも。

貴志川線の次は加太線かもしれません。そうなった時にがんばれるだけの意識をいつも持っておきたいですよね。「自分たちの鉄道」。その意識を持つきっかけはいろいろあるでしょうが、歴史を知ることもひとつのきっかけだと思います。

レンガ積みの紀の川橋梁橋脚の他、本文では触れませんでしたが明治末年の開業当時の駅舎が残る終点加太駅など、所謂「近代化遺産」が今も活躍しています。南海加太線はいわば和歌山の鉄道博物館。一度じっくり腰を据えて、乗ってみてはいかがでしょう。まずは25分のエクスカーションから始めませんか。

参考

《出典》
  • 大正年間の営業成績・・・・和歌山県史近現代一
  • 加太軽便鉄道の時刻表・・・・日本旅行文化協会汽車時間表大正14年4月号
  • 加太軽便蒸気機関車・・・・和歌山県史近現代一
  • 二代目和歌山口駅・・・・紀勢本線の70年−きのくに線と紀州路の私鉄−
《地図等》
  • 地理調査所発行5万分の1地形図(和歌山)昭和23年7月30日発行(昭和9年修正測量(二回目) 昭和23年資料修正(行政区画のみ))
  • 地理調査所発行5万分の1地形図(和歌山)昭和26年3月30日発行(昭和24年応急修正)
  • 国土地理院発行5万分の1地形図(和歌山)昭和36年7月30日発行(昭和33年要部修正)
  • 国土地理院発行5万分の1地形図(和歌山)昭和53年8月30日発行(昭和53年修正測量)
  • 和歌山市街地図(渥美友諒編 津田源兵衛刊 大正2年発行)
  • 国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省HPより
《参考資料》
  • 和歌山県史(和歌山県発行)
  • 和歌山市史(和歌山市発行)
  • 和歌山縣海草郡史(大正15年5月31日発行)
  • のざき郷土誌上巻(野崎地区郷土誌編さん委員会 昭和54年10月1日発行)
  • 和歌山製鉄所40年の記録(住友金属和歌山製鉄所 昭和57年4月発行)
  • 鉄道ピクトリアルNo.457、No.615(鉄道図書刊行会 1985年12月号、1995年12月号)
  • 紀勢本線の70年−きのくに線と紀州路の私鉄−(郷土出版社発行 1996年10月26日)
  • 南海七十年のあゆみ(南海電気鉄道(株) 昭和32年10月15日発行)
  • 南海電気鐵道百年史(南海電気鉄道(株) 昭和60年5月10日発行)
  • 和歌山新報
  • 紀伊毎日新聞

このWebサイトで掲載している地図は国土地理院長の承認を得て、同院及び地理調査所発行の5万分の1旧版地図を複製したものである。(承認番号 平17近複、第74号)

(2005.10)
(執筆者の所属、役職等は発表当時のものです)

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