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紀州 in 東京(紀州藩江戸屋敷)

研究部長  中山 健太

健康づくりで散歩をする中高年の人を多く見かける昨今です。いつも決まったお気に入りのマイ散歩コースを歩む人もいますし、地図を片手に知らない道を辿って名所旧跡を探索する人もいます。私も東京勤務時代に週末は健康とリフレッシュを兼ね、地図・案内書に導かれて散歩した口です。

散歩の途次、立ち寄った神社仏閣・名所旧跡などに設置されている説明・案内板を読んでいると紀州ゆかりであることに“そうだったのか!”と関心を惹かれることが度々ありました。
そりゃそうですよね、紀州には古より全国に信者をもつ寺社があり、江戸時代には55万5千石の徳川御三家(それも御三家の藩主から将軍位についたのは紀州藩だけ〈8代将軍吉宗と14代将軍家茂〉)だったのですから、明治維新から1世紀半経過したとは言え、東京に紀州ゆかりの事物がいろいろあってしかるべきでしょう。
東京一極集中の流れのなかで、東京には紀州ゆかりがこれだけあるのだとお国自慢したくなり、一度探してみようと思い立ちました。

今回は紀州藩の江戸屋敷について探してみました。

1.紀州藩の江戸屋敷

江戸屋敷は大名が江戸に所有した屋敷の総称で、幕府から下賜された拝領屋敷のほか、自ら購入した買得屋敷があった。拝領屋敷には藩主が住む上屋敷や、藩主が隠居後に住む目的であったり、国許からの物資貯蔵所、火事のときの避難所等に使用された中屋敷・下屋敷がありました。江戸城に近い方から上・中・下と位置するのが基本パターンだったようです。登城に便利だったからでしょうね。

明治2年の江戸における武家地の割合は7割で、その過半は大名の江戸屋敷ということでしたから、江戸屋敷は江戸の町を構成する大きな要素でした。その中でも御三家の屋敷は数・面積とも最大級であったと想像できます。

さて紀州藩の江戸屋敷ですが、江戸時代の古地図・切絵図やら現代の地図、書籍・ネット情報などから探してみました。
探し始めた当初は、比較的良く知られた赤坂邸や麹町邸の他1〜2程度かなと思っていたら、あれもこれも“そうだったのか!”と数が増えました。流石、紀州藩ですね。
探してみますと、江戸時代を通して同じ場所に藩の屋敷が存在し続けたのではなく、火事で焼失したり、幕府から屋敷替を命じられたりと屋敷毎に変遷がありました。

後日、分かったことですが、「南紀徳川史」(堀内信編、南紀徳川史刊行会。初版が昭和8年、復刻版が昭和47年)に詳細な記録が掲載されていました(この遠回りが素人の力量不足)。
「南紀徳川史」は第14代藩主茂承により明治21年に編纂開始、旧紀州藩士の堀内信が編纂、明治34年(1901年)完成。
掲載されている屋敷には大小・軽重・所有期間の長短・経緯・場所などいろいろありますが、全部で30位掲載されています。ここでは代表的な10箇所の屋敷を取り上げました。

新宮藩水野家の屋敷も市谷の上屋敷をはじめ4箇所探しましたが、今回は紙面の都合上、割愛しています。田辺藩安藤家の屋敷は未だ探せていません。

(1)竹橋邸(千代田区千代田)

「和歌山県史」に、元和元年(1618年。徳川頼宜が初代紀州藩主になったのは1619年)拝領、明暦3年(1657年)の大火・振袖火事で焼失、その後、麹町邸(後述)と替地とあります。

寛永江戸図・武州豊嶋郡江戸庄図
寛永江戸図・武州豊嶋郡江戸庄図(寛永9年1632年)

竹橋邸(この名前は「和歌山県史」に準拠)の場所ですが、寛永江戸図「武州豊嶋郡江戸庄図」(寛永9年1632年)を見ますと、現在の皇居東御苑に残る天守閣跡に立派な天守閣が描かれており、その西側の紅葉山(図では「もみち山」)の背後に「紀伊大納言」の屋敷地が「水戸中納言」「尾張大納言」と並んで記載されています。乾濠の西側、現在の吹上御苑の中だったのではと推測できます。
残念ながら中に入れて貰えませんので屋敷の名残を探すことは出来ません(写真なども見たことないから跡形も無いのでしょう。

現在も竹橋は残っていて、近くには地下鉄東西線竹橋駅があります。竹橋から屋敷へは長くなだらかな上り坂で紀伊国坂と言います。
右手には東京国立美術館や国立公文書館があり、武道館のある北の丸公園へと続きます。随分長いアプローチだったのですね。
今昔の地図を見比べますとどちらにも、本丸跡(現皇居東御苑)と紀伊国坂を結ぶ北桔橋が見られ、屋敷のあった位置を推測することができます。

屋敷の写真(これは当り前)も跡形も無いと書きましたが、友人が参考にと紹介してくれた本「江戸図屏風の謎を解く」(黒田日出男、角川選書)を読んでびっくり。
「江戸天下祭図屏風」(六曲一双、個人蔵)には、山王日枝神社の山王祭(天下祭とも称す。)の行列が江戸城内を練り歩く光景を描いているが、景観時代は明暦の大火以前であろうと推理し、城内の御屋敷の中でもっとも大きく詳細に描かれているのが紀州徳川家上屋敷であるとされていました。
更に、この屏風は頼宣公から正室の瑤林院(加藤清正の娘・八十姫)への贈物であったのではと推理を進めています。この屏風は個人蔵ですから拝観することはできませんが、この本に屏風写真が掲載されています。

北桔橋から紀伊国坂方面の眺め(平川濠)
北桔橋から紀伊国坂方面の眺め(平川濠)
北桔橋から吹上方面の眺め(乾濠)
北桔橋から吹上方面の眺め(乾濠)
(2)赤坂邸(港区元赤坂)
分間江戸大絵図
分間江戸大絵図
(文政11年1829年須原屋茂兵衛版)

寛永9年(1632年)拝領。145,381坪あり、紀州藩江戸屋敷の中で最大規模。当初は中屋敷でしたが、当時の上屋敷・麹町邸(後述)が文政6年(1823年)の火事で焼失した後は実質上の上屋敷となりました。
明治4年(1871年)廃藩置県で和歌山県知事を免職となった旧紀州藩主茂承夫妻が和歌山から上京(旧藩主は華族となり東京に集められたため。)して住まわれたのはこの赤坂邸でした。
明治6年(1873年)皇居として使用されていた江戸城西の丸が火事で焼失したため、茂承は即日参内、赤坂邸を帝室に献納、後日、金2万円を賞賜されました。

その後、明治天皇は先帝孝明天皇の皇后英照皇太后を手近にお迎えしたいとのことで、茂承は自分達の住んでいた赤坂邸の南西部(後の青山御所)の地所も渡してしまいました。
明治21年(1888年)新皇居が落慶するまで、この赤坂邸を皇居として明治天皇がお住いになりました。恐らく、旧藩邸が皇居となったのは紀州藩江戸屋敷だけではないでしょうか。
なお、茂承は明治6年に麻布区飯倉6丁目14番地の土地(上杉伯爵邸)を購入し引き移った。後述する南葵文庫や南葵楽堂を建てた場所になります。
この辺りの経緯については「頼貞随想」(徳川頼貞遺稿刊行会編)を参考にしました。

赤坂邸の面積ですが、「和歌山県史」には145,381坪とありますが、「頼貞随想」によると赤坂邸だけで145,381坪であり、追って渡した青山御所の分35,187坪を併せると18万余坪になるとあります。しかし、「南紀徳川史」では35,187坪は内数であり、頼貞公の認識は違っていたのではないだろうか。

「火事と喧嘩は江戸の華」と言われますが、この赤坂邸は寛文8年(1668年)から天保6年(1835年)の167年間に9回も火事がありました。

横道に逸れますが、NHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国」の江姫の長女・千姫(父親は2代将軍秀忠)が出家し、天樹院となって住んだ竹橋の屋敷を正保元年(1645年)の江戸絵図に見ることができます。彼女の屋敷も明暦3年の振袖火事で焼失、一時紀州徳川家の屋敷に身を寄せたとあります。この屋敷は赤坂邸だったのではないでしょうか。

迎賓館
迎賓館

JR四谷駅から青山1丁目にわたる広大な屋敷跡地は、現在、ほぼそのまま赤坂御用地となり、東宮御所(皇太子御一家)・各宮家邸(秋篠宮邸、三笠宮邸など)・赤坂御苑(天皇主催の園遊会などの会場)・迎賓館(旧赤坂離宮)などとして使用されています。

紀州徳川家の実質上屋敷として使われた江戸屋敷であり、明治前期には皇居ともなったこの赤坂邸の屋敷を見物したいものですね。そんなこと不可能、建物自体が消滅しているものとばかり思っていました。
明治32年(1899年)日光田母沢に大正天皇(当時は皇太子)の御静養地が造営された際、なんとこの屋敷(花御殿と呼ばれていた)の一部が、移築されていました。
これが平成12年記念公園として整備され公開されています。

迎賓館東門(大名屋敷の門)
迎賓館東門(大名屋敷の門)
安鎮坂に面する御用地正門(右手)
安鎮坂に面する御用地正門(右手)
(3)麹町邸(千代田区。現町名は紀尾井町)
江戸切絵図
江戸切絵図(嘉永3年1850年、尾張屋板)

明暦3年(1657年)振袖火事の後に拝領。
文政6年(1823年)に焼失するまで紀州藩上屋敷でしたが、その後再建されず、嘉永3年(1850年)尾張屋板の切絵図によると紀州藩中屋敷となっています。

戦前、この屋敷地には朝鮮の李王家邸がありました。現在はグランドプリンスホテル赤坂(通称“赤プリ”)です。ホテル敷地の一角、弁慶堀北詰に「紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡」の石碑が建てられています。
ホテルは今年3月末閉館(東日本地震被災者の受入施設に一時転用)しましたが、石碑は残しておいて欲しいものです。

屋敷の北西部は現在の千代田区立清水谷公園になっていますが、屋敷地から清水が湧き出ていたことから「清水谷」とネーミングされました。清水は枯れていますが復元された井戸が設置されています。

弁慶橋東詰の紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡の碑
弁慶橋東詰の紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡の碑

また、公園内には「贈右大臣大久保公哀悼碑」が建立されています。説明板には「明治11年(1878年)5月14日朝、麹町清水谷において、赤坂御所へ出仕する途中の参議兼内務卿大久保利通が暗殺されました。」とあります。「紀尾井坂の変」と呼ばれた大事件の現場となった所でもあります。

この事件に先立つ明治7年(1874年)には紀尾井坂上で岩倉具視が襲撃された赤坂喰違門事件が発生していました。岩倉は堀の中に身を投げて一命を取り止めたとか。何とも物騒な場所だったのでしょうね。

清水谷公園から“赤プリ”の眺め
清水谷公園から“赤プリ”の眺め
“赤プリ”旧館(旧李王家邸)
“赤プリ”旧館(旧李王家邸)
(4)千駄ヶ谷邸(渋谷区千駄ヶ谷1丁目)

嘉永3年(1850年)尾張屋板の切絵図には紀州藩下屋敷とありますが、幕府からの拝領ではなく買収により入手した抱屋敷でした。「南紀徳川史」でも入手時期・目的などは不明とありますが、「渋谷区史」によると『米沢藩上杉家家臣宮崎弥平次の抱屋敷を宝永6年(1709年)紀伊家家臣福原次左衛門の手を経て、正徳2年(1712年)紀伊家抱屋敷となった。』とあります。

江戸切絵図(文久2年1862年、尾張屋板)
江戸切絵図(文久2年1862年、尾張屋板)

「復元江戸情報地図」によると、千駄ヶ谷邸は紀伊殿抱屋敷とあり“観如院”と併記されています。観如院という名前は12代藩主斉彊(1820年〜49年)の正室(近衛忠熙の娘・豊子)です。

藩主斉彊が御逝去の後、観如院はこの千駄ヶ谷の地に住まいしていたのではなかろうかと推測したのですが、「南紀徳川史」に面白いことが書かれていました。弘化4年(1847年)観如院へ譲ったと、これは、当時、紀州徳川家の屋敷が7箇所を超える事態が出来し、制限外であるため(幕府からの制限か?)どうやら名義を一工夫しようとしたのではないでしょうか。

この屋敷跡地は現在のJR千駄ヶ谷駅南側・東京体育館の辺りから鳩森神社に至る地です。
明治になると経緯は不明ですが、この広大な屋敷地は徳川宗家の所有となります。江戸城開城で大奥を出た天璋院篤姫は都内を転々とした後、この地に永住し、16代家達(明治4年の廃藩置県で静岡藩知事免職、千駄ヶ谷で暮らす。当時8歳)を養育しました。推測ですが、静岡藩知事を解任された家達が東京で住むための屋敷を紀州徳川家の千駄ヶ谷屋敷に求めたのではないでしょうか。
昭和18年(1943年)、紀元2600年記念事業として東京都が「武道館」建設の候補地として、宗家との間で譲渡が成立。
戦争のため武道館は建設されないまま終戦、昭和29年に東京体育館が建設されました(武道館は、昭和39年皇居北の丸にあった家達の生家である旧田安家跡地に建設された)。

鳩森神社(富士塚)
鳩森神社(富士塚)

鳩森神社(参道)
鳩森神社(参道)

東京体育館
東京体育館

「花葵徳川邸おもいで話」(保科順子、毎日新聞1998年)では、徳川宗家の屋敷地になった経緯を著者(17代家正の三女)が、家達の娘2人(綏子・綾子)にインタビューしていますが、「よく分からない」と答えています。
紀州徳川家が宗家へ譲渡したのではないだろうかと推測していたら、「南紀徳川史」には明治4年“千○弐拾五両”(明治4年に貨幣単位が円に移行)にて民間人へ売却とありました。その後、直ぐ、徳川宗家の本邸となりました。一旦、民間人に売却してワンクッション置いたでしょうか。
また、この「花葵」によると、徳川宗家の時には南は原宿まであり10何万坪であったとか。

JR新宿駅南口を甲州街道に沿って西へ下った西新宿1丁目交差点付近には京王線の「葵橋駅」(葵橋は玉川上水にかかっていた橋)が大正年間にあったことや、今も甲州街道の南側に平行して「葵通り」があることが当時の名残なのでしょう。
葵橋跡には東京都水道局の建てた碑があり、「葵橋の記」という説明板に「この橋の名前は、この辺りに紀州徳川家下屋敷のあったことに由来する。」とあります。

それを確認する資料が「千駄ヶ谷昔話」に記載されていた昭和初期の町内略図です。現在の甲州街道(国道20号線)・西新宿1丁目交差点の南側には街道に平行して玉川上水が流れていました(現在は蓋をされて道路)。
玉川上水には堰が設けられ、取水口があり、トンネルとなって紀州家の池へ流れ込み、更に池の余り水は、トンネルを潜って下流へと流れていたとあります。
この御屋敷跡はJR東京総合病院(旧鉄道病院)の辺りになります。

「復元江戸情報地図」を見ていると紀伊殿と記載のある屋敷地が他にもみられます。
一つは現在の千駄ヶ谷3丁目辺りです。ここを「牛込四谷淀橋周辺江戸切絵図」(新宿区教育委員会)でみると“紀三井河内守”とあります。
信濃町駅南に今ある「一行院」の南西角には“紀久野丹波守”とあります。紀州徳川家の重臣たちの屋敷だったのでしょうか。

(5)芝邸(港区海岸1丁目)
江戸切絵図
江戸切絵図(嘉永2年1849年、近江屋板)

港区芝の浄土宗大本山増上寺(歴代徳川将軍の墓所でもあります。)の三解脱門を出て芝大門を潜り、真っ直ぐ東の海岸に向かうとJR浜松町駅の東側に旧芝離宮恩賜庭園があります。

少し北にある浜離宮恩賜庭園が徳川幕府直轄であったことや、敷地が広大なためその名がよく知られていますが、この旧芝離宮恩賜庭園は都会の中のオアシスのような雰囲気をもつ、こじんまりと落ち着いた名庭園です。
嘉永2年(1849年)近江屋板の切絵図によると紀伊殿とあります。庭園の案内書には「物資を貯蔵・管理する蔵屋敷の役割ももっていました。敷地の北側には多くの米蔵が建てられ…」とあります。
この屋敷地は、延宝6年(1678年)老中大久保忠朝が拝領した上屋敷で、造園に努め庭園の基礎を造りました。その後、堀田家・徳川清水家の屋敷を経て、弘化3年(1846年)に紀州徳川家芝御屋敷(格は下屋敷)となりました。
この年、徳川清水家当主の斉彊が12代紀州藩主として就任、この屋敷も紀州徳川家に移ったのです。

明治5年には有栖川宮邸として使用され、明治8年宮内省が買い上げ、翌年、芝離宮とした。
明治24年には迎賓館が建設されたが、関東大震災(大正12年1923年)で焼失、翌年、昭和天皇御成婚記念として東京市に下賜されて恩賜庭園となり、一般公開されるようになりました。

「南紀徳川史」に、明治元年、東京府庁から朝廷御用のため屋敷の見積を出せとのことで、49,500円の見積書提出したのですが、明治3年には差上とあります。明治新政府の大名屋敷の取扱施策が朝令暮改で変更されていたのでしょうね。屋敷差上の半年前には、87坪を鉄道御用地として差し上げています。汽笛一斉、新橋から横浜までの鉄道線路用地を提供したのですね。

芝離宮恩賜庭園
芝離宮恩賜庭園(高層ビルの辺りに蔵があったのかな)
芝離宮恩賜庭園
芝離宮恩賜庭園
(6)木挽町邸(中央区銀座1-19・20、2-12〜16)
寛永江戸図・武州豊嶋郡江戸庄図
寛永江戸図・武州豊嶋郡江戸庄図(寛永9年1632年)

拝領時期が定かではないのですが、慶長17年(1612年)という説もあり、そうなると一番古い紀州徳川家の江戸屋敷かもしれません。
「南紀徳川史」によると、この屋敷は前後両度御拝領とあり、何故か宝永5年(1708年)に返上し直ぐ再拝領しています。
紀州から船で海上輸送されてきた物産(松脂、椎茸、鰹節、塩鯨など数十品目)を納入・保管していた蔵屋敷として使用されていました(「江戸史跡事典」新人物往来社)。
大坂冬の陣・夏の陣の2〜3年前ですから、未だ徳川幕府が政権不安定な時代。江戸城を築城し防備を固めることが最優先課題であり、江戸の“町づくり”も急がれた時代。早い段階から蔵屋敷が準備されていたことには、徳川幕府が戦闘集団でありながら、経済的な基盤を固めるための施策にも長けていたことの現われかと関心を惹かれます。なお、物産は紀州家出入りの特権商人(栖原屋角兵衛と紙屋庄八)によって売り捌かれていた。

今はこの蔵屋敷跡(銀座2丁目の東半分に相当)に何の痕跡も残されていません。寛永9年(1632年)の寛永江戸図には「紀伊大納言様御蔵屋敷」が三十間堀の南側に記載されています。
三十間堀には藩が架橋したと言われる「紀伊国橋」が架かっており、対岸には銀貨を鋳造していた「銀座」の表記が読み取れます。この三十間堀は戦後埋立てられてしまいました。「紀伊国橋」も撤去され影も形もありません。
この地図で面白いのは蔵屋敷の南側は直ぐ海として描かれています。江戸初期ですから築地の埋立が終わっていなかったのでしょう。

文政11年(1829年)分間江戸大絵図・栖原屋茂兵衛版にも同じ場所に中屋敷の表示をつけて、紀伊国橋ともども記載されています。寛永江戸図では海であった場所がこの分間江戸大絵図では武家屋敷地となっています。しかしこの屋敷も、この翌年、神田佐久町からの火事で類焼失してしまいます。

右の区画が紀伊徳川家屋敷跡
右の区画が紀伊徳川家屋敷跡
旧三十間
手前から右前方への道が埋立てられた旧三十間堀。
紀伊国橋はこの交差点の左右に跨って架橋されていた。
(7)松涛邸(渋谷区松涛2-10昔の下渋谷村)
分間江戸大絵図
分間江戸大絵図(文政11年1829年須原屋茂兵衛版)

渋谷駅前ハチ公広場から109の右手を通り、東急百貨店本店の左手・栄通りを100mほど進むと右斜めに入る道があります。ここを行きますと谷間のような奥に鍋島松涛公園が見えてきます。
この公園、鍋島と旧佐賀藩主の名前が冠されていますが、紀州徳川家が延宝4年(1676年)に拝領した下屋敷です。公園入口にある昭和8年東京市の説明プレートにも「この辺一帯は、もと紀州徳川家の下屋敷であった」と記載されています。
明治5年に鍋島家は、下屋敷の払い下げを受け、士族授産のため明治9年に茶園を開いて「松濤」の銘で茶を売り出しました。

茶園廃止後、湧水池を中心とする児童遊園として公開され、昭和7年に東京市に寄贈された後、渋谷区に移管されました。(渋谷区HP)

松涛公園
松涛公園

「和歌山県史」には敷地29,400坪とありますので、現在の公園面積が1,519坪ですから当時は遥かに広大であったのでしょう。

文政11年(1829年)分間江戸大絵図・須原屋茂兵衛版で現在の渋谷駅周辺を見ますと、北東部に今も残る宮益坂や御嶽神社があり、その西方に紀伊殿と下屋敷を表す●を付された屋敷地を見つけることができます。

この屋敷の変遷は「新修渋谷区史」に詳しく書かれています。最初に拝領したときは5万坪でしたが、元禄8年(1695年)に分家の伊予西条藩松平右京太夫へ2万坪割渡しました。

(8)築地邸(中央区築地6-20)
江戸切絵図
江戸切絵図(嘉永3年1850年、近江屋板)

文政12年3月の火事で木挽町の蔵屋敷が焼失した後、同年6月旧南小田原町(現在の築地6丁目辺り)にあった旧堀田家中屋敷の敷地(6,320坪)を拝領した(「江戸史跡事典」新人物往来社)。
幕末も近くなると黒船来航など海外からの開国要請が強まる中、幕府は防備と海軍力を強化する必要に迫られます。
築地の紀州藩蔵屋敷は江戸の中心部に近く、海の玄関にあたる好立地であったため、安政3年(1856年)幕府の講武場(幕府の武芸訓練機関。後、講武所と改称。)が設けられたときに、紀州藩は幕府に返上したのではないでしょうか。
翌年、長崎海軍伝習所の一部が移転してきて、講武所の中に軍艦教授所(後、軍艦操練所と改称)が開かれました。勝海舟やジョン万次郎達が教官となり、咸臨丸などが練習船となった時代で、大慌ての海軍創設期でした。

横道に逸れますが、講武所というと時代小説「御宿かわせみ」(平岩弓枝)の主人公・神林東吾が教官として通っていた勤務先として読者には御馴染みだと思います。

この講武所は慶応3年(1867年)の火事で焼失。今度は外国人が宿泊できるようにと民営で築地ホテル館の建設が始まります。
翌年(1868年)の完成前月7月には江戸が東京に、完成翌月9月には慶応が明治に改元されるという正に激動の明治維新を迎えた時期ですね。
この築地ホテル館、残念ながら経営は宜しくなく、明治5年には海軍のものとなり、同年類焼失してしまいます。その後、昭和20年(1945年)の終戦まで、海軍本省、海軍兵学校、海軍軍医学校、海軍経理学校など帝国海軍の中枢機能がここに置かれていました。

紀州藩蔵屋敷があったのは現在の築地市場立体駐車場辺りだと考えられます。築地本願寺の位置は昔のままであることから類推できます。
また、読み取りが困難でしょうが、紀伊殿とある屋敷地の左下、築地川支流に沿って小さな四角い囲みがあります。これは波除稲荷神社で今もそのまま残っています。

「南紀徳川史」には、この屋敷の中には熊野三山御寄附金貸付方役所(何の役所でしょう)があり、海に面する所には水芸場が設けられ家中の人々が水練をしていました。

築地市場 海軍経理学校跡碑・市場立体駐車場
築地市場 海軍経理学校跡碑・市場立体駐車場
波除神社と築地立体駐車場
波除神社と築地立体駐車場
(9)蛎殻邸(中央区日本橋蛎殻町2-1)
江戸切絵図
江戸切絵図(安政6年1859年、尾張屋板)

明和6年(1769年)新編江戸安見図にも、文政11年(1829年)須原屋茂兵衛板の分間江戸大絵図にも、箱崎・蛎殻町辺りには紀州徳川家の江戸屋敷はありません。
嘉永3年(1850年)尾張屋板では永久橋北詰の北東側・蛎殻町に紀伊殿下屋敷が、また崩橋北詰・行徳河岸にも紀伊殿下屋敷が確認できます。
その3年後、嘉永6年(1853年)近江屋板になると崩橋北詰の紀伊殿下屋敷が尾張殿下屋敷になっています(明治4年作成の地図でも同じ)。

この2箇所が紀州徳川家の下屋敷に何時なったか?悩まされたが何のことは無い、嘉永3年尾張屋板の出版後、崩橋北詰・行徳河岸の屋敷は尾張殿と訂正されていました。版元が間違ったのでしょうね。

天保14年(1843年)岡田屋嘉七板の御江戸大絵図では蛎殻町だけですので恐らく1830〜40年代頃に紀州徳川家の下屋敷になったのではないでしょうか。この屋敷は隅田川の中洲に面し水運に恵まれた場所ですから、もしかしたら、木挽町の蔵屋敷が類焼失したとき(1829年)、築地に蔵屋敷を拝領しますがやや土地が狭くなることもあって、この地も拝領したではないかと推測できそうです。

ロイヤルパークホテル
ロイヤルパークホテル

この屋敷の現在は、日本橋蛎殻町2丁目のロイヤルパークホテルの辺りに該当します(復元江戸情報地図)。
切絵図に永久橋という小さな橋が見えますが、この橋の南詰に黒く小さく“イナリ”とあります。これは、嘉永6年近江屋板では“永久稲荷”とあります。
永久橋は川が埋め立てられて高速道路となったため無くなりましたが、永久稲荷は現在も日本橋箱崎町に残っていて、東京シティエアターミナルの傍にあります。永久稲荷との位置関係から屋敷跡を推測することもできます。
この永久稲荷、本殿が一般民家のような作りの上、入口が狭く、背の高いブロック塀が目隠しとなるためなかなか見つけるのが困難でした。でも、苦労して発見すると江戸時代が蘇ってくるようで、街歩きの醍醐味を感じます。
江戸に沢山あるものを評する地口(一種の駄洒落)に「伊勢屋稲荷に犬の糞」というのがあるように、江戸には稲荷神社が町の至るところにあり、今昔の地図上で目標探しの目印になってくれます。

永久稲荷
永久稲荷
永久稲荷
永久稲荷
(10)万年橋邸(江東区常盤1〜3、16〜19)
江戸切絵図
江戸切絵図(安政6年1859年、尾張屋板)

幕末の安政6年(1859年)に、松平遠江守下屋敷であったのを紀伊徳川家が深川に所有していた屋敷地と相対替して所有することになった。何故この時期に屋敷地を交換したのかは分かりません。築地を返上したので船荷の上げ下ろしに便利な蔵屋敷が欲しかったのかもしれませんね。

従って、1850年代の江戸切絵図には松平遠江守とあり、紀伊徳川家の名前が記入されている江戸切絵図を見つけることが出来ませんでした。「復元江戸情報地図」には“紀伊中将慶福”となっています。

この屋敷地は、俳人芭蕉が1680〜94年(51歳没)の間、ここを江戸の住処として全国へ旅に出た場所です。小名木川が隅田川に繋がるところで、小名木川に架かる万年橋北詰です。ここで芭蕉は「古池や…」の名句を作ったとか、芭蕉稲荷神社があり、地中から出てきたという蛙石まで揃っています。芭蕉庵史蹟展望公園が川沿いに設けられていてとても名前の通り展望の利いた眺めの良いところです。

万年橋邸(清洲橋からの眺め)
万年橋邸(清洲橋からの眺め)
芭蕉稲荷神社
芭蕉稲荷神社

紀州徳川家江戸屋敷(変遷概要)
↑クリックすると拡大します。

2.紀州徳川家江戸屋敷跡を巡る散歩コース

9つの紀州徳川家江戸屋敷跡を巡る散歩コースを作ってみました。このコースは訪問先を江戸屋敷に絞りましたので、次号以降で掲載予定の紀州ゆかりの寺社や事物は割愛しています。

散歩はマイペースでゆっくり歩きながら関心を引かれる事物を堪能するのが宜しいかと思っています。従って、この散歩コースは徒歩(点線部分)と地下鉄(実線部分)を組み合わせたやや慌てた散歩者用だと思います。ゆっくり巡る散歩者なら、

  • 1日目:松涛→千駄ヶ谷→赤坂→麹町(紀尾井町)
  • 2日目:芝→木挽町(東銀座)→築地
  • 3日目:清澄白河→蛎殻町→竹橋(北の丸)

と3日間で歩く位が丁度良いのではないでしょうか。

↓クリックすると拡大します。
紀州徳川家江戸屋敷跡を巡る散歩コース
(凡例)  噴出:江戸屋敷   点線:徒歩   実線:地下鉄(楕円は路線名)   四角枠:地下鉄駅

東京の紀州藩江戸屋敷跡を巡る散策コース

(追記)

散歩好きの突還(アラ還過ぎたらトッ還)爺が素人なりにあれこれ調べて、現地も訪れて書いたものですから不十分なところ、間違いのところなど多々あろうかと思います。皆様からの御指摘・御教示を宜しく願うばかりです。
次回は神社仏閣などを掲載したいと思っています。
また、現代地図の作成にはNPO法人「市民の力わかやま」に多大な御協力を賜りました。
厚く御礼申し上げます。

参考資料

  • 「南紀徳川史」 堀内信編、南紀徳川史刊行会
  • 「和歌山県史近世」 和歌山県
  • 「藩史大事典第5巻近畿編」 木村礎、村上直、藤野保編、雄山閣出版社
  • 「徳川幕府事典」 竹内誠編、東京堂出版社
  • 「江戸史跡事典」 新人物往来社
  • 「江戸編年事典」 稲垣文生編、青蛙房社
  • 「江戸屋敷300藩いまむかし」 青山誠、実業の日本社
  • 「江戸復元図」 東京都教育委員会
  • 「江戸古地図散歩」 池波正太郎、平凡社
  • 「江戸切絵図集成」 斉藤直成編、中央公論社
  • 「古板江戸図集成」 古板江戸図集成刊行会編、中央公論美術出版社
  • 「寛永江戸図」 山田清作編集、東京米山堂
  • 「復元江戸情報地図」 児玉幸多監修、朝日新聞社
  • 「中央区沿革図集京橋篇」 中央区立京橋図書館
  • 「歴史と文化の散歩道」 東京都
  • 「江戸図屏風の謎を解く」 黒田日出男、角川選書
  • 「頼貞随想」 徳川頼貞遺稿刊行会編、河出書房
  • 「千駄ヶ谷昔話」 渋谷区教育委員会
  • 「花葵徳川邸おもいで話」 保科順子、毎日新聞社
  • 「鶴川日記」 白洲正子、PHP
  • 「旧芝離宮恩賜庭園」 東京都公園協会
  • 「新修渋谷区史」 渋谷区
  • 渋谷区HP
  • 新宿区HP
  • 中央区HP
  • 港区HP
  • 日光田母沢御用邸記念公園HP
  • 東京都公園協会HP

(2011.7)
(執筆者の所属、役職等は発表当時のものです)

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