ホーム | サイトマップ | リンク

ホーム > レポート > 歴史・文化 > 紀州 in 東京II(神社仏閣・墓所)

紀州 in 東京II(神社仏閣・墓所)

研究部長  中山 健太

散歩の途次、神社仏閣に立ち寄り参拝し由緒を知るのも楽しいもので、単調な歩行に変化をもたらしてくれます。
また、永井荷風が得意とした掃苔(お墓参り)を真似て紀州ゆかりの墓所も探してみたいですね。近頃は墓マイラーと言うそうで、流行りらしい。

前回の 紀伊徳川家の江戸屋敷 に続き、今回は都内にある紀州ゆかりの神社仏閣、墓所を探してみましょう。

3.神社仏閣

(1)高野山真言宗総本山金剛峰寺東京別院(港区高輪3−15−18)

JR品川駅西口を出ると前面に小高い丘があります。この丘の稜線右斜め方向・二本榎というところに高野山東京別院はあります。丘に登って見る品川の海岸は、埋立地が再開発され高層ビル街に変貌し海を臨むことは難しくなっています。昔日におけるこの丘陵地からの江戸前の海の眺めはさぞや素晴らしかったことと想像するばかりです。

東京別院は江戸時代における高野山学侶方の江戸在番所として慶長年間(1596年〜1615年)に浅草日輪寺に寄留して開創したのが始まり。明暦元年(1655年)に幕府より芝二本榎に土地が下賜され、延宝元年(1673年)高野山江戸在番所高野寺として完成しました。江戸切絵図にある高野寺の位置は現在地と同じです。徳川家康が江戸に幕府を作った当初から高野山は東京進出をしていたのですね。家康の高野山信仰の並々ならぬ強さを知らされます。

高野山東京別院・山門
高野山東京別院・山門
高野山東京別院・本堂
高野山東京別院・本堂
(2)遍照山高野寺文殊院(杉並区和泉4−18−7)
高野寺文殊院入口
高野寺文殊院入口

嘉永2年(1849年)の近江屋板切絵図には、上記(1)高野山東京別院のある二本榎の北西・白金台町のところにも同規模の高野寺との表記があります。隣の正源寺は今もその場所にありますが、ここの高野寺はなくなっています。ネット探索しましたら、杉並区和泉にある文殊院がそうであると分かりました。訪ねてみましたら杉並区の住宅街の中で地元の方にお尋ねして辿り着けました。

文殊院は慶長5年(1600年)家康の帰依を受け駿府に開創、寛永4年(1627年)浅草へ、元禄9年(1696年)麻布白金台町へ移転、「白金高野寺」と称されていた。大正9年(1920年)区画整理のため現在地に移転。江戸期は高野山在番所行人方触頭(二本榎の高野寺は学侶方触頭)として重要なお寺であり、御府内八十八箇所霊場打留の札所となっていました。開山は木食応其上人と言われていますが、実際は高野山興山寺二世勢誉師だとされています。

山門に至る参道は住宅に挟まれていますが、八十八番札所の石碑があり、境内には高野山開創1100年(2015年に開創1200年)記念の石塔が建立されています。

高野山開創1100年記念石塔
高野山開創1100年記念石塔
(3)熊野神社

熊野神社は全国に約3000社あると言われていますが、「みくまのネット(全国熊野神社参詣記)」の調査では、東京における「熊野」を冠した神社は58社、熊野権現を勧請した大小の神社を合計すると142社あるとのこと(平成23年3月25日現在)。「神坂次郎の紀伊半島再発見」(国土交通省近畿地方整備局和歌山河川国道事務所HP)には、『「江戸名所絵図」に掲る熊野権現だけで14社』とありますから、その後もどんどん増えたのでしょう。東京都神社庁HPでは都内の神社1393社のうち約400社を掲載・紹介していますが、熊野神社は18社掲載されています。ここではその一部を訪ねてみます。

1) 新宿十二社・熊野神社(新宿区西新宿2−11−2)
新宿十二社池の下(バス停)
新宿十二社池の下(バス停)

東京都庁と十二社熊野神社
東京都庁と十二社熊野神社

人工の滝(十二社熊野神社)
人工の滝(十二社熊野神社)

紀州徳川家侍医島川玄丈人寿兆碑
紀州徳川家侍医島川玄丈人寿兆碑

新宿西口の東京都庁など高層ビル群の西端に新宿中央公園があり、その一角に神社があります。

神社のパンフレット(新宿ミニ博物館)によると、『室町時代の応永10年(1403年)中野長者と呼ばれる鈴木九郎が、故郷である紀州熊野三山より十二所権現を勧請したのが始まり。江戸時代には熊野十二所権現社と呼ばれ、将軍吉宗も鷹狩を機会に参拝するようになり、滝や池を擁した周辺の風致は江戸西郊の景勝地として賑わい、文人墨客も多数訪れました』とあります。

吉宗が将軍位についた享保年間(1716〜1735年)には多数の茶屋ができ、明治以降も最盛期には料亭・茶屋約100軒、芸妓約300名を擁する花柳界になっていました。神社境内の案内板には、池に舟を浮かべて遊ぶ様子の古い写真などを掲示しています。様変わりの景観は古い写真や絵で想像するしかないのですが、変貌が大きいのでなかなかイメージできないと思います。

自然の滝や池(1968年7月に最後の埋立)は既に無くなっていますが、神社境内にはミニサイズの人工の滝・池が作られ、隣接する新宿西口公園にも大きな滝・池がつくられていて、訪れる人に往時の景観を思い浮かべてもらうような設えになっています。

神社西側の道・十二社通りを挟んで2つの大きな池がかつてあった名残なのでしょう、バス停の名前が「十二社池の下(上)」とあります。Goo地図で新宿十二社の昭和22年航空写真を見ると大きな池が一つあるのが分かります。

この辺りの地名は十二社町でしたが昭和45年の住居表示変更で西新宿と変わってしまいました。西新宿の淀橋浄水場跡地に高層ビルが建ち始めたころです。紀州・熊野十二所権現ゆかりの地名が消えたのは残念ですね。今では、先ほどの都道新宿副都心13号線の通称「十二社通り」と商工業者の会名「十二社商店親睦会」に名が残っているだけ。

境内には石碑・狛犬など由緒あるものが残されています。その中の一つに「島川玄丈人寿兆碑」という大きくてどっしりした自然石の石碑が本殿の左手前にあります。石碑の文字は難しく読めませんが、説明板によると「紀州徳川家の侍医で、鍼術の大家島川草玄の長寿を祝って、紀州藩士川合衡の撰文により、文化4年(1807年)に造られた」とあります。どんな名医だったのでしょうね。「南紀徳川史 巻6」の医者の項で紹介されています。「先祖は太田道灌に仕えていたが、武州(秩父)へ引き籠り、地士にて代々相続す。明和9年(1772年)15人扶持金5両で召出され、安永4年(1775年)20人扶持金10両に加増。天明7年(1787年)病死64歳」とあります。更に、「当時名手の聞え世に高く其門に学ぶ者二千有余人島川流の一派を興せり云々」ともありました。

2) 青山熊野神社(渋谷区神宮前2−2−22)
青山熊野神社
青山熊野神社

青山熊野神社
青山熊野神社

青山通り・青山3丁目交差点をキラー通りに沿って2つ目の信号を右に曲がると直ぐ神社が見えてきます。この神社前の通りは「熊野通り」と通称されています。

御由緒書によると、『元和5年(1619年)徳川頼宣卿が紀伊国に封じられし後、その邸内(青山御所)に領国紀州より勧請。町民の要請によりて青山路次町に仮殿を建設し鎮祭せしを起源とする。正保元年(1644年)現在地に移遷。青山総鎮守かつ紀州家祈願所となる』とのこと。

江戸時代から「熊野大権現」と称していましたが、明治2年に「青山熊野神社」と改称しました。青山熊野神社の御祭神は五十猛命(大屋毘古神)、大屋津姫命、都麻津姫命の3祭神と伊弉冊命とされています。神社の方にお聞きしますと熊野本宮大社からの勧請ですとのこと。私はてっきり“熊野神社”と思っていましたが、伊太祁曽神社(和歌山市伊太祁曽558)の御祭神、五十猛命(大屋毘古神)、大屋津姫命、都麻津姫命の3祭神が一緒ですから、伊太祁曽神社の御祭神も勧請されたのかもしれませんね。“熊野神社”と称されたのは、江戸人にとって紀州=熊野位に思われていたから、熊野の神様も伊太祁曽の神様も同一視されたのかもしれないという推理です。頼宜公が伊太祁曽神社の御祭神を江戸屋敷に勧請した理由は何だったのでしょうね。伊太祁曽神社が紀伊国の一ノ宮であったからか?当時の青山は武蔵野の丘陵地で山谷多く樹木が繁茂していたからか?いろいろ推理が出来ますが、これは継続検討。

また、後述する紀州神社もそうですが、伊太祁曽神社の御祭神を勧請したと考えられる神社が、名称は別にして、他にいくつか都内にあることが分かりました。神様の系譜は難しいですね。

3) 堀の内熊野神社(杉並区堀之内2−6−6)尾崎熊野神社(杉並区堀之内2−6−6)

杉並区にあるこの2つの神社、“熊野”とありますが、訪ねて境内の由緒書(杉並区教育委員会設置)を読みますと、御祭神は五十猛命(大屋毘古神)、大屋津姫命、都麻(抓)津姫命とあり、熊野三山から勧請したとあります。伊太祁曽神社の御祭神と一緒の熊野神社の事例です。

堀の内熊野神社
堀の内熊野神社
尾崎熊野神社
尾崎熊野神社
4) 王子神社(北区王子本町1−1−12)と飛鳥山(北区王子1−1−3)
王子神社(北区)
王子神社(北区)

飛鳥山の碑(紀州青石)
飛鳥山の碑(紀州青石)

熊野本宮・音無川
熊野本宮・音無川

熊野本宮・音無川(大斎原の鳥瞰図)
熊野本宮・音無川(大斎原の鳥瞰図)

嘉永5年近江屋板古地図
嘉永5年近江屋板古地図

扇屋(玉子焼きの屋台)
扇屋(玉子焼きの屋台)

新宮・阿須賀神社
新宮・阿須賀神社

王子稲荷神社(北区岸町)
王子稲荷神社(北区岸町)

JR王子駅の西側に王子神社(神仏分離令までは王子権現社)があり、南側の小高い丘が飛鳥山です。飛鳥山は標高25.3mで東京都で一番低い山として国土地理院へ申請したのですが認められなかったそうです(一番低い山は港区の愛宕山25.7m)。この山には、王子駅横から“アスカルゴ”とネーミングされた蝸牛型のちいさな可愛らしい無料ケーブルカーで登れます。お勧めの乗り物です。

王子神社のHPには『元亨2年(1322年))、領主豊島氏が紀州熊野三社より王子大神をお迎えして、「若一王子宮」と奉斉し、熊野にならって景観を整えたといわれます。それよりこの地は王子という地名となり・・』とあります。熊野の名前はついていませんがこの著名な神社・地名も紀州ゆかりなのですね。

飛鳥山の方も、やはり当地の豪族、豊島景村が元亨年間に紀州新宮の飛鳥明神を勧請したことが始まりです。豊島氏が築城した本丸は飛鳥山の東端、平塚神社辺りでした。

寄り道ですが、内田康夫のベストセラー・浅見光彦シリーズに出てくる母親の大好物、平塚亭の団子はこの神社入口にお店があります。

この飛鳥明神は新宮のどこにあるのでしょう?新宮の熊野速玉神社に行き神社の方にお聞きしたら「当社ではなく少し海側にある阿須賀神社ではないですか」とのこと。早速1キロほど離れた阿須賀神社へ参り、宮司さんにお聞きしましたら「その通り。東京の飛鳥山に勧請されたのは当権現です。」とのこと。境内にあった神社略記にもその旨書かれていました。阿須賀が飛鳥にどこでいつ変わったのかは疑問のままです。

飛鳥明神の祠は、寛永年間に王子権現造営のとき山上から移され合祀されたため、現存していません。

江戸時代における飛鳥山は、所謂、江戸の中心地・御府内ではなく雑木や野原の郊外でした。8代将軍吉宗はしばしばこの辺りで鷹狩をしましたが、あるとき、飛鳥山の由来を知り、享保5年(1720年)この地に桜270本を植樹、翌年には1000本植樹。他にも楓や松を植樹しましたが、桜が一番よく成長して、江戸の花見の名所になりました。元文2年(1737年)には、旗本の領地であったこの土地を返還させ、王子権現社に寄進し、別当金輪寺(真言宗王子山金輪寺 北区岸町1−12−22)にその管理を任せました。

江戸の桜の名所というと、上野寛永寺、隅田川堤、小金井、飛鳥山が4大花見処だったそうですが(今もそうだと思います。)、『上野は寺内(寛永寺境内)で羽目を外せず、隅田川(中心地から近くて)は人多く、小金井は遠くで、飛鳥山がもってこい』であったとか(『江戸名所花暦』)。花見しながら宴席を設けて歌舞音曲、夜桜見物ができる公の場所を将軍吉宗は公共事業で作ってくれたのでしょうね。将軍吉宗もよく来たので金輪寺が御膳所となり、そのお座敷のジオラマとコンピュータ制御の人形寸劇を飛鳥山公園にある北区飛鳥山博物館で見学することができます。

飛鳥山を北西方向に下りますと、山裾に沿って大きな坂道・飛鳥大坂を都電荒川線が走っています。都内に現存する唯一のチンチン電車の路線です。飛鳥大坂の向こう側にこんもりとした森の中に王子神社の境内がありますが、その手前は深い峡谷になっています。親水公園になっていますので谷底に下りると昼間でも薄暗い感じがします。都内を西から東へ流れる石神井川がこの辺りでは音無川と名称変更されます。また、この渓谷に架かる3連のアーチ型の橋は音無橋(昭和5年建造)です。この川名の起源は?飛鳥明神、熊野若一王子ときたら、熊野本宮の音無川ですね。大斎原(熊野本宮大社が現在地に移る前、洪水で流されるまであったところ)の西側を流れて熊野川に注ぐ川です。大斎原に熊野本宮大社があった時代の絵図(鳥瞰図)を見ると中州の左側を流れている音無川を見つけることができます。

飛鳥山には飛鳥山の碑という大きな石碑があります。昔から難解な碑文(漢文)で「飛鳥山何と読んだか拝むなり」「この花を折るなだろうと石碑みる」などと川柳に読まれてきました。元文2年(1737年)金輪寺住持が建立し、碑文は儒官成島年筑、篆額は尾張の医官山田宗純の書。飛鳥山開発の経緯(吉宗の功績)を記しているらしい。この大きな石碑の石材は、江戸城吹上庭園の滝見亭にあった紀州産の青石だとのこと(飛鳥山博物館のパンフ)。紀州青石は緑泥片岩で紀ノ川流域で産出、色彩・姿・形がよく庭石として珍重された。粉河寺の石庭はその代表的使用例。飛鳥山の花見に来た江戸人が紀州青石の石碑を見て頭をひねっていた姿を思うと楽しくなります。

また、寄り道。嘉永5年近江屋板古地図「巣鴨染井王子辺図」を見ますと、王子権現境内の中に「アスカ明神」と小さな祠が載っていますし、平塚社、飛鳥山の碑もイラストされています。“遊覧ノ貴賤群集セリ最近郊無比ノ勝地ナリ”と詞書もあります。沢山の茶屋や料理屋が遊興客を迎え入れたのでしょう。この中に、古地図には珍しく料理屋の名前が2つ、扇屋、海老屋、を見つけることができます。時代小説ファンなら佐伯泰英氏のでも平岩弓枝氏のでもどこかで読まれたことがあると思います。料理屋は無くなりましたが、このうち扇屋は今でも「玉子焼き」だけ販売する屋台のようなお店を出しています。関西人にはやや甘めですが、話の種には良いかもしれません。いつでも買える訳でなく、長蛇の列で売切れに御注意。

王子神社の近くに王子稲荷神社があります。大晦日の夜に関東一円の稲荷神社から狐が集まったと伝承される関東稲荷社の総社です。もとは岸稲荷でしたが地名が王子となったことで王子稲荷と称することとなりました。紀州とは直接関係は無いですね。

ということで、この地は、地名・駅名はもとより、王子神社、飛鳥山、音無川、音無橋、飛鳥大坂、王子神社、紀州青石と紀州のテーマパークを江戸時代につくり上げたような所かもしれませんね。

先ほどの「全国熊野神社参詣記」に収録された東京の142の熊野神社を市区郡別にみると、23区には42社(30%)であり、千代田区や中央区にはありません。また、江東区、墨田区、江戸川区にも併せて2社しかありません。一方、東京西部の西多摩郡(奥多摩町など。22社)、八王子市(19社)、青梅市(17社)、あきる野市(11社)と多くなっています。平地に住む人々より山地や丘陵地に住む人々の信仰心に熊野信仰は受け入れられたのでしょうか。江戸の地口に「伊勢屋、稲荷に犬の糞」というのがあるように、稲荷神社は江戸の中心部(日本橋や銀座など)、商人達が商売繁盛を願って至るところに勧請したのでしょう。熊野神社は郊外の農民達や山村の人々に信仰されたのかも知れませんね。

5) 増上寺境内の熊野神社(港区芝公園4−7−35)

元和元年(1624年)、第13世正誉廓山上人が熊野権現を増上寺鎮守として勧請した。増上寺では、「熊野」を「ユヤ」権現、「ユヤ」神社と呼称しています。三解脱門を入った左手奥、綺麗に整備された場所にあります。東京マラソンはこの神社の裏手の日比谷通りがコースになっています。

増上寺境内・熊野(ユヤ)神社
増上寺境内・熊野(ユヤ)神社
(4)淡島神社

加太にある淡嶋神社は、全国に1000社あまりある淡嶋神社・粟嶋神社・淡路神社の総本社とあります。では、東京の何処にあるのでしょう。東京神社庁HPに掲載の約400社の中には1社も出てきませんでした。ネット検索と地図を頼りに探すと幾つかの淡島神社が見つかりました。

1) 町田市根岸の淡島神社(町田市根岸町457)

町田市は東京西郊にあって、谷戸(やと)など武蔵野の面影を残す近郊住宅地です。江戸・東京の中心部からすれば、この辺りは武蔵野丘陵の田園地帯でしたが、鎌倉幕府の頃には鎌倉と関東北部とを結ぶ鎌倉街道が通っていた要路沿いですから、それなりの賑わいがあったのでしょう。勧請されてきた経緯を知りたいものですね。享保年間には存在していたそうですが、神社の由緒書きにも起源不詳とあります。また、由緒書きによると東京都ではここだけとのこと。

淡島神社(町田市)
淡島神社(町田市)
2) 八王子市館町の淡島神社

現地は八王子郊外、長閑な田園風景が今でも残るところ。鳥居のある神社を予想しながら通りますと見過ごしてしまうような小さな神社(祠?)でした。近所の農家へ飛び込みお話をお聞きしたら以前は山の上にあったそうです。祠は綺麗に清掃され新しい花が手向けられていました。これは、昨日、神社のお祭りで集会が開催されたからだと。残念ながら由来については情報が得られませんでしたが、小さいながらも今も地元の人に大切にされているのが何とも嬉しいですね。

八王子市館町の淡島神社 八王子市館町の淡島神社
八王子市館町の淡島神社
3) 世田谷の淡島さん(世田谷区代沢3−27−1森厳寺内)
淡島通り
淡島通り

渋谷道玄坂上から西へバス通りが伸びています。この通りの公称は、都営423号渋谷経堂線ですが、通称は“淡島”通りです。世田谷区の北東部にある通りで、途中には「淡島交番前」とか「淡島」という交差点もあります。

私はかつてこの辺りの住人でしたが、“淡島“は耳にしていたものの、神社の存在は毛ほども知りませんでした。由来を考えたことももとより無し。近くに住んでいた友人に問い合わせても不知だと。灯台下暗しですね。

森厳寺(しんげんじ)というお寺の境内に”淡島堂”がありました。森厳寺は慶長13年(1608年)徳川家康の次男、結城秀康の位牌所として建立された寺院ですから、本堂の前には葵の御紋のついた金柵があります。お寺の入口・山門には「粟嶋の灸八幡山森厳寺」の看板が架かり、「淡島大明神」の石碑も建っています。

山門をくぐり境内に入りますと淡島堂があります。ここでも毎年2月8日針供養が行われ、少なくとも安政年間から続いているとのこと。横手には大きな針塚が建てられています。境内には淡島幼稚園もあります。紀州出身の住職が夢にお灸の仕方を淡島明神から告げられ、その通りにすると効果があったので淡島明神を紀州加太から勧請したとか。

森厳寺(山門)
森厳寺(山門)
森厳寺(淡島堂)
森厳寺(淡島堂)
4) 浅草寺の淡島堂(台東区浅草2−3−1)

浅草寺HPには元禄年間(1688〜1704年)に紀州加太から勧請とあります。2月8日に針供養が行われ、本堂横手に「魂針供養之塔」が建てられています。この淡島堂は浅草寺本堂の左手、薬師堂の先にあり、仲見世の賑わいから少し離れているので参詣者も比較的少なく静かな落ち着いた雰囲気です。

本堂の方から歩いていきますとお庭の中に古びた石橋があります。説明板を読みますとこれも紀州ゆかり。徳川家の前の浅野家(藩主浅野長晟)が元和4年(1618年)浅草寺に東照宮(現存せず)が造営された際に寄進したもの。現存する都内最古の石橋だとされています。

浅草寺・淡島堂
浅草寺・淡島堂
浅草寺・石橋
浅草寺・石橋
5) 粟島神社(豊島区要町2−14−4)

江戸時代は村民持の神社で新田義貞の祈願所であったとか。祭神は須久奈彦命(通称・弁天様)となっています。加太・淡島神社との関係が不明。

粟島神社(豊島区) 粟島神社(豊島区)
粟島神社(豊島区)
(5)紀州神社(北区豊島7−15−1)

紀州ゆかり、そのものずばりの名前、好いですね。

鎌倉時代後期、紀州熊野から来た鈴木重尚が豊島氏(景村?)とはかり五十太祁神社(伊太祁曾神社)を王子村へ勧請したのが始まり。「紀州さま」と地元から親しまれていました。言い伝えでは、豊島村の鎮守なのに王子村にあったので、天正年間(1573〜92年)、両村の水争いが原因となり、豊島村へ移し、更に、「取り返されてはいけない」ともっと村外れの場所に移しました。すると紀州さまが何人もの村人の夢枕に立ち「もっと賑やかなところへ移りたい」と告げたので現在地(王子駅の北約1.5キロ)に移されたそうです。

神社は都道補助線93号王子〜豊島の北側に面していますが、道路拡幅で境内地が削られたのか鳥居と本殿が横並びになっています。この通りの通称は「紀州通り」。

社殿の扉を見ると鳥居に八咫烏の紋がありました。

八咫烏の紋
八咫烏の紋
紀州神社
紀州神社
(6)丹生神社

かつらぎ町天野の丹生都比売神社は、全国にある丹生神社88社、丹生都比売大神を祀る神社108社、摂末社を入れると180社余の総本山です(丹生都比売神社HP)。東京のどこにあるか?聞いたことのない神社です。東京都神社庁のHPでも載っていません。地図とネットで探し出したのが次の2箇所(青梅線古里駅の北と南)です。

1) 西多摩郡奥多磨町小丹波473にある熊野神社境内の丹生神社
小丹波・熊野神社(舞台付楼門)
小丹波・熊野神社(舞台付楼門)

古里駅の北側・山に向かって登っていくと直ぐ山門というのか楼門なのか、木製の2階屋ほどの大きな門が何とも良い雰囲気を出していました。東京都指定有形民俗文化財となっている舞台(農村歌舞伎を演じたのでしょう)というのも納得です。

丹生神社は境内社として本殿の横にありましたが、右隣の境内社は「狩場明神」とありました。弘法大師・空海を高野山へ導いた「高野明神」ですね。





小丹波・熊野神社
小丹波・熊野神社
(境内社。左から3番目が丹生神社。4番目が狩場明神)
小丹波・熊野神社
小丹波・熊野神社
2) 西多摩郡奥多摩町丹三郎182にある丹生(たんじょう)神社

境内の説明板には「明応年中(1492〜1501年)、丹三郎友連が勧請する社なりといふ。按ずるに原島氏は丹の党より出で丹治姓なるゆえ祖神を祭りしことにぞ。この辺りより西、里長は原島氏のもの多し。」とありました。本殿を囲む杉の古木が古さを感じさせます。

丹三郎・丹生神社
丹三郎・丹生神社

「きのくに古代史研究叢書第二輯 丹生神社と丹生氏の研究」(丹生廣良)によると、『丹生神社は188社のうち和歌山県に80社、次いで多いのは埼玉県の22社。鎌倉時代以降、丹生氏の一派“丹党”こと丹治氏が勢力を持ち、祖神として丹生明神、高野明神を厳修した。中世以降において勧請された丹生神社に外ならず、丹砂や水銀の採取にもとづくものでない。』とあります。

この2箇所とも地名に“丹”の字が付けられていますから、かつて朱砂や水銀の鉱脈があり、鉱石を採石していたのかもしれませんが、やや疑問を抱いてしまいますね。

この辺りを訪れるには青梅線で終点近い古里駅で下車します。奥多摩の山の中ですから散歩と言うよりはハイキングです。折角ですから、帰りは多摩川に沿って二俣尾駅まで歩くと自然の景色を楽しむことができます。

(7)紀文稲荷神社(江東区永代1−14−14)

縁起には「(紀文が)京都伏見稲荷神社より御霊を拝受し、この地に航海の安全と商売繁盛を願ってお祀した」とあります。紀文のお店は八丁堀にあって、その下屋敷が深川のこの神社の近くにあったと言われています。紀文の出身地とも言われる加太の淡島神社にも紀文稲荷神社があります。淡島神社のHPには紀文がお金持ちになって江戸へ移り住む前に奉納したお稲荷さんとあります。

紀文稲荷神社 紀文稲荷神社
紀文稲荷神社
(8)日蓮宗日通山妙善寺(港区西麻布3−2−13)

東京の盛り場スポット・六本木ヒルズのけやき坂を上りつめた突き当たりにあります。ビルの一階を貫通するトンネルを抜けると境内ですから、注意して探さないと見付け損ないます。私は探しながらトンネル前を2度通過したのですが分からず、近所の方にお聞きしてトンネル抜けを初めて知りました。トンネル入口のビルの壁に妙善寺と確かに書いてあります。トンネルを抜けると静かな境内があります。超モダンな六本木ヒルズの喧騒がここまでは達しないようです。

妙善寺は寛永4年(1627年)紀州藩御附家老三浦長門守為春が日為上人を開山として創建。三浦長門守為春は家康の側室・お萬の方(養珠院)の兄でありますから、初代藩主頼宜公の叔父さんになります。このお寺には頼宜公が寄進した釈尊像があるとのことで、お聞きしますと紀州・報恩寺との御縁があって、お寺の秘仏としてこちらで安置するようになったとか。

妙善寺のトンネル入口
妙善寺のトンネル入口
妙善寺本堂
妙善寺本堂

4.墓所

(1)天台宗東叡山寛永寺円頓院(台東区上野桜木1−14−11)
常憲院(5代綱吉)霊廟勅額門
常憲院(5代綱吉)霊廟勅額門

寛永2年(1625年)に建立。開基は徳川家光(3代)と天海上人。徳川将軍15人のうち6人が境内の徳川家霊廟(第一・二に3人ずつ。吉宗は第一)に眠っています。戦災などにより厳有院(4代家綱)霊廟と常憲院(5代綱吉)霊廟の勅額門など一部を除いて焼失しましたので、紀州徳川家5代藩主・徳川8代将軍吉宗の宝塔は常憲院霊廟内にあります。霊廟は非公開ですので見学は出来ませんが、厳有院と常憲院の勅額門(重要文化財)は国立博物館裏にあり、見ることができます。吉宗は質素倹約を奨めましたので、宝塔の材質はそれまでの青銅製から石製に変わったそうです。霊廟石垣の向こうに少しだけ見えたのは青銅製ですから常憲院(5代綱吉)の宝塔でしょう。

常憲院(5代綱吉)の宝塔
常憲院(5代綱吉)の宝塔
寛永寺徳川家霊廟(第一)は石垣の向う
寛永寺徳川家霊廟(第一)は石垣の向う
(2)浄土宗三縁山広度院増上寺(港区芝公園4−7−35)

明徳4年(1393年)に建立。開基は聖聡上人。徳川将軍15人のうち6人が境内の徳川家霊廟(戦災で焼失後、再建)に眠っています。紀州徳川家13代藩主(慶福)・徳川14代将軍家茂の宝塔の横には、正室でありました皇女和宮(静寛院)の宝塔が並立しています。大変仲睦まじい御夫婦であったとのことが偲ばれます。この霊廟は年間何日か公開されていますので見学可能です。

増上寺・徳川家霊廟
増上寺・徳川家霊廟
家茂(右)和宮(左)の宝塔
家茂(右)和宮(左)の宝塔
(3)日蓮宗長栄山大国院本門寺(大田区池上1−1−1)

日蓮上人が身延山を出て病気療養のため常陸国へ向かう途中この地で入滅された霊跡。郷主池上宗仲が寺域を寄進したので通称「池上本門寺」。ここの境内には、紀州藩江戸屋敷で亡くなられた藩主の家族の墓塔が8塔並んだ紀伊徳川家墓所があります。池上本門寺には諸大名家の墓所がありますが、大田区文化財となっているのは紀州徳川家墓所だけです。

  • 松寿院(初代頼宣の娘・松姫)
  • 真空院(初代頼宣の息・4歳で没)
  • 養珠院(家康の側室・お万の方・初代頼宣の生母であり、初代水戸藩主頼房の生母)
  • 妙操院(将軍家斉の側室・11代藩主斉順の生母)
  • 天真院(2代光貞の正室・伏見宮貞清親王の娘・安宮)
  • 瑤林院(初代頼宣の正室・加藤清正の娘・八十姫)
  • 霊岳院(2代光貞の娘・育姫)
  • 寛徳院(将軍吉宗の正室・伏見宮貞致親王の娘・真宮理子)

境内にはこの墓所以外に将軍吉宗の側室の墓があります。流石に、正室の墓所と一緒にはならなかったのですね。

  • 深徳院(将軍家重の生母。家臣大久保忠直の娘・お須磨の方)
  • 本徳院(家臣竹本茂兵衛の娘・お古牟の方)
深徳院(吉宗側室。将軍家重の生母。お須磨の方)
深徳院(吉宗側室。将軍家重の生母。お須磨の方)
本徳院(吉宗側室。お古牟の方)
本徳院(吉宗側室。お古牟の方)
左から瑤林院(頼宣正室)天真院(光貞側室)妙操院(斉順生母)養珠院(頼宣生母)
左から瑤林院(頼宣正室)天真院(光貞側室)
妙操院(斉順生母)養珠院(頼宣生母)
寛徳院(将軍吉宗の正室)
寛徳院(将軍吉宗の正室)
池上本門寺・本堂
池上本門寺・本堂
池上本門寺・多宝塔(背後に紀州徳川家墓所)
池上本門寺・多宝塔(背後に紀州徳川家墓所)
(4)天台宗宝珠山福泉寺(渋谷区代々木5−2−1)

紀州藩の藩祖徳川頼宜の側室(大和国添上郡岩掛城主山田正秀の六女と伝えられている。)円住院の墓所。円住院と住職とは同族ということから、福泉寺が現在地に移転するに際し後援をした。墓碑側面には「紀伊頼宣嘉妾」と刻まれている。お墓の笠塔婆からは代々木公園の森を眺められる場所にありますが、お一人だけの墓所であり一寸寂しい気もします。正室の瑤林院とは待遇に格段の差がありますね。

福泉寺
福泉寺
円住院墓碑
円住院墓碑
(5)曹洞宗多宝山成願寺(中野区本町2−26−6)
成願寺・山門(中野区)
成願寺・山門(中野区)

成願寺・中野長者墓所
成願寺・中野長者墓所

成願寺・境内
成願寺・境内

新宿十二社熊野神社を勧請した中野長者・鈴木九郎が出家し自宅に建立した寺院であり、墓所でもあります。青梅街道と山手通りの交差点中野坂上を少しだけ山手通りに沿って南下した西側にあります。このお寺の案内書で由緒を読みますと、硬い歴史解説ではなく“童話”が書かれています。少し長くなりますが抜粋してみました。

『600年前の昔、鈴木九郎という人がこの地で荒地を開墾しながら馬を育てていました。食べ物の無い日もある貧しい暮らし。ある日、九郎は馬をつれ馬市へ行く途中、浅草観音に「馬がよい値で売れますように、そのお金に大観通宝がまざっていたら観音さまに全部差し上げます。」と願いました。すると馬市で思ったより高く売れましたが、代金は全て大観通宝でした。迷った末、九郎は「お金は働いて手に入れなければならないと観音さまが教えてくださったのだ」と全部寄進します。翌日から今まで以上に働いた九郎は財を成し、中野長者となりました。しかし、一人娘の小笹を病で亡くす不幸に会います。悲しみの九郎夫妻は春屋宗能禅師の励ましによって、小笹の供養と曹洞禅の普及に精進した。これが成願寺のはじまり。』

なお、お寺のHPには『数年前修復が施された成願寺のご開山さまのお像のなかから、古い小さな骨片がたくさん出てきました。これを東京大学名誉教授鈴木尚先生に鑑定していただいたところ、中年の男性とからだの弱い娘の骨ということがわかりました。鈴木九郎と夭折した小笹の遺骨にまちがいないでしょう。』とのこと。

紀州は全国の鈴木さんの本家と言われています。新宿十二社熊野神社のパンフにも『鈴木家は、紀州藤代で熊野三山の祠官をつとめる家柄でしたが、源義経に従ったため、奥州平泉より東国各地を敗走し、九郎(1371〜1440年)の代に中野(現在の中野坂上から西新宿一帯)に住むようになりました。その後、家運上昇し中野長者と呼ばれるようになった。』とあります。

(6)浄土宗成等院(江東区三好1−6−13)

民間を代表する紀州出身の著名人と言えば紀伊国屋文左衛門。蜜柑船の話や寛永寺・永代橋建設時の材木商としての大活躍は御馴染みですね。江戸の遊郭・吉原での豪遊振りなど話題豊富な人物ですが、お墓は深川の地にあります。大江戸線清澄白河駅南東の霊厳寺門前を南へ一筋参りますと成等院があり、その一角に墓所があります。

正面には大きな石碑で「紀伊国屋 文左衛門の碑」とありますが、お墓はその左側の小さな墓石です。墓石と石碑の後ろには蜜柑の木が植えられています。

この墓所全体をを寄進者の名前を刻んだ石塀が囲っています。入口の大きな門柱には「和歌山県知事小野眞次」(就任期間昭和22〜42年)とあり、周りは“紀州和歌山 誰々”と名前が記された石柱が沢山あります。石碑は昭和38年に作られたようです。和歌山の木材業かみかん業関係者なのでしょうか。

紀伊国屋文左衛門之碑(墓は左手の小さな墓石)
紀伊国屋文左衛門之碑(墓は左手の小さな墓石)
和歌山県知事の名入り門柱
和歌山県知事の名入り門柱

(追記)
紀州ゆかりの神社仏閣・墓所はまだ他にもありそうですが、今回はここまで。
次回はその他の紀州ゆかりの事物を探してみましょう。意外なものが意外なところにあるものです。

(2012.3)
(執筆者の所属、役職等は発表当時のものです)

このページのトップへ