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紀州 in 東京III(その他)

研究部長  中山 健太

紀州ゆかりの江戸屋敷神社仏閣・墓所を探してきた紀州 in 東京、今回は地名・町名・坂名など何でも取り混ぜゆかりのあるもの(ありそうなもの)を見つけたいと思います。

5.その他

(1)地名・町名
(1) 紀尾井町(千代田区)

千代田区紀尾井町は江戸城の西側、外堀に面して四谷御門・喰違御門・赤坂御門と防衛戦略上の重要拠点にあたり、幕府が最も信頼できる親藩の紀州藩と尾張藩、譜代大名の井伊家(彦根藩)の屋敷を配置しました(嘉永3年1850年尾張屋板ではどれも中屋敷の表示)。明治5年(1872年)、この3藩の頭文字を集めて麹町紀尾井町とし、明治44年(1911年)紀尾井町となったのは良く知られているところです。

各屋敷の明治以降の変遷はいろいろありますが、現在は概ね、紀伊屋敷はグランドプリンスホテル赤坂(通称“赤プリ”。平成23年3月末営業停止)、尾張屋敷は上智大学に、井伊家屋敷はホテルニューオータニにとなっています。

紀伊屋敷の西側は都心とは思えない深い樹木の繁った谷で、清水谷公園となっています。大名屋敷のときに触れました紀伊屋敷にあった井戸の復元や大久保利通を哀悼する石碑が建てられています。

清水谷公園 井戸
清水谷公園 井戸
大久保公哀悼碑
大久保公哀悼碑
(2) 熊野町(板橋区)

池袋の北、板橋区の東端にある町。昭和46年(1971年)に住居表示。町内には山手通りと川越街道が交わる熊野町交差点があり、その上は首都高速5号池袋線と中央環状新宿線とが合流する熊野町ジャンクションになっています。交通の要衝ですね。その交差点北側には熊野神社があります。案内板によりますと、応永年間(1394〜1427年)宇多天皇の子孫が勧請したとあります。また、すぐ近くには熊野町バス停があり、熊野通り商栄会の商店街もあります。しかし、境内には神社からの“御願い”とあって、『氏子世帯減少で神社維持もたいへん。御厚志を。』とのこと。都会の神社も維持経営はなかなか難しいようです。

熊野町都営バス停
熊野町都営バス停
熊野神社(熊野町)
熊野神社(熊野町)
(2)坂名

江戸時代の人々が待ち合わせ場所や行先など江戸の地理上の会話をする時に(例えば、駕篭かきに行先を告げる時など)、切絵図のような町内地図が手元にあったわけではなく、町名番地がキチンとあったわけでもなかったので、山の手は坂の名前で、下町は橋の名前で場所を特定することでした(寺社なども目印・ランドマークになったと思います。)。こうした場所の覚え方は近年まで続いていたようで、地方から上京してタクシー運転手になった新人は、東京の地理を「山の手は坂で憶えろ、下町は橋で憶えろ」と先輩から教え込まれたようです(司馬遼太郎「街道をゆく 本所深川散歩(神田界隈)」)。東京の坂道数はその定義や範囲で異なりますが、中心部だけで名のある坂は500強あります。橋の数も江戸時代はやはり500前後あったそうです。私が10年ほど前に訪ねた坂は580、橋は549でしたからそんなものだと思います。

(1) 紀伊国坂(千代田区)

江戸屋敷“竹橋邸”で少し触れた坂です。皇居東御苑を北に北拮橋から北の丸へ出たところのなだらかな坂です。北の丸にある国立近代美術館や国立公文書館と平河濠との間を竹橋に向かって下る坂です。坂の途中にある標柱によると『むかし此所に尾紀の両御殿ありしなり』(再校江戸砂子)とあります。“尾紀”だけでなく“水”の屋敷もあったのに紀伊国坂と名前がついたのは最も近かったからでしょうか。

紀伊国坂
紀伊国坂(千代田区。正面は東御苑)
紀伊国坂
紀伊国坂(千代田区。竹橋方面)
(2) 紀伊国坂(港区。別名「紀の国坂」「紀国坂」「赤坂」「茜坂」)

(1) の紀伊国坂と同じ名前ですが、場所は紀州徳川家の赤坂邸東側と外堀との間を赤坂見附に向かって下る坂です。この坂を有名にしているのは、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲(1850〜1904年)の怪談に出てくる“のっぺらぼー”のお化け“ムジナ”がこの坂で出没するようになったことが一役かっています。

紀伊国坂
紀伊国坂(港区。左手は赤坂御用地)
(3) 紀尾井坂(千代田区)
紀尾井坂
紀尾井坂(千代田区)

現在の紀尾井ホールとホテルニューオータニの間を東に下る坂道。下った先の坂下は反対側からの清水谷坂がこれまた下ってきていますので、谷底みたいな場所です。幕末はもとより明治になっても寂しい所でしたが、現代では高級ブティックやレストランなどが並ぶ明るい街路になっています。明治7年(1874年)岩倉具視が坂上で(赤坂喰違御門事件)、明治11年(1878年)大久保利通が坂下で(紀尾井町事件)暗殺者に狙われた血生臭い事件とは、今は全く一見縁がないようです。

しかし、白洲正子の回想によると『石垣と木立の続く暗い坂道は、刺客にとって絶好の隠れ家で・・・・。子供のころは、冷えびえした空気がせまって来るような、薄気味わるい一廓であった。うっそうと繁った木の下道は、お天気の日でも水をふくんでいた。』(「鶴川日記 東京の坂麹町界隈」PHP)とありますので、そういう目で見直すと往時の物騒な雰囲気がイメージされます。

(4) 達磨坂(千代田区。別名「諏訪坂」)

紀尾井坂からも近い紀州徳川家の麹町邸東側を北に向かって上る坂道があります。和歌山県東京事務所が入居している都道府県会館と“赤プリ”の間を上る坂道です。(お殿様の江戸屋敷前に現代の県事務所があるのも一寸面白いですね。)この坂道は諏訪坂と言います。この坂道を挟んで紀州徳川家江戸屋敷の反対側に諏訪氏の屋敷があったため。

坂に設置されている標柱の説明には『諏訪坂、別の名を達磨坂。旧宮邸(北白川宮)が紀州藩であり、その表門の柱にダルマに似た木目があったため達磨門とよばれ、その門前を達磨門前、坂の名も達磨坂と人々は呼んだ。』とあります。また、嘉永3年尾張屋板切絵図を見るとこの坂道のところに「達磨門マイト云」と記載されています。どんな門で木目だったのでしょうか、気になりますが写真など見たことはありません。

達磨坂
達磨坂(諏訪坂。中央区。左手“赤プリ”)
嘉永3年尾張屋板
嘉永3年尾張屋板
(5) 飛鳥大坂(北区)

王子神社・音無川と飛鳥山の間を縫うように大きく曲がる坂。道路は明治通りで、唯一残った都電荒川線が走行しています。飛鳥山の南側の駅名は「飛鳥山駅」。

アスカルゴと飛鳥大坂
アスカルゴと飛鳥大坂
王子神社の杜と飛鳥大坂
王子神社の杜と飛鳥大坂
(6) 熊野坂(北区)

飛鳥山南東方向の西ヶ原にある坂。昔は熊野社があったのですが今は坂の名前に残るのみ。

熊野坂(北区)
熊野坂(北区)
(3)橋名
(1) 紀伊国橋(中央区)

木挽町にあった紀州徳川家蔵屋敷の北側を流れる三十間堀川に架かっていた橋。紀州藩が自前で架けたといわれる橋。昭和24年に橋は撤去され、三十間堀川は空襲の瓦礫で埋められてしまいます。戦前の絵葉書には橋が写っているのもあります。橋跡を訪ねてみましたが何の痕跡もなし。せめて、紀伊国橋跡の碑でも建てて頂けると嬉しいのですがね。

寛永江戸図・武州豊嶋郡江戸庄図
寛永江戸図・武州豊嶋郡江戸庄図(寛永9年1632年)
(2) 長者橋・中野長者橋出入口(中野区・新宿区)

中野長者の成願寺を南に200m程坂を下ると神田川が流れています。この川に架かる橋が長者橋。その坂道は山手通りで地下を首都高速山手トンネルになっています。長者橋の横に真新しい中野長者橋出入口があります。

長者橋(神田川)
長者橋(神田川)
中野長者橋(首都高速出入口)
中野長者橋(首都高速出入口)
(3) 音無橋(北区)

飛鳥山から王子神社へ向けて音無川に架かる3連のアーチ橋。昭和5年建築。

音無橋(北区)
音無橋(北区)
音無橋(北区)
音無橋(北区)
(4) 弁慶堀・弁慶橋(千代田区・港区)

紀尾井町と赤坂の間の外堀・弁慶堀とそれを渡る弁慶橋。弁慶さんと言えば田辺市の闘鶏神社と結びつくのですが、残念ながらこの弁慶さんは橋を作った大工の棟梁のお名前だそうで、紀州ゆかりではありませんでした。一寸、喜んだのですけどね。

弁慶堀・弁慶橋
弁慶堀・弁慶橋(右手は紀伊徳川家屋敷跡。中央区)
(5) 永代橋(中央区・江東区)

紀伊国屋文左衛門が上野寛永寺根本中堂建築を請け負ったときの余材で架橋したと言い伝えられています。

(6) 葵橋・葵通り(渋谷区)

江戸屋敷千駄ヶ谷邸の項で触れました葵橋・葵通りです。住所は渋谷区代々木ですが、新宿駅南口を出て甲州街道を西へ下った西新宿1丁目交差点を左折したら直ぐのところです。東京都水道局の「葵橋の記」は一寸分かり難いですが、レンタカー店のビルの中、1階の柱に掲示されています。石碑は直ぐ見つかります。紀州徳川家の屋敷があったJR東京総合病院辺りの再開発は凄まじいものがあり、様相一変です。

葵橋の記
葵橋の記(東京都水道局)
葵橋・葵通りの碑
葵橋・葵通りの碑(玉川上水は暗渠化)
JR東京総合病院
JR東京総合病院(紀州徳川家屋敷跡)
(4)熊野前駅・熊野前停留場(荒川区)

荒川区を南北に通る尾久橋通りに沿って東京都交通局の新交通システム、日暮里・舎人ライナーが走り、東西を走る都電荒川線と交差するところの駅が熊野前駅(都電の駅は“駅”ではなく停留場ですから、熊野前停留場と呼びます)。「熊野前」と称する位ですから熊野神社が近くにあってしかるべきと探し回りましたがありません。たまたま出合った町内会の役員さんが御存知で、かつて神社のあった場所へ案内してくれました。ライナーに沿って少し北上したところの西側にあったそうです。社地跡の前にある案内板には、「元享年間(1321〜1323年)豊島景村が紀州熊野から勧請した。明治11年八幡神社に合祀されたが、その後も小祠を残していた。」とあります。役員さんのお話では戦後も篤志家が守っていたようですが今ではそれも無くなったとのこと。

名前の起こりの熊野神社は無く、町名にも無く、駅名だけに残っている珍しいケースかもしれません。尾久通りを更に北に行くと隅田川・荒川を続けて渡ることになります(川と川の間は200m位でしょうか)。橋の手前に「熊野の渡し」跡の案内板がありました。

熊野前陸橋(荒川区)
熊野前陸橋(荒川区)
都電・熊野前停留場(荒川区)
都電・熊野前停留場(荒川区)
日暮里・舎人ライナー熊野前駅
日暮里・舎人ライナー熊野前駅
熊野神社跡の案内板
熊野神社跡の案内板
(5)清澄庭園(江東区)

都営地下鉄大江戸線清澄白河駅西側に位置する都立公園ですが、紀伊国屋文左衛門の別荘があったと言い伝えられています。享保(1716〜1736年)の頃からは久世大和守の下屋敷、明治以降は三菱財閥の岩崎家の所有となり、弥太郎(三菱財閥初代)・弥之助(2代)の兄弟により明治24年(1891年)完成しました。関東大震災のときは深川の避難所として大いに活用され、大正13年(1924年)、岩崎家は東京市に東半分を寄付しました(西半分は昭和48年東京都が買収)。

庭園内には全国各地の名石が集められ庭石(景石)、敷石、橋、磯渡りなどに配置されて、さながら石の庭園のようです。紀州特産の青石も随所に使用されています。

清澄庭園・涼亭(江東区)
清澄庭園・涼亭(江東区)
清澄庭園・枯滝・紀州青石
清澄庭園・枯滝・紀州青石
(6)富岡八幡宮大神輿(江東区)

富岡八幡宮の大神輿はもともと紀伊国屋文左衛門が寄進したものでしたが、関東大震災で焼失。平成3年に現在の一の宮神輿が作られましたが大きすぎて(4.5トン)担げないそうです。平成9年に二の宮神輿が作られ(2トン)、こちらを担ぐようになりました。一の宮神輿にはダイヤやルビー、黄金がふんだんに使用されていて紀伊国屋文左衛門がお金をかけて作った神輿も斯くやと思われる豪華な大神輿です。倉庫内の神輿をガラス越に見物できます。紀伊国屋文左衛門が寄進した大神輿が焼失せず、そのまま残っていたら良かったのに残念ですね。

(7)皇居東御苑果樹古品種園(千代田区)

皇居東御苑は誰でも自由に入りことのできる“皇居の中”です。それも天守閣跡や松の廊下跡があった本丸跡を散策できます。入口は東京駅側は大手門から、北側は北の丸と結ぶ北拮橋門から、竹橋駅からは平川門からそれぞれ受付で入場札を貰って入ります(入場無料が嬉しい)。

本丸地区の南側、芝生広場が切れた所に東西2区画の果樹古品種園があります。東の区画には柑橘(ミカン科5種類)、日本梨(バラ科5種類)、桃・李(バラ科4種類)が植樹されています。西の区画には柿(カキノキ科5種類)、ワリンゴ(バラ科3種類)が植樹されています。この中で紀州ゆかりは柑橘の中に紀州ミカン、三宝柑の2種が植樹されています。

果樹園に設置されている説明板に、紀州ミカンは「原産地:中国、実:橙色・扁球形、味:甘味多・美味、収穫期:12月」、三宝柑は「原産地:和歌山県、実:黄橙色・短倒卵形、味:さわやかな味わい、収穫期:3月〜4月」とあります。未だ、実の成ったのを見たことはありませんが、天守閣跡の石組みを背景に黄橙色の蜜柑が色鮮やかに実ったところを早く見たいものです。また、説明板には「三宝柑、クネンボ、紀州ミカンの3品種を天皇陛下が・・・平成20年4月にお手植えになりました。」とありますから、実を見ることのできる時期もそう遠いことではないでしょう。実る日が楽しみですね。

果樹古品種園(三宝柑)
果樹古品種園(三宝柑)
果樹古品種園・案内板
果樹古品種園・案内板
(8)皇居東御苑都道府県の木(千代田区)

果樹古品種園のある本丸の東側、一段下がった所、二の丸庭園の北側に都道府県の木を植樹した区域があります。昭和43年(1968年)皇居東御苑公開に際し、都道府県から寄贈された「都道府県の木」が植樹されています。和歌山県の県木「うばめがし」数本が植樹され形良く剪定されています。

和歌山県の木(うばめがし)
和歌山県の木(うばめがし)
(9)南葵文庫(港区・文京区、東京大学総合図書館)
南葵文庫・楽堂跡
南葵文庫・楽堂跡(左手の外務省公館や日本郵便の辺り)

南葵文庫扁額
南葵文庫扁額(東京大学総合図書館閲覧室)

紀州徳川家15代頼倫は、日本図書館協会総裁に就任(大正2年)するなど日本の図書館の有様について大きな影響を与えた方です。ケンブリッジ大学留学から帰国後、明治35年、麻布区飯倉の自宅敷地(現在の麻布幼稚園・小学校から日本郵政ビル辺り)に洋館建ての南葵文庫を設立。日本最初の私立公開図書館。蔵書数は、紀州徳川家に伝わっていた書籍2万点の他、その後、収集・寄贈された書籍を併せ10万点に及ぶ膨大なものでした。大正12年関東大震災で東京大学の図書館が蔵書ごと焼失したため、南葵文庫の蔵書を寄贈。

東京大学付属図書館のサイトには沢山の所蔵コレクションが記載されていますが、南葵文庫の数量9万6千点は群を抜いて最大規模ですね。

南葵とは「南紀」と「南の葵(徳川家御紋)」をかけて命名したようです。

なお、南葵文庫の建物は大磯の別荘として移築、更に、現在は伊豆の熱海でレストランとして保存・使用されています。和歌山県立博物館のHPに掲載されている安永拓世学芸員さんのレポート(博物館ニュース2010年9月「南葵文庫旧館の歩み」)にこの建物について詳細な内容が記載されていて読みながら歴史の変遷にワクワクしてきました。また、このレポートから南葵文庫で使用されていた椅子・机が、当時、南葵文庫に勤務していた方の御子孫から県立博物館に寄贈され収蔵されているということも知りました(常設展示ではないので見ることはできませんが、著者の許可を頂きHPの写真を掲載させて頂きました。)。

南葵文庫
南葵文庫
南葵文庫蔵書の極一部
南葵文庫蔵書の極一部
南葵文庫蔵書目録索引
南葵文庫蔵書目録索引
和歌山県立博物館収蔵の南葵文庫の机・椅子
和歌山県立博物館収蔵の南葵文庫の机・椅子

なお、扁額など館内での写真については東京大学総合図書館の許可と御協力により撮影をさせて頂きました。

(10)旧南葵楽堂・音楽文庫(港区・台東区、旧東京音楽学校奏楽堂)
旧東京音楽学校奏楽堂
旧東京音楽学校奏楽堂

パイプオルガン

パイプオルガン
パイプオルガン

紀州徳川家16代頼貞は、ケンブリッジ大学音楽理論科に留学するほどの音楽学者でした。父親(頼倫)と同じく麻布区飯倉の自宅敷地内に南葵楽堂と南葵音楽図書館を建設しました。この経緯については「頼貞随想」(徳川頼貞遺稿刊行会)に詳しく御自身が述べておられます。

あらましは次のようなものです。『1916年父と相談して楽堂建設案を公表。英国の設計者に依頼するが、第一次大戦の渦中でもあり、在日のウイリアム・ヴォーリスに助力を依頼。1918年完成。建坪百坪、座席数350。大戦のため発注したものの到着の遅れたパイプ・オルガン(英国アボット・スミス社製)は1920年横浜に到着。税関は見たことも無いパイプを建築資材として課税しようとしたが、文部大臣と大蔵大臣に掛け合い教育品として無税通関にしてもらった。オルガンを組み立てる段になると、今度はそのような技術を持った者が当時の国内には居ない(このあたりかなりのドタバタですね)。英国から技師を呼び、組立の補助に日本楽器製造(ヤマハの前身)から技師長に来てもらい、5ヶ月かけて漸く完成(日本楽器製造はパイプオルガンに関する技術を修得)。高さ4間、奥行2間、幅3間、パイプ総数1500余本(1379本が実数)。関東大震災で大きな被害を受け、昭和3年パイプオルガンを東京音楽学校に寄贈。(建物は解体)』

このわが国最古のコンサート用空気アクション式パイプオルガンを今でも誰でも見学することが出来ますし、演奏を聴くことも出来ます。上野の旧東京音楽学校奏楽堂(国の重要文化財)で第2・4日曜日午後に芸大の学生が演奏してくれます(日曜コンサート。入場料300円)。散歩の途中にこういう趣向が入るとアクセントとも休憩にもなり、楽器の経緯経過を知るとなお楽しいですね。

南葵音楽文庫(図書館)も英国のカミングス・コレクションを落札するなど、世界的に屈指の音楽関係資料のコレクションでありましたが、財政事情などにより昭和7年に閉館となった。貴重な楽譜などは読売日本交響楽団が所有していますが非公開。笛や笙・琵琶などの古い雅楽器(収集は主として10代治宝)は千葉県佐倉市にある国立歴史民族博物館に収蔵されています。2005年と2010年に同博物館にて「紀州徳川家伝来の古楽器」が特別企画展示されました。

なお、パイプオルガンなど奏楽堂内での写真については台東区立旧東京音楽学校奏楽堂の許可と御協力により撮影をさせて頂きました。

(11)静嘉堂文庫美術館収蔵の尼崎台(世田谷区)

静嘉堂文庫は世田谷区岡本(二子玉川駅の少し西)にあり、三菱財閥2代目の岩崎弥之助と4代目小弥太が明治時代から収集した古典籍・古美術品を収蔵した図書館・美術館です。古美術収蔵品の中に国宝「曜変天目茶碗」(南宋時代建窯)があります。この茶碗(と古美術に無知な私は気軽に言いますが)は日本に3椀しかない(世界にも3椀しかない。つまり日本にしかない。)大層貴重な美術品。徳川将軍家に伝わっていたが、3代将軍家光が春日局に下賜、春日局の嫁ぎ先稲葉家の所持となり、大正7年稲葉家の売立で横浜の実業家の手を経て、昭和9年岩崎小弥太の所有となりました。3椀(すべて国宝指定)の中でもこの岩崎家の茶碗が最も美しいと言われています。他の2つは、京都・大徳寺龍光院と大阪・藤田美術館。

「日本陶磁名品展」(平成23年初夏)が開催中というので、この曜変天目茶碗も展示されているかと期待して参りましたら、残念ながら展示されていませんでした。せめて絵葉書かパンフレットでもと見ていましたら、なんとこの茶碗を載せている付属天目台が紀州徳川家伝来「尼崎台」とあります。早速、学芸員の方にお聞きしますと、戦争前の紀州徳川家の売立の中にこの台が記載されているから、茶碗の入手と同じ頃にそれに相応しい台として岩崎家が収集したのではなかろうか、とのことでした。頂いた説明書コピーには「伝世品のなかでも貴重な尼崎台。縁部には薄く覆輪が嵌められ、その土居(高台)の裏側に蜈蚣(むかで)印が朱漆で記されている。紀州徳川家伝来のこの天目台が、・・・」とありました。

この茶碗の展示予定はとお聞きしましたら、当面無く、平成25年の春頃・・・とのこと、いやはや驚きですが、ますます見たくなりますね。

(12)泰山荘高風居一畳敷(三鷹市)

泰山荘高風居一畳敷は三鷹市にある国際基督教大学キャンパス内にある茶室(国登録有形文化財)です。和歌山県立博物館の安永拓世学芸員さんに御教示頂いた「きのくに文化財43」(社団法人和歌山県文化財研究会)に掲載されていた(財)和歌山県文化財センター理事長小関洋治氏の講演録の中で、この茶室が紀州ゆかりだと知りびっくりしました。私は8年前の大学祭の折、キャンパスを訪れ構内見物していたらこの茶室に行き当たりました。大学構内にしては風雅な建物があるものだと、茶室に上がり一畳敷にも座わりました。由緒を読みましたが、今その時の備忘録を見ると「徳川なんとかさん(失礼なことで済みません)の麻布飯倉にあった云々」とあります。紀州との繋がりを意識していなかったからでしょう。

一畳敷は“北海道”の名付け親と言われる探検家・松浦武四郎が全国の著名な神社仏閣などの古材を集めて神田の自宅に畳一枚分の建物を建築しました(明治19年)。その後、史蹟名勝天然記念物保存協会々長であった紀州徳川家当主徳川頼倫がこのことを知り、譲り受け麻布飯倉の南葵文庫裏庭に移築(明治41年)。関東大震災の後、代々木上原の徳川邸に移築され、茶室高風居が併設された(大正14年)。更に、日産財閥山田敬亮が買取り現在地に移築、泰山荘となる(昭和9年)。更に、中島飛行機の研究所用地として泰山荘を含め売却(昭和15年)。戦後、国際基督教大学の用地となる(昭和25年)。と、5人の所有者の手を転々としましたが、建物自体はそのまま保存されています。通常は非公開のようですが、公開されることがありますので大学のHPなどでチェックしておくと宜しいかと思います。

全国から集めた古材の出所について、小関洋治氏の講演録から抜粋しますと、一畳敷には「四天王子、興福寺、若王子、出雲大社、伊勢神宮、鶴岡八幡宮・・・熊野本宮大社の天井板、熊野速玉神社の欄間、・・・」。高風居には「赤坂邸にあった石灯籠、長保寺多宝塔の縁側、下津・善福院の腰羽目板、和歌浦東照宮の塀の格子、その他日前宮や鷺の森別院、和歌山城・・・戦艦三笠の部品の一部、池上本門寺の柱、川越・喜多院の・・・」だそうで、よくぞ収集したものと呆れるばかりです。

(13)わかやま喜集館(千代田区、社団法人和歌山県観光連盟東京観光センター)

JR有楽町駅東側に隣接する東京交通会館ビル地下1Fにある和歌山県のアンテナショップ。和歌山県の観光案内・物産販売・イベントなど和歌山のこと盛りだくさんの情報発信基地。

わかやま喜集館(千代田区)
わかやま喜集館(千代田区)
(14)和歌山県東京事務所(千代田区、都道府県会館12F)

和歌山県庁の知事室に属する組織。肩苦しく言うと、所掌事務は「県政一般の事務に関し国会、政府関係機関及び中央諸団体との連絡調整」などとなります。

和歌山県東京事務所(千代田区)
和歌山県東京事務所(千代田区)
(15)財団法人和歌山県奨学会東京学生寮(調布市)

昭和31年(1956年)多くの方々の尽力により、県人の子弟が安心して勉学に励める環境を提供し、団体生活を通して有為の人材を育てることを目的として、東京都調布市に開設されたものです。敷地面積1917u、建物1724u、鉄筋コンクリート造、収容人員55人。これまでに800人以上の寮生が巣立ちました。

和歌山県奨学会東京学生寮(調布市)
和歌山県奨学会東京学生寮(調布市)
(追記)

これまで3回に分けて東京にある紀州ゆかりを探してきました。何分とも歴史や郷土史の専門家でもない素人が気がつくまま目につくまま嬉しくなって羅列したものですから、間違いや抜けが多々あろうかと思います。皆様からの御教示を宜しくお願い致します。

紀州ゆかりの事物がこんなにも東京に残されているということで、一寸だけ郷土自慢の種が増えれば好いなあと思っています。

参考資料

  • 「南紀徳川史6」堀内信編、南紀徳川史刊行会
  • 「和歌山県史 近世」和歌山県
  • 「藩史大事典 第5巻近畿編」木村礎、村上直、藤野保編、雄山閣出版社
  • 「徳川幕府事典」竹内誠編、東京堂出版社
  • 「江戸史跡事典」新人物往来社
  • 「江戸編年事典」稲垣文生編、青蛙房社
  • 「江戸屋敷300藩いまむかし」青山誠、実業の日本社
  • 「江戸復元図」東京都教育委員会
  • 「江戸古地図散歩」池波正太郎、平凡社
  • 「江戸切絵図集成」斉藤直成編、中央公論社
  • 「古板江戸図集成」古板江戸図集成刊行会編、中央公論美術出版社
  • 「寛永江戸図」山田清作編集、東京米山堂
  • 「復元江戸情報地図」児玉幸多監修、朝日新聞社
  • 「中央区沿革図集 京橋篇」中央区立京橋図書館
  • 「歴史と文化の散歩道」東京都
  • 「江戸図屏風の謎を解く」黒田日出男、角川選書
  • 「頼貞随想」徳川頼貞遺稿刊行会編、河出書房
  • 「千駄ヶ谷昔話」渋谷区教育委員会
  • 「花葵 徳川邸おもいで話」保科順子、毎日新聞社
  • 「鶴川日記」白洲正子、PHP
  • 「渋谷区史」東京都渋谷区
  • 「(絵本)なかのちょうじゃとじょうがんじ」成願寺観音奉賛会
  • 「きのくに古代史研究叢書第二輯 丹生神社と丹生氏の研究」丹生廣良
  • 「神坂次郎の紀伊半島再発見 第十巻」神坂次郎
  • 「図説 徳川将軍家・大名の墓」河原芳嗣、アグネ技術センター
  •  
  • 「十二社 熊野神社の文化財」新宿ミニ博物館
  • 「青山熊野神社」青山熊野神社
  • 「多宝山成願寺」多宝山成願寺
  • 「池上本門寺を散策してみませんか」池上本門寺
  • 「静嘉堂茶道具 鑑賞の手引き」静嘉堂文庫美術館
  • 「粟島神社由来」粟島神社氏子会
  • 「清澄庭園」東京都公園協会
  • 「旧芝離宮恩賜庭園」東京都公園協会
  • 「増上寺御霊屋」増上寺
  • 「妙善寺」妙善寺
  • 「よみがえるパイプオルガン」台東区立旧東京音楽学校奏楽堂
  • 「きのくに文化財43」(社)和歌山県文化財研究会
  •  
  • 北区HP
  • 渋谷区HP
  • 新宿区HP
  • 中央区HP
  • 港区HP
  • みくまのネットHP
  • 神奈備HP
  • 日光田母沢御用邸記念公園HP
  • 静嘉堂文庫HP
  • 東京都公園協会HP
  • 池上本門寺HP
  • 増上寺HP
  • 寛永寺HP
  • 長保寺HP
  • 高野山東京別院HP
  • 和歌山県立博物館HP
  • 泰山荘プロジェクトHP

(2012.6)
(執筆者の所属、役職等は発表当時のものです)

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