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森を考えるヒント(1)

主任研究員  山東 良朗

第1部 森と文明 〜遙かに続く子孫のために〜

1.文明移動説
■ 地上最大の生物

20代の頃、南アルプスに足繁く通っていた時期があった。南アルプスには原生林が多く残っており、登山者も北アルプスに比べ格段に少なく、静かに山を愉しむには格好の山塊であった。しかし登山者が少ないことでしばしば困ったことも起こった。倒木である。登山者が多い登山道は整備が行き届き、倒木も直ぐに取り除くか迂回路がつけられるが、滅多に人が踏まない道では倒木は厄介なものである。直径1メートルもあるような倒木は、突然目の前に壁が現れたようなもので、落語で巨大なウワバミが道を塞いでいる場面が登場するが、倒木は食いつきはしないものの、その厄介さは変わらない。下をくぐるほど隙間はなく、乗り越えるには手がかりも足がかりもない。夕暮れ間近で途方に暮れたこともあった。

数百年の寿命を終えてこのように横たわっている巨木は、地面に根を生やして立っている時よりも余程巨大に感じるものだ。アメリカのカリフォルニア州のレッドウッド国立公園には、寿命が数千年、樹高が100メートル(記録は112メートル、35階建のビル以上の高さ、この樹は「ダイアビル・ジャイアント」と呼ばれ、1991年の暴風で倒れた。それまで110メートルと云われていたが、倒れてから計測すると112メートルあった。因みに現在の最高は111メートルである)、目の高さの幹の周囲が20メートル以上というレッドウッドの森が広がっている。この木が倒れれば大地が鳴動するであろうし、道を塞げば、目の前に高層ビルが現れたようなものだろう。高さの記録でいうなら、オーストラリアのユーカリの一種は樹高150メートルを記録したという、未確認データもある。

また、巨大さでいうなら、アメリカのセコイア国立公園のジャイアント・セコイアの「シャーマン将軍」は、樹高83.82メートル、幹周り25.3メートルで、毎年15立方メートル大きくなり、現在の重量はおよそ2,500トンに達している。このような巨木でなくとも、当然のことのようにそびえる樹木だが、地球上にこのような巨大で多様な生物が存在することは不思議である。

しかし、この恐ろしく長い寿命を持つ巨大な生き物は、われわれ動物よりもずっと早く地上に現れ(約4.2億年の昔、原生羊歯植物が上陸し、約3.5億年の昔の石炭紀、つまり現在の石炭が形成された時期には大森林が広がっていた。ただし、上陸の時期は文献によって多少、といっても数千万年もだが、異なっている)、大地を支配して来た生物である。石炭紀には陸地の至るところに今日の熱帯雨林のような巨木(廬木、鱗木や封印木などの羊歯植物が中心)の森が広がっていたのだろう。その後植物は気候変動によって盛衰を繰り返しながらも、様々な条件に適応する方向に進化して行った。

■ 照葉樹林

日本では主として山にしか森林と言える森林は残っていないが、山地が国土の約7割も占めるわが国の場合は、諸外国(世界の森林面積は約39億ヘクタールで、陸地の約3割を占めるにすぎない)と比較すれば、森林面積の割合は格段に大きいといえるだろう。しかし、もしわが国に山地がなかったなら、今頃森林はほとんど無くなっていて、そして国土のほとんどが不毛の地になっていたのではないか、という想像がつきまとう。急峻な山地があったおかげで、容易に田畑への転用や開発ができず、樹木を伐採して放置すれば山崩れや鉄砲水が発生し、人間の生活に甚大な被害を与えることを、経験からわかっていたから森林は残ったのかもしれない。平均年降水量1,600〜1,800ミリ、年間降水量は6,700億トンに達するという大量の雨から、山の森林は国土を守っており、日本人は洪水を防ぐ手だてとして自然の森のコントロールに委ねてきた。森林、特に里山と呼ばれる人工の森は、江戸時代には燃料の供給源や山の幸を得る場所として貴重であり、「入会地」としての管理下で里山の樹木は大切にされ、計画的に必要な分だけ伐採されていた。そのような日常の自然の営みの中に、日本人は森に「神」の面影を見つけ、やがて日本人の伝統的な自然観と結びつき、森がその舞台となって行ったのである。日本では人間と森は対立するのではなく、共存する関係になったのだ。

日本の地理的位置、つまり東アジアはモンスーン(アラビア語のmausim:季節から出た語で季節風の意に使用されるが、特に夏は南西モンスーンが陸に向かって吹き、冬は北東モンスーンが海に向かって吹く季節風を指す。中でも夏のモンスーンは湿気を含んだ強い風が陸に吹き付けるため、暑熱と湿気を多分に含み、東アジア一帯に独特の風土を築いている)地域に属しており、特に日本では他地域に類例がない梅雨があり、夏から秋の台風の時期とあわせて大量の降雨をもたらしている。中尾佐助氏、上山春平氏、佐々木高明氏などの玄学の先人が、このような夏期周辺に大量の降雨がある地域に根付いた文化を、その地域に繁茂する樹木から「照葉樹林文化」と名付けている。数千年前には常緑性のカシの仲間の森林が西日本を中心に茂っていた。照葉樹林と言ってもピンと来ないが、主要構成樹木は葉に光沢がある、アカガシ、シラカシ、ウラジロガシ、アラカシ、イチイガシなどであるが、現在ではほとんど破壊されてしまい、余程山奥に行かないと本来の照葉樹の森は見られない。ただそれぞれの地域に残っている神社の鎮守の森に、その面影が今も引き継がれているという。春から夏にかけて入道雲のように、もくもくと湧くように葉が茂る森林である。

鎮守の森には社があり、森自体が神域であるため、この森を切ると罰が当たるのではないかという、われわれ日本人に固有の信条によって鎮守の森は守られて来たのである。ところが明治39年の「神社合祀令」によって、1町村1神社に統合しようとした。統合目的はいろいろあったのだが、本県の博物学者南方熊楠らの徹底抗戦で、ようやく14年後に「神社合併無益」が衆議院で決議され、神社合祀は中止となった。しかしこの時点で既に19万あった神社が11万までに減少しており、それだけ照葉樹林文化の面影を残す鎮守の森も姿を消したのである。統合の嵐が最も激しく吹いた県のひとつが本県であったのは残念なことである。

さて、人類と森林の関係を調べてみれば、両者の関係があらゆる面において密接であることがわかる。文明と森林、都市と森林、生活と森林、個人と森林、人類に関わるすべての段階で何らかの関係が存在している。しかし、人類の歴史は森を切り開く歴史でもあった。森林に深く関係しながら、新石器時代以降の人類の歴史の大部分が、森林を人類と対立する物体としか見て来なかった。科学技術の発展は長い間、自然を征服するために発達してきており、その征服した自然に森林も含まれている。人類は500万年ほど前までは森の中のサルであった、という事実は宗教上の理由で進化論を否定でもしない限り異論はないであろう。サルから分離した瞬間から人類となったとしても、その歴史はせいぜい500万年でしかない。しかし森林の歴史は石炭紀からでも3億5千万年である。両者の地球上でのキャリアの差は歴然としている。

■ 文明の一般理論

現在知られている過去の文明の多くで、2000年を超えて維持出来たような文明はほとんどなかった。僅かな例外として長い期間繁栄を誇ったのは、メソポタミア文明、インダス文明、エジプト文明、黄河文明のいわゆる四大文明であるが、他の大抵の文明は文明が根付く恵まれた環境条件の下で進歩が2、300年も続けばその文明は衰退し、滅亡するのが常であった。余程恵まれた環境条件が無い限り、その文明が華やかで輝かしいものであればあるほど、その文明が維持できる期間は短かくなる。われわれが考古学的に知っている文明の他にも、多くの文明が生まれては消えて行ったことだろう。

文明の維持には、多くの物資が必要であり、その結果として、天然資源を枯渇させたり、自然資源を収奪して自然の恵みに大きな打撃を与えて来たのだ。豊かな森林から樹木を切り倒して、燃料や資材として使い、伐採の跡地で家畜を過放牧したため、根こそぎ植物の生命を奪ってしまった。多くの野生生物を食糧や楽しみのために殺し、河川を汚染しては水生生物の住処と生命を奪ってしまった。農耕地の酷使から土壌の力が落ち、森林の減少に伴い恒常的に川の水量が減少し、また大雨が降れば洪水を繰り返した。近くで採取できる金属などの天然資源を浪費し枯渇させた。つまり、文明とは文明が起こる温床である恵まれた環境を食いつぶすことにより、繁栄し、資源の減少とともに衰亡し、やがて絶滅するものである。もはやその地で文明を萌芽・発展させることはもちろん、維持することすらできない。残された道はそのまま自滅するか、元のような恵まれた環境のある地域へ移っていくしかないのである。

文明は人類が自然環境と協調してはじめて長期に維持されるのだが、過去から現在まで見渡しても、未開民の生活を除けば日本の江戸時代のような僅かな例外はあるものの、巨大になった文明には恒久に自然環境と協調できるような文明はなかった。われわれが今生きるこの文明を含め、すべてやがて滅びる運命にある文明である。なぜなら、われわれが自然環境に与えるものより奪うものの方が遙かに大きいからだ。

「文明」とは何かという議論を避けては通れないが、ここでは簡単に触れることにする。人間がすべて農業や狩猟など食糧生産に携わっていたのでは、文明は生まれて来ない。食糧、衣服、建築資材などの生活必需品に余剰があってはじめて、文明が勃興する気運が生まれるのである。余剰があるため、直接生産に従事しなくてもよい階級、つまり、政治家、軍人、科学者、哲学者、芸術家などを生み出すことができ、ここから文明が萌芽するのである。そういう直接生産活動に従事しない人間が集中して生活する空間、すなわち都市が構築される。したがって、都市を持たない文明は無いといえるかもしれない。また都市は余剰生産物による支えがなければ存在しえないのである。

整理すると、文明の存在を証明するのが都市であり、都市は周辺の生活必需品を生産する広大な地域と生産者に支えられている。すなわち、直接生産者が余剰を生み出さなくなれば都市は崩壊し、文明は滅亡するしかないのだ。その直接生産者の活動を支えているのが、森林を含めた環境なのである。

■ 地球の年表

地球の年表・クリックすると拡大します
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■ 文明を滅ぼすもの

文明が欲する余剰の最大のものは食糧であった。都市を支えるほど安定した食糧の獲得は、農耕に頼らなければ得られない。しかも、天水に頼る農耕であれば、日照りの年には充分な水が確保出来ないため収穫量が一定せず、安定して都市を支えることは難しい。したがって、古代の都市は灌漑によって水を供給して行う農業、つまり灌漑農業から得られる余剰生産物に頼っていたと考えられている。このことで、文明の多くが大河の辺に成立したのは、生活用水の確保ではなく灌漑用水の確保のためであったということがわかる。

灌漑農業が持続されるのならば、つまり灌漑農業の持続可能な環境が維持できれば、その文明は永久的に存在することができる、ということができよう。例えば、文明化された国家(国家という意識は生まれていないかもしれない)が遊牧民や蛮族に武力侵略され、都市が破壊され、家々が焼き払われ、住民の多くが虐殺され、追放されたとしても、文明を支えていた環境が残っている限り、再び人々は集まり都市は復興され、文明は何もなかったように存続することができるだろう。また、蛮族に征服されてそのまま蛮族が居座ったとしても、蛮族が徐々に文明人に変化していくことは自明である。荒野を放浪しているより、奴隷民に耕作を任せて都市に住む方が遙かに生活は安定するからだ。あるいは、国家の指導者に暗愚な者や無能者、あるいはひどい怠け者、又は残忍な極まりない暴君が現れ、好き放題に横暴な政治を行ったとしても、その結果政権が他の者に奪われるようなことが起こっても、一代で文明自体を滅ぼすようなことは通常起こり得ない。一時的に発展が止まっても、やがて文明は歩きはじめるものである。

食糧生産に関わる何らかの環境の要素が欠如してはじめて、文明は崩壊する。食糧生産で常にネックになるのは、灌漑農業の水の確保に何らかの障碍が発生することである。水を得るのに障碍があれば灌漑農業は、農地としての機能を発揮できなくなる。特にメソポタミアやインダスのような乾燥地に起こった文明には、致命的な打撃が与えられよう。水が得られなくなる直接の原因は、河川水や地下水が干上がったり、大洪水の頻発によって灌漑施設に大きな損害を受けることなどであるが、充分な水が確保できないと、それまで流し去ることができた塩分が地表面に集積して、耕地自体が使いものにならなくなる場合が多い。

これらの水に関するトラブルの原因は、広大な森林の伐採によるところが大きい。灌漑農業を河川水や地下水が支え、その水を遠く近くの森林が支えているのである。森林が無くなれば、保水能力が落ち、雨が降っても直後に水が涸れ、大雨や雪解けの時期には頻繁に洪水を引き起こす。治水は文明のひとつの重要な条件なのである。森林を食いつぶしながら文明を大きくする人間は、キャベツを食い荒らしながら成長するものの蝶になれないアオムシのようなものである。アオムシの勢いが強ければキャベツは直ぐに無くなってしまうのだ。キャベツがなくなればいくら立派になったアオムシも死んでしまうのである。

文明というものは一朝一夕にできあがるものではない。相当長い準備期間が必要になる。人間は文明を作るつもりで日々生活しているわけではなく、豊かにカルチベートされた生活の結果文明が誕生するのである。それが文字まで作り出せるような高度な文明であれば、1000年もの準備期間が必要であると考えられている。そのような長い準備期間を経て、文明が成立した後も文明を数百年、数千年も支えられるほどの広大な森林資源が背景に必要なのである。

■ 魔法のランプ

人類最古の文明、チグリス、ユーフラテス川流域に発生したメソポタミア文明は、紀元前8500年頃始まったと云われている。次いでインダス川流域に、インダス文明が紀元前7000年くらいに発生する。これら人類最古といわれる文明は、メソポタミア文明の位置が現在のイラクに大部分が包含されており、またインダス文明はインドとパキスタンにまたがる地域に位置しているため、ともに政治的不安定さから、発掘がなかなか進んでいないのが現状である。

それでもこれらの文明やその他の四大文明の一つ、黄河文明については、古くから注目され研究者も多く、それなりに文献も豊富にあるため、個々の文明については後に再度記述する。

今ここで注目するのはチグリス川とユーフラテス川流域、およびインダス川流域に人類最古の文明が起こったということである。現在のこの地域は砂漠地帯であり、過去の華やかな文明を誇った古代都市は分厚い砂に埋もれて、今は誰も住まない遺跡となっている。

すでに述べたように、これらの都市を支えたのは灌漑農業の発見とその発達であった。農耕の起源は、自生していたムギを採集した種が偶然こぼれて発芽したのを見て、自然に自生するムギを採集するより、種を撒いて栽培する方が多くの収穫が得られることを知ったことにはじまるといわれる。その後、人類はより豊かな農地を求めて森林から大河のほとりの平野に出る動機となった。そして都市という集団生活形態を可能にしたのである。食糧の安定的な供給は人口の増加を招き、文明への準備となるのである。

農耕のはじまりについて、安田喜憲氏は「大河文明の誕生」の中で別の説をとなえている。氷河期が終わり温暖になった頃、人々は木の実の豊富な森林に定住するようになっていたが、紀元前1万2800年頃寒の戻り(ヤンガー・ドリアス)があり、木の実の収穫量が激減し、食糧難に陥ったとき、人々は草原に出て野生のムギ類の栽培をはじめたという説である。このプロセスを、気候の温暖・湿潤化→草原の縮小・森の拡大→大型哺乳動物の生息環境悪化→森での定住化の開始→植物利用技術の獲得と人口の増加→ヤンガー・ドリアスの寒冷期→食料危機→草原の禾本科の利用と農耕の誕生、と整理している。

人がサルから別れて500万年といわれるが、その最後の1万年前になって突然農耕をはじめる。過去499万年の間、技術的に大した進化をしなかった人類が、農耕をはじめた途端現在の科学技術につながる進化をばく進し始めたのである。人類は1万年前、農耕という魔法のランプを手に入れたのだ、としか言い表せない。しかし魔法のランプの種明かしは比較的簡単だった。

一箇所に住む増加した人口は、燃料や資材として周辺の大量の森林を伐採する結果となった。都市に住む大勢の人々の日々の生活に使用する薪や、家屋建築資材、交易船や軍船の製造のため森林は瞬く間に皆伐されてしまう。森林が無くなればどうなるか、それを防ぐために植林するなどの思想がなかったため、伐採跡地の表土は失われ、砂漠化して行った。「文明の跡に砂漠ができる」、というのは蓋し名言である。「魔法のランプ」の種は森であった。

■ 文明の移動

また紀元前2000年頃から、北半球の中緯度地方では気温が上昇し、一方降水量が減少して激しい乾燥化がはじまる。現在広々と横たわる砂漠のほとんどがこの頃から形成がはじまったものである。世界一の砂漠サハラにしても、今のような不毛の地になったのは紀元前後と云われ、案外新しい出来事であった。ところでアラビア語では砂漠を「サハラ」と「バーディア」に区別している。サハラは何もない、空虚という意味で、サハラ砂漠のような砂しかない砂漠を指す。バーディアとはまばらに草木が茂ったオースラリアなどに見られる砂漠を指す。遊牧民が生活できるのは後者のバーディアである。

砂漠化によって農耕に支障が出て都市住民を養えなくなったとき、キャベツを食い尽くしたアオムシが次のキャベツに移るように、文明は森林を求めて(直接求めたのは農耕地であろう)、メソポタミア文明は西方へ移動し、インダス文明は東方へ、と割り切るのは無理があるが、東西に別れて文明は伝搬し、西に進んだ文明は地中海からヨーロッパ全域に広がり、東に進んだ文明は黄河文明と連動して日本を含む東アジアに行き着いた、と一説では考えられている。

この文明を支えていたのは、もちろん農耕技術であるが、西に向かった文明と東に向かった文明とでは少し違っていた。ヨーロッパに向かった文明は、農耕のほかに牧畜というものが付随したが、東に向かった文明にはそれがなかった。この違いは東西の気候の差異に起因しているのかどうかわからないが、双方とも乾燥から湿潤への順化であることに間違いがない。気候の特徴で分けるとヨーロッパはやや乾燥で、東アジアは湿潤といえる。それぞれの地域の気候への順応の仕方、また農耕の性格から分類すれば西に向かったのはムギ栽培と放牧を中心とする乾燥農耕であり、東に向かったのはコメ栽培を中心とする湿潤農耕であった。そして文明が辿って行った地域に形成された樹木の種類、つまりカシ類の特徴により、ヨーロッパへ伝搬されたのは硬葉樹林文化、東アジアに伝搬されたのは照葉樹林文化と区別されている。気候的な特徴はヨーロッパでは冬に雨が降り夏は乾燥する、一方東アジアは夏雨が多く冬に乾燥することである。樹木は夏場に成長するものであるから、夏に乾燥するのとたっぷりと水が得られるのとでは、自ずと樹木の成長に差が出るであろう。

ところで、東アジアでは確かにコメを中心に食生活が成り立っている。しかし、欧米人は東アジアのコメに対応してムギを主食と考えるには難がある。欧米人の食事内容を見れば、肉がパンよりも余程大きく、パンは申し訳程度に皿の端に載っているだけである。農耕地の目的別面積を見ても、東アジアは米食文明といえても、欧米は麦食文明と呼ぶより肉食文明と呼ぶのが正しいであろう。したがって、BSE(いわゆる狂牛病)の発生は欧米では食文化を根底から覆す大きな事件であったのだ。

また、メソポタミアからはじまった放牧で飼われたヤギやヒツジは、伐採された森林に決定的な打撃を与えた。地上に出ている部分しか食べないウシと違い、行儀のいいヤギやヒツジは根まで残さず食べ尽くしてしまうため、森林どころか草も生えなくなる。一方、肉食を長い間断っていた日本(仏教が伝来して間もなく肉食の禁止のおふれがでている)では、放牧のために森の木を切る必要はなく、日常生活や防災の面ばかりか水田の維持管理にも山の森林は必要だったのである。

動物が家畜化された地域(ハーラン、1976)

地域名 家畜名
中国 (牛)、(豚)、(アヒル)
東南アジア ガヤル、バリ牛、(鶏)、(水牛)、(豚)
インド (牛)、(水牛)、(鶏)
中央アジア 馬、フタコブラクダ、ヤク
近東 羊、山羊、ヒトコブラクダ、(牛)、(豚)
北ヨーロッパ トナカイ
ヨーロッパ (牛)、(豚)、(アヒル)、(ガチョウ)
アフリカ ロバ、ホロホロチョウ、(アヒル)、(ガチョウ)
アメリカ北部 七面鳥
アメリカ中央部 ムスコヴィーダック、(七面鳥)
高地南アメリカ ラマ、アルパカ、モルモット

注)( )は2地域以上で家畜化されたもの
江崎春雄、岸上定男、井上嘉幸編著『水と土と緑のはなし』より

ヨーロッパに至った文明は牧畜というものが付随したため、広大な面積が必要になり、ヨーロッパを覆っていた森林を切り開いて放牧場や牧草地を拡大しなければならなかった。またそれは家畜を襲うオオカミなどの猛獣を駆除するためでもあった。不用意な森林の伐採が、古代文明を滅ぼしてしまったという教訓は、ここでは生かされなかった。東アジアにたどり着いた文明には、牧畜を伴わなかったため、必要以上の急激な森林の伐採は起こらなかった。但し、黄河文明は森林に覆われていたと云われている黄土高原を砂漠にしてしまったという事実はあるが、このことについては後に述べる。ところで、文明が行き着いたユーラシア大陸の西と東の端、つまりヨーロッパのイギリスとアジアの日本に、やがて新しい文明の受け皿となる力が与えられたとも考えられる。イギリスは産業革命に代表される西洋文明の発祥地であるが、一方日本は江戸時代に象徴される「循環型文明」の実証地である。元は似た文明の伝搬が風土の違いにより、全く性質の違う文明を生み出したことは興味深い。

メソポタミア文明など最も早く芽生えた古代の大文明は、どのように森と関係を持ち、森と文明の衰退はどのような関係にあったのだろうか考えてみよう。

2.過去の文明と森林
○メソポタミア文明
■ ギルガメッシュ叙事詩

地中海に面する国レバノンの国旗には、堂々と根を張り、太々とした枝を空に伸ばした巨木が描かれている。この国の名を持つレバノン杉である。かつて、レバノンの中央を走るレバノン山脈にはレバノン杉を中心に豊かな森が広がっていたというが、現在のレバノンの森林率はわずか7パーセントに過ぎず、褐色の砂漠の国になっている。その原因に人類最古と思われる文明が絡んでいた。

メソポタミアで石に刻まれた世界最古の物語「ギルガメシュ叙事詩」では、メソポタミアの都市国家ウルクを大きくするため、メソポタミアの民が恐れていた森を守る森の神フンババを、ギルガメシュ王が友人エンキムドゥとともに殺したとある。「ギルガメッシュ叙事詩」の前半は森の木を手に入れる話である。それ以来森を守る恐ろしい神はいなくなり、森林伐採が急速に進むことになる。フンババが守っていた森とはレバノン杉の森であった。

因みにこの物語の後半は、メソポタミアの最高神エンリルは森の神フンババを殺したことに激怒し、エンキムドゥに死を与える。それでギルガメシュ王は友人をこの世に連れ戻すために、あの世を旅するのである。旅をしているとウトナピシュティムという老人に出会う。この人は旧約聖書に出てくる「ノアの箱船」のノアその人であった。老人はギルガメシュに永遠に続く命はないことを諭す、という話が続くのである。

神話や故事は事実を婉曲に述べることが多い。ここでメソポタミアの民が森を恐れていたというのは、森に家畜を襲う猛獣が棲んでいたということもあろうし、メソポタミアで栽培されていたムギなどの食糧を奪おうとする蛮族が、森に身を隠して近寄って攻めて来たようなことも、頻繁にあったのだろう。森は危険であるから近づくな、という掟のようなものがあったのかも知れない。その蛮族をギルガメッシュ王は追い払ったのであろうか。蛮族を森の恐ろしい守り神フンババと言い換えて、叙事詩に登場させたのかもしれない。つまり、この時期、森は敵や猛獣が潜む恐ろしい場所、人間の思い通りにならない場所として、人間に対立する存在と認識されていた。ギルガメッシュ王にフンババが殺されると、呪縛が解けて森は堰を切ったように伐採されたに違いない。

シュメールに初めて生まれた都市国家ウルあるいはウルクは、およそ100ヘクタールの面積を持ち、中に3万4,000人ほどの農業を直接営まない人々、つまり都市住民が暮らしており、さらにその周辺には、農民が20万人程度住んでいたと考えられている。

ところで「ギルガメシュ叙事詩」にノアが登場するように、旧約聖書の「ノアの箱船」の伝説は、チグリスとユーフラテスという2つの川に、洪水が頻繁にあったことに起源があるという。繰り返される洪水の反面で、乾季にはひどい水不足に陥ったようだ。

宮殿や寺院の建築資材、焼きレンガを作るための燃料として、船の材料、そして農地を増やすために森林の伐採は続けられ、チグリスとユーフラテスの洪水と渇水はますますひどくなって行ったと思われる。

■ 森の喪失と農地の衰退

家畜の放牧というのは、人類が築いたひとつの文明の証なのだが、既に述べたようにヒツジやヤギは草だけでなく若木の根まで食べてしまうため、伐採地で放牧した結果森林の再生は永久的に不可能になってしまったのだ。

乾季には極端な水不足となり、雨季には大量の水とともに土砂が下流に運ばれ、灌漑施設をこわしてしまった。このため地下水位が上昇し、土壌中の塩分を地上に押し上げ、さらにわずかに耕地に引かれた水は、この地方の強烈な日射しで瞬く間に蒸発するときに、地表にまで塩分を引き揚げてしまったのだ。現在もこの地方の農地の多くは塩が固まって白く光っている。灌漑施設には排水の設備を併設して、塩分を含む水を排出できるようにしなければならない。ムギは乾燥に強く、メソポタミアに文明が誕生したのは、ムギという植物のおかげであったとも云えるが、小麦は塩分に弱く、塩分が地表に現れるとすぐに収量は激減しやがて穫れなくなった。塩分にやや強いといわれる大麦も収量を減らして行った。現在と違い食糧不足に陥っても、国際的な緊急援助などは得られない。急速に食糧が無くなれば、どのような阿鼻叫喚の世界になるか、われわれには想像できないであろう。

もし大量の水で表土にたまった塩分を洗い流してしまえば土は蘇ったのであろうが、どうしたのか灌漑施設を再び築こうとはしなかった。蛮族に攻められ国力が弱っていたのか、住民に働く意欲がなくなってしまっていたのか、川の氾濫と渇水がもはや人の力では対処できないレベルに来ていたのか、あるいは現在の日本のように、一見華やかな都市文明に魅せられ人民の農業離れが極度に進んだのかもわからない。食糧の裏付けを失った都市文明は存続の仕様がない。紀元前2000年頃栄華を誇ったメソポタミア文明は滅亡したと云われる。

それから千年を越す長い時間が流れて、ヘブライ人が建設したイスラエルのダヴィデの子のソロモン王の時代のこと、王は贅沢を尽くし、中でも芳香を放つレバノン杉を愛し、大規模な宮殿や寺院、有力なヘブライ人向けの住宅などのため、どんどんレバノン杉の伐採を行った。このソロモン王だけでなく、ローマ人、アラブ人、トルコ人など、この地域を支配した者は必ずレバノン杉の虜になり、際限なく切り倒し壊滅的打撃を与え続けた。森が無くなればやがて農地も地力を失い、そうなれば人知ではどうにもならず放棄されてしまう。地中海の周辺をはじめとしたヨーロッパの各地に似たようなことが起こったのである。そのような歴史の果てに今の荒涼とした地中海世界があり、緑化の努力にかかわらずレバノン杉の森は遅々として増えていない。

砂漠化してしまったのは陸上だけではない。周囲の陸地が砂漠化した地中海自体も生物に乏しい海の砂漠と化している。森林は農地の地力を維持するだけでなく、海の生物も育んでいるのである。

かつてメソポタミア文明が栄えたことを今に知らせるのは、壮大なウルやウルクの遺跡と、わずかに残ったレバノン杉の老木である。ポツンと残った老木が見てきたのは、余りに悲しい仲間の衰退の歴史であった。

○インダス文明
■ 大河ガッカル・ハークラー

インダス文明は、1921〜22年にD・R・サハニがハラッパーを、R・D・バネルジーがモヘンジョ・ダロを調査して発見したという、比較的近年に発見された古代文明である。インダス文明は、四大文明の中でも多くの謎が残っている文明と云われている。その理由のひとつには、過酷な環境が挙げられよう。「光に刺し殺される」、とNHKの取材班(四大文明「インダス」)は表現しているが、この辺りは猛烈な暑さと乾燥にさらされている。このような場所の遺跡の発掘は一朝一夕に進まないであろう。また、モヘンジョ・ダロ周辺は湧き水が多いという原因もあって、1960年から発掘はほとんど進まず、現在わずか5パーセントの発掘の進捗率である。それでも世界を驚愕させるのに充分な遺跡が見つかっている。ただ残念なことに、遺跡から出土したくさび型文字は未だ解読されていないため、古代文明の謎解きも思うように進んでいない。

インダス文明は、メソポタミア文明に1000年程度遅れて開花したとされるが、石器時代からいきなり都市文明が起こったかのような出現の仕方をする。

インダス文明では広範囲に数多くの都市の跡が見つかっている。シイド地方のモヘンジョ・ダロ、チャヌフ・ダロ、パンジャブ地方のハラッパー、ラージャスターン地方のカーリバンガン、バナーワリー、カッチ地方のドーラビーダー、スールコータダー、サウラーシュトラ半島のロタールなどの都市の遺跡が発見されているが、モヘンジョ・ダロが最も規模が大きく、おそらくインダス文明の首都的機能を果たしていたのではないかと云われている。

モヘンジョ・ダロは、パキスタン南部のインダス川右岸にあり、およそ1.6キロ四方の面積に、最盛期には3万ないし4万の人が暮らしていたと云われ、規模的にはメソポタミア文明のウルと同じくらいであろう。しかし、この都市には、紀元前2300年頃という時期にもかかわらず、すでに住居地、道路、下水道などの現代の都市とそれほど変わらない都市基盤を備えていたことが遺跡からわかっている。

このように大規模な都市が林立するインダス文明には、その都市を支える相当肥沃な農地があったはずである。しかし降雨量は、モヘンジョ・ダロの周辺で年間100ミリ以下、ハラッパーで200ミリ前後、インダス川上流のパンジャーブ地方でやっと500ミリ程度(日本の平均年間降水量は1,600〜1,800ミリ)である。このような高温の乾燥地帯に文明が発生し得たのは、乾燥に強い麦類の栽培に成功したことが挙げられるのはメソポタミア文明と同じである。そして、ガンジスと現在は涸れてしまったガッカル・ハークラーという大河が当時この地域を流れており、これらの川から溢れた水を灌漑に使って麦の栽培を行っていた痕跡が残っている。これらの大河はヒマラヤに水源を持ち、豊富な雪解け水が地域一帯を潤していた。この水を都市の周辺に池を掘って貯めて、一年の大半に及ぶ厳しい乾燥に耐えていたようだ。

また、メソポタミア地域との海上交易も盛んに行われていたようで、アラビア海の中継地に当たるバーレーンやオマーンからもインダス文明の遺品が数多く見つかっている。メソポタミア文字は判読されているため、メソポタミア文字とインダス文字が併記されているような遺物が見つかれば、インダス文字の判読も一気に進むと期待されているが、まだ見つかっていないようだ。

■ 森林後退とスラム化

さて、人口が膨らむにつれて、農地が不足したため、周辺の森林を切り開いて農地にした。また、少人数ではさほど負荷にならなかった日々の燃料も、人口が増えるにつれて森に大きなダメージを与えるようになった。そこにメソポタミア文明と同じように、ヒツジ、ヤギ、ウシなどの放牧が行われたため、雨量の少ない地域の砂漠化は容易で、森林は折からの乾燥化と相俟って再生することはなかった。森林がなくなるとここでも気候変動が起こり洪水と渇水が繰り返され、地下水位が上昇すると塩分を農地の表面まで上昇させ、多くの農地でその機能が失われた。

モヘンジョ・ダロでは、少なくとも3回の大洪水に遭遇したと考えられている。その都度都市は再生されたが、都市の再生には大量の焼き煉瓦や材木が必要であったため、森林の伐採がさらに進んだ。

その上原因不明の都市のスラム化が、紀元前1800年頃から突然起こっている。ゆったり余裕をもっていた住居地には細かい区切りが設けられ、広々とした道路の上にまで細かく家が建ち並ぶようになった。現在の発展途上国の首都で起こっている人口爆発と同じような現象であろうか。農地の地力が弱まるにつれて、農民が農地を放棄し物資の集まる都市に大挙して集まって来たのかもしれない。とにかく人口が急激に増加したのではなく、周辺から集まって来たと考えるのが自然だろう。時の政府にそれを押し返す力もなかったのか、都市は疲弊して行った。つまり、これは都市が病んだのではなく、農地が病んだのであり、ひいては森林が病んだために、この壮大な文明が砂に埋もれる道を辿ったといえないだろうか。

数千年にわたる文明の推移を、このように簡略に書けば、如何にも当時の人々が軽薄で思慮が足りないような印象を受けるが、当時はチェーンソーもブルドーザーもなく、稚拙な鉄の斧で原始の森を伐採するのであるから、朝から晩までかかって1本の大木が切れるかどうかもわからない伐採スピードである。一人の人間が生きている間の森林の後退は僅かで、それは大した変化ではなかったのかもしれない。しかし森林はゆっくりとしかし着実に後退を続け、気付いた時には手遅れになっていたのか、いや、元々対処の方法を知らなかったのかもしれない。

インダス文明を支えていた森林には、トラ、ゾウ、サイ、スイギュウなど多くの動物が棲んでいたことは、発掘された石製の印章の図柄で証明されている。しかしそのような森は古代遺跡の周辺のどこにも見出せなくなっている。滅んだのは文明だけでなく、数多くの動植物の種も滅んでいるはずであり、その中にどんな有用な種があったかも、われわれは永久に知ることができないのである。

○黄河文明
■ 増加する黄砂現象

春先西日本を中心に黄色っぽい霞がかかったような現象が現れる。黄砂の飛来であるが、近年黄砂の飛来回数、量ともに増加傾向にある。2002年(平成14年)4月3日の朝日新聞の夕刊によると、全国123地点での目視による観測結果では、平成12年は延べ748日、平成13年は延べ856日観測されているが、昭和45年から50年の平均では延べ260日観測されたに過ぎなかった。3倍以上に増加していることになる。回数だけではなく、黄砂の量も増え白い乗用車に黄色い斑点が付くまでになってきた。この黄砂は太平洋を超えてアメリカ大陸に達するほどグローバルな現象だという。因みにヨーロッパにも黄砂に似た現象があり、これはサハラ砂漠が原因でフランスでは「赤い雪」が降るという。

遠く離れた日本に比較して黄土高原に近い北京などでは、ゴーグルをしないと表に出られないほどの砂が舞い降りる。視界も遮られ交通渋滞を引き起こしている。黄砂は昔から飛来していたのだが、この数年の増加は著しい。黄砂が舞い上がるには条件必要だ。空気が乾燥して、西よりの強い風が吹くことだ。風の強弱はほぼ例年同じであるから、近年の黄砂増加の原因は乾燥化に求められるのではないか。

ところで黄砂は害になるばかりではなく、面白い効能がある。黄砂にはカルシウム、マグネシウム、カリウムが日本の土壌の約10倍も含まれている。これらは植物にとって必須の栄養源であるため、黄砂によって植物の発育が促されるのだ。だから、黄土高原は水さえあれば植物が育つのである。また黄砂には酸性雨を中和する機能も持っているという。

黄砂は日本の2倍以上の面積があるといわれる黄土高原に堆積している、非常にきめの細かい黄色の土であるが、元々は中央アジアの砂漠の砂が風に吹かれて堆積したもので、平均30〜40メートル、場所によっては100メートル以上堆積し、黄土高原を形作ったと考えられている。この説と対立するものかどうかわからないが、洪積世の氷河時代の氷蝕作用によってできた岩粉のうち細かいものが風に乗って運ばれて、レスという堆積物、つまり黄土になったとも云われ、その後も氷河期が来るごとに、黄土は堆積して行ったという説もある。

鉱物の露天掘り跡のような、緑の一切無い黄土高原ではあるが、考古学的には「民族と文明のゆりかご」と呼ばれており、ここでは70万年前(一説では100万年以上も前)人類の遠い祖先である藍田原人が誕生し、続いて北京原人、丁村人そして現代人へと受け継がれて来た人類の歴史が埋もれている。つまり黄河文明はこれまで見てきた文明と違い、衰退はしたが滅亡しなかった文明である。現在も黄河文明を担った人々の末裔が数多く黄土高原を舞台に生活しているのである。黄土高原とは、別の名前は中国史などにしばしば出てくる中原のことである。春秋戦国時代には中原を制する者が天下を制すると呼ばれるほど、肥沃な地域であり、戦略上重要な地域であった。

黄土は乾けば軽い黄塵となり宙に舞い、湿れば粘着性をもち、それが乾けばレンガのような強度を持つ。そして雨水に当たればそのまま流れ出るという性質をもつ。黄土高原の年間降水量は400ミリ程度で、日本の4分の1ほどの乾燥地帯であるが、その雨は7月から8月にかけて集中的に降る。史書には「河水一石泥六斗」と記されている。川の水1立方メートルに含有する黄土は平均37.5キロといわれているが、580キロという記録も残っているそうだ。こうして毎年16億トンもの黄土が渤海を目指して流れていくのだ。途中流速が衰えると、黄砂は河床に堆積しその部分は天井川となり、洪水時には周辺の住民に大きな災害をもたらしている。

この荒涼とした黄土高原は深い森林に覆われていた時代があった。その証拠にここでアジアゾウの骨格が発見されている。このゾウは木の葉や枝を1日に300キログラムは平らげるというから、豊かな森がなければ棲息することはできない生物である。そのような森に覆われていた頃、人々は農耕に携わるほかに森での狩猟や採集を行い、現在の黄土高原で乾燥した黄土を耕す人々より余程豊かな生活をしていたことだろう。

■ 古代国家の興亡

中国の最古の王朝は司馬遷の「史記」に記述がある夏といわれているが、それが実在したかどうか長い間疑問視されてきた。しかし、近年の遺跡の発掘などでどうやら実在した王朝らしいと云われているが、それが文明と呼べるほどのものであったかは判然としていない。夏の後に登場するのが殷である。殷も伝説上の王朝と思われていたが1899年、殷の14人の王の名が刻まれた甲骨文字が見つかり、「史記」の記述と一致したため実存が確かめられた。

甲骨文字によく出てくる文字に「年」がある。「みのり」と読むらしいが、「みのり」の時期は1年に一度なので、後に「とし」と読まれるようになったという。日本において神道では「年」とは、稲の「みのり」のことを指しており、それが1年の意味になっている。このことから、古代王朝殷と共通する文化を日本にも引き継がれていることがわかる。

殷という王朝は見事な青銅器で有名だが、殷の農耕遺跡には灌漑施設の跡が見つかっていない。青銅器を作る技術があれば、立派な灌漑施設を作る工作器を作ることができたであろうに、殷の人々は灌漑施設を作らなかった。これも、メソポタミア文明やインダス文明と異なる点である。メソポタミアやインダスは半砂漠のような乾燥地に文明を作ったため、作物を乾燥から守るため水を供給しなければならなかった。しかし黄河文明は森の中にできた文明であったために、森の保水能力のおかげで水は年中豊富にあったのだ。だから灌漑の必要はなく、水を引くことは考えにも及ばなかったのではないだろうか。灌漑施設を作らなくても農耕を行うことができ、その上に都市文明を築けたというのは、余程の天恵を受けていたと考えていいだろう。砂漠地帯では農民の労働のほとんどが、灌漑や水路の維持管理に費やされていたであろうから、殷で華やかな青銅器文明が起こったのも、灌漑に労働力を割かずにすんだからではないだろうか。

このような恵まれた環境に育まれた殷であったが、中原の支配者ではなかった。殷は周辺の国から精巧な青銅器の生産によって中心的都市国家として崇められていたのだが、殷末期にはその銅が枯渇しはじめ青銅器の生産量が少なくなった。やがて殷は周辺国から見捨てられ、代わって銅資源を確保した周という国が紀元前1023年に殷を滅ぼしている。

ここで重要なことは、滅んだのは殷という国であって黄河文明ではないことだ。殷を滅ぼした周も殷と同じ青銅器文明の国であったから、単なる国家の世代交代と言えなくもない。その周は二百年余り後、異民族の侵入によって勢力を無くし、紀元前770年中国は春秋戦国時代に入る。

銅などの金属を溶かす燃料や生活資材のため、殷、周時代に青銅器を使用して、森林の木は切り倒されて行った。しかし黄河文明には牧畜による森林伐採がなかったことと、黄土は粒子の中に水を保水する能力が高いため、急速に砂漠化するということはなかった。

春秋戦国時代に鉄器が発明(あるいは他地域から技術が流入したのかも知れない)され、田畑の耕作や森林の開発はもちろん、武器として格段の威力を発揮した。鉄の発見は人類の文明に革命的な進歩をもたらしたが、いつの時代でも新しい科学技術はまず武器として使用され、より多くの人間を効率的に殺すことに価値が見い出される。強度に秀でて、豊富にある鉄から作られる鉄器の殺傷能力は、青銅器より飛躍的に増した。その中で鉄を大量に取り入れた秦の始皇帝が紀元前221年に中国を統一する。

■ 秦の始皇帝

秦の始皇帝個人も優れていたのだろうが、むしろ始皇帝以前の秦の指導者が徐々に勢力を拡大し、その最後のいいところで始皇帝が現れたにすぎないように私は感じる。秦は始皇帝以前に300余里という水路を築き田畑を豊かにしている。つまり天水に頼っていた農耕から灌漑農業に代わったのである。その背景には、秦は元々中国の西の内陸部で乾燥地域に位置しており、そこはそのままでは農耕に適さない土地であった。その意味でメソポタミア、インダス両文明と類似している。始皇帝は大の土木工事好きで、長大な運河やダムを築いたり、戦国時代に北方諸国で作られはじめていた万里の長城を延々と築きはじめる。やたらと土木工事が行われたのだが、その工事資材に大量の木材が切り出されたのだった。

始皇帝にはこんな話が残っている。周が滅んだとき古来からの王権の象徴とされていた「九鼎」は淮水の支流の泗水に沈められたといわれる。始皇帝は550年前の伝説を信じて自ら泗水に赴き、1,000人を動員して川を浚った。しかし「九鼎」は見つからなかった。その時点で始皇帝は相当怒っていたが、諦めて出発しようとすると強風が吹いて前に進めなかった。ついに始皇帝は怒りを爆発させて、付近一帯の樹木をすべて切り払ったという。これはその象徴的な話なのかもしれないが、始皇帝は壮大な宮殿建設のため、長江上流からも大量の木材を運ばせる。また山を削り谷を埋め立て、700キロに及ぶ真っ直ぐな道路を作っている。さらに森林に決定的ダメージを与えたのは、兵馬俑の作成ではなかったろうか。今発掘されているだけで総数8,000体の焼き物の人形やそれに付随する馬など、またそれらの収納庫の材料の焼き煉瓦を作るのに、どれほどの黄土高原の樹木が使われたかわからない。始皇帝は人民にとっても、森林にとっても暴君であった。

始皇帝が始めた土木工事や森林を伐採して農耕地にするという事業は、その後の歴代の皇帝に引き継がれ、中国は強大な国になり周辺の国々に大きな影響を与えるようになるが、それに反比例して中国の森林は小さくなって行った。

■ 「退耕植林」の実施

中国は北方の異民族の侵略に対抗するため国を強くしなければならないという課題はあったが、富国政策の中で増大する人口を養わねばならなかった。食糧増産のため、長城を越えた蒙彊地帯や乾燥していた草原地帯まで農地化してしまい、それらが乾燥化とともに現在砂漠となり、もはや草原にも、ましてや農地にも戻せなくなっている。その砂漠化が北京の近くまで押し寄せ、オリンピックの迫った中国を慌てさせている。総括すれば黄河文明に端を発する中国文明は、森を切り倒し森から得られる恩恵を一方的に受けて築いて来た文明で、差詰め親の遺産を食いつぶしながら贅沢な生活をしている、放蕩息子のような文明であった。ただ、中国の風土は森林にとって、メソポタミアやインダスより穏やかであったため、今日まで長らえることができたといえよう。

現在、黄土高原は異常な干ばつに襲われており、暴れ龍に例えられた黄河の水が、海に達する前に消えてしまうという異常事態にさらされている。近いうちに黄河はインダス文明のガッカル・ハークラーのように幻の川になってしまうかもしれないのだ。第二次大戦後、ことの重大性に気づいた中国では営々と植林が続けられている。黄土高原に余すところなく作られた棚田に、農地としての利用を諦めて植林をする「退耕植林」を行っている。人口の多い中国では僅かの耕地でも減らすことは辛いだろうが、これ以上の荒廃はさらに悪い影響が出ると判断してのことだろう。しかし表土が流され、固く乾燥してしまっている大地は、容易に植林を受け付けようとはしない。乾燥に強い樹種を植林して、ようやく根付いても、集中して降る雨に表土もろとも流されることも多い。また、近年黄土高原でのヒツジやヤギの放牧は禁止された。傾斜地に草を増やして、黄土が流出するのを防ぐためだ。このため多くの農家が大切なヒツジやヤギを処分したという。

文明が途切れていない中国にとって、長大で高度な文明の末裔の人々が、先祖の数千年に亘る文明の享受と引き替えに行った森林破壊に対するツケを今払っているのだ。しかし、完全に砂漠化していない中国の植林の努力は、数百年かかろうとも、続ける限りきっと報われるものと確信している。そうでなければ「黄河文明」は滅亡してしまうのだ。

3.現在の文明と森
■ ヨーロッパと森

ヨーロッパの緯度は意外に高い。パリやロンドンは北海道の北方、サハリンの中部から南部に位置する。ベルリンともなると、サハリンの北部、南国と思われるローマでも北海道の位置である。一般に北に行くほど寒気が厳しいのであるが、海流や地形の影響で必ずしもサハリンとヨーロッパは同じような気候ではない。しかし日本本土のように温暖な気候でもない。相対的に夏は短く乾燥し、冬は長く寒冷というのがヨーロッパの大まかな気候の特徴である。

この気候は牧畜に適した気候である、というよりも農耕が余りうまくいかない土地柄である。牧畜を主体とする農耕は、まずメソポタミアから地中海沿岸に伝った。その結果地中海地域に起こったことについて、プラトンの『クリティアス』には次のような記述がある。

「今日<石の荒野>と呼ばれているところには肥沃な土壌に満ちた平野がひろがっていたし、山々には木々の豊かに茂る森があった。・・・・・つい先だってまでは、それらの山々から大建築物の屋根が葺けるほどの樹木が数多く切り出されていたし、・・・・・ゼウスからの実りの雨を享受し、現在のように、地肌をむきだしている大地から海へたちまち雨水を流し去ってしまうことはなかった」

プラトンの生きた紀元前5〜4世紀には、地中海沿岸はすでに現在のような荒廃した土地になっていたことがわかる。

地中海を経て中央から北部ヨーロッパに住み始めた人々は、元々牧畜を中心にした生活をしており、運のいいことに牧畜の適地に落ち着いたといえよう。牧畜とは動物を育て、大きくなればその肉を食べる生活であるから、例えばそのような生活は仏教の教義では到底認められるものではない。万一ヨーロッパに仏教が広まっていれば、牧畜抜きでそれほど多くの人間を養えず、現代文明の中心地には成り得なかったであろう。元々厳しい砂漠で生まれたキリスト教では、ウシやヒツジは人間が食べるために神が創造したものと考えられ、さらに人間が食べることこそ神の意志にかなっているとの思想により砂漠での牧畜を養護している。したがって、ヨーロッパにおいてキリスト教はごく自然に受け容れられたのである。ヨーロッパの自然は痩せていて、自然からの恵みが少なく、やむを得ない選択として牧畜が営まれたのであろうが、キリスト教がその実情を正当化したのである。

ヨーロッパでは人口が増大するにつれ、放牧面積を拡大する必要が起こり、森林の伐採が北に向かって拡大して行くことになる。乾燥かつ寒冷な気候のヨーロッパでは、伐採した森林が短時間に再生することは難しく、家畜を飼うことで森林の再生能力も途絶えてしまい、ヨーロッパには広大な草原があちこちに出現する。

牧畜による肉と乾燥に強いムギが手に入れば食生活は満たされるものの、それだけで生活すべてがうまくいくものではない。森林は日常の燃料、特に寒冷地のヨーロッパでは暖房用燃料であり、また建築資材であり、武器や農機具などの金属器製造の燃料などの供給地である。大航海時代の到来によって、船の建造資材の供給地としても重要であった。ヨーロッパにおいても森林の喪失に伴う文明存続の危機はあったに違いない。したがって大航海時代の出現は森林の減少の結果であって、森林の減少がヨーロッパを他地域に膨張させる原因となったのではないだろうか。そしてその結果うまい具合に緑にあふれる新大陸が発見されたのだ。それによって行き詰まったヨーロッパ文明は起死回生の発展を遂げることとなる。

これまで見てきたように文明は森林を食いつぶすことによって、森のストックが無くなればその文明は滅んでしまっている。ヨーロッパの場合、自前の森を食いつぶしかけたところでヨーロッパ以外(新大陸やアジア、アフリカ、オセアニアなどの植民地)へ進出し、ヨーロッパの森の代替機能を持たせることができたのだ。

もし、ヨーロッパに膨張できる余地がなかったとしたら、メソポタミア文明やインダス文明のように、滅亡とまで行かなくても、随分こじんまりした文明圏に落ち着いていたことだろう。また、産業革命もなく、したがって現在の科学技術も人類は手に入れられなかったであろう。その反面、大規模な戦争や地球規模での環境破壊も起こらなかったであろう。

現代の文明、つまり西洋文明は、もちろん各地で森林破壊を伴う文明であるが、古代の文明と違い森林に全面的な依存体質はない。というのも、この文明は石油などの化石燃料や鉱物資源に頼っているからである。そして化石燃料によって発達した交通手段、輸送手段を駆使し、地球上のどこからでも資源を運び出すことが可能になったため、この文明が呑み込んで行く資源は地球そのもののなのである。したがって、現代文明で資源が枯渇したりあるいは環境破壊の進行は、この文明の終わりではなく人類の終わりとなりかねない。

■ 日本の森と鎖国政策

日本の近世では、他地域へ膨張したヨーロッパと逆に鎖国政策をとる。鎖国という一切外部から何も入れないという政策が可能になったのは、日本の自然の豊かさがあってこそのことである。日本の自然は、ヨーロッパのように牧畜に頼らなければならないような貧相な自然ではなく、充分に人間が生きて行けるだけの恵みを与えてくれる気候風土に裏付けされた自然である。したがって、家畜を育てて食用にするという発想は古来生まれて来なかった。

このことの背景には仏教の影響があった。キリスト教では家畜は人間が食べるために創造されたという、人間絶対優位の思想に立っている。一方古代インド(これをインダス文明と呼んでいいかどうか筆者は判断できない)の農耕は、有畜農業であった。つまり、ウシに鋤を引かせて耕地を耕す農業である。インドの過酷な環境の下、人間に代わって重労働を行ってくれるウシは貴重で、相当有り難い存在であったのだろう。農家にとっては家族同様かけがえのないものであったのかもしれない。やがてウシを大切にする思想がアニミズムと混じり、ウシを神聖視する信仰が生まれる。インドでは現在でもウシが最も威張っているようだ。

この信仰はどこかで仏教ともつながり、仏教の教義として日本にも伝わった。獣肉を食べなければ生活ができないというわけではなかった日本にとって、受け容れやすい教義であったのだろう。この仏教思想が日本人を肉食から遠ざけ、日本の森林を守ったと云えるかもしれない。

インドのウシ程でないが、日本でもつい3、40年前まで農家ではウシと同居していた。ウシはウシ小屋ではなく、人間のすぐ隣のウシ部屋で飼われていた。世界一衛生にうるさい民族である日本人であるが、労働を共にするウシを家族として労っていたのだ。現在のイヌやネコを座敷で飼うネコかわいがりとは全く違う思想である。

鋭い洞察で『風土』を書いた和辻哲郎博士であるが、「日本の悲劇」と副題がついたその著書『鎖国』において、開国時の日本の西洋に対する科学技術の遅れを指摘し、太平洋戦争では日本は鎖国で蒙った醜態をさらけ出したとして、地団駄を踏むような筆致で鎖国を最悪の政策と非難している。確かに日本は現在においても欧米に比較して、大きな発見や人類の考え方を一変するような思想は生み出していない。しかしその原因は鎖国ではなく、森に育まれた日本人の生い立ちにあるのではないだろうか。そうあわてて結論を出さなくても、急に変革しなくても、優しい自然が生活を守ってくれていたのだ。おまけに四方が海で異民族の侵入もほとんどなかった。そのような日本では大きな変革はむしろ苦手なのである。欧米は砂漠の文明の子孫であるから、少しでも技術を革新して行かないと生命の存続に影響する、切羽詰まった生活を彼らの祖先はしていたのだ。また隙を狙う異民族との戦いも後を絶たなかった。こういう厳しい環境では、科学技術により自然を克服し、優れた武器を開発しなければ、民族は生き残れない。そこに革新的なものの考え方が訓練されていたのではないだろうか。

■ 循環型社会を支える森林

さて、和辻博士が非難する鎖国であるが、私には鎖国は人類史上に残る貴重な実験であったと思えるのである。3,000万人以上の人口を、北海道を除く土地だけで、300年足らずもの間養って来たのは真実である。開国当時の先進国が驚くような平和で、長寿(乳幼児死亡率が高かったが、成人はその頃の西洋諸国に比較して負けないほど長寿であった)で、しかも高度な文化・文明を維持発展させていたことは、奇跡に近い史実だと思う。

狭い国土の中でこのことが可能であったのは、当時の日本の中に完璧に近い循環型社会が構築されていた証拠である。広義のミクロコスモスといっても過言でないだろう。その循環型社会を可能にしたのが、日本全土を覆っている森林の存在であった。

繰り返しになるが、日本の森林は国土を災害から保全し、日々の燃料を供給し、山の幸をもたらし、田畑を豊かにするとともに海の魚も育てているのである。そのような状況にあってこそ「循環型社会」は可能であったのだ。

「循環型社会」という言葉を近年よく耳にするのであるが、その試みのほとんどが科学技術を駆使し、エネルギーを大量投与して、管理された一部の物質のリサイクルなどで循環型社会を作ろうとするものである。しかし、わずか百数十年前、大したエネルギー消費もなく、それほど高度な科学技術の恩恵にもあずからず、何気ない日々の暮らしの中で循環型社会を実現していた日本の存在を、もう一度詳細に顕彰するべき時期ではないだろうか。

拙稿「森を考えるヒント」は3部構成として、この第1部のほか、第2部「森の生態」第3部「森の仕事」についてレポートする予定である。

参考文献

  • 『地球遺産最後の巨樹』  (蟹江節子・文 吉田繁・写真)  講談社
  • 『土と文明』  (V・G・カーター/T・デール著)  家の光協会
  • 『現代文明ふたつの源流』  (中尾佐助著)  朝日選書
  • 『森林の荒廃と文明の盛衰』  (安田喜憲著)  思索社
  • 『照葉樹林文化』  (上山春平編)  中公新書
  • 『続・照葉樹林文化』  (上山春平、佐々木高明、中尾佐助編)  中公新書
  • 『森と人間の歴史』  (ジャック・ウェストビー著)  築地書館
  • 『照葉樹林文化の道』  (佐々木高明著)  NHKブックス
  • 『緑と文明』  (朝日新聞社編)  朝日新聞社
  • 『米食・肉食の文明』  (筑波常治著)  NHKブックス
  • 『森が消えれば海も死ぬ』  (松永勝彦著)  ブルーバックス
  • 『砂漠化する地球』  (清水正元著)  ブルーバックス
  • 『森林理想郷を求めて』  (平野秀樹著)  中公新書
  • 『大河文明の誕生』  (安田喜憲著)  角川書店
  • 『NATIONAL GEOGRAPHIC(日本版) 2002.6』「黄砂の意外な効果」
  • 『大黄河 第三巻』  (樋口隆康、NHK取材班著)  日本放送出版協会
  • 『世界の歴史 2』  (尾形勇、平勢隆郎著)  中央公論社
  • 『四大文明[メソポタミア]』  (松本健、NHKスペシャル「四大文明」プロジェクト編著)  NHK出版
  • 『四大文明[インダス]』  (近藤英夫、NHKスペシャル「四大文明」プロジェクト編著)  NHK出版
  • 『四大文明[中国]』  (鶴間和幸、NHKスペシャル「四大文明」プロジェクト編著)  NHK出版
  • 『プラトン全集12「クリティアス」』 岩波書店
  • 『里山を考える101のヒント』  (日本林業技術協会編)  東京書籍
  • 『REDWOOD』  (Mary Lu Moore)  KC PPUBLICATIONS,INC.
  • 『科学Vol.66 NO.3 MAR.1996』「農耕の伝播と初期農民の分布域拡大」 (青木健一)  岩波書店

(2002.12)
(執筆者の所属、役職等は発表当時のものです)

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