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森を考えるヒント(3)

主任研究員  山東 良朗

第3部 森の仕事

1.森の仕事の歴史
■ 「日本書記」に曰く

これは岩波文庫の黒板勝美編『日本書紀』からの抜粋(横書きで引用するのは畏れ多いのだが)であるが、これではわかり難いので福永武彦氏の現代語訳(河出書房新社版『古事記・日本書紀』)を載せる。

日本書紀は、和銅5年(712)に編纂された『古事記』に遅れること8年の養老4年(720)に、舎人親王によって撰進されたといわれるが、ここに掲げたように少なくともヒノキ、スギ、マキ、クスノキについて、このとき既に樹木の材としての性質に熟知していたことがわかる。驚くことには、この知識は現在においてもほぼ通用しており、日本の林業の中心樹種は今もスギとヒノキなのである。また、発掘される古代の船のほとんどがクスノキで作られており、近畿地方から出土する木棺はすべてコウヤマキであることが確認されている。さらに韓国扶余の陵里山にある百済王歴代の古墳の棺材には日本のコウヤマキが使われていることを、川添登氏が『「木の文明」の成立』の中で指摘している。コウヤマキは一科一属一種で日本にしかない樹木であるから、日本から運ばれたことに間違いはない。日本から運ばれるほど棺に適した材であったのだろう。

素戔嗚尊の御子のイソタケル、オホヤツヒメ、ツマツヒメの三神が樹種を蒔いて歩いたというのは、元々豊富な樹木が自然に生えていたことを意味するのか、それとも植林を意味しているのかこれだけでは判然としない。しかし、木材の性質、その用途まで正確に指定出来るほど精通していたことを考えれば、可能性は低いとしても既に植林の段階に入っていたとしても不思議ではない。そうすると、遅くとも日本書紀の編纂された時代には、その規模はわからないが日本では既に植林がはじまっていたということになる。 つまり、人の手による森をつくっていたということだ。ということは、当時から相当量の木材が高度に使用され、天然林から入手が困難になるほど森の木の伐採が進んでいたか、伐採後山の崩壊が頻発したのか、その状況をどう打開するかという知恵もあったことになる。

さて、このイソタケルノ命ら三神は紀伊の国に祀られたとあるが、祀られているのは和歌山市の伊太祈曽神社といわれている。本県は古代より、樹木が生育するのに適した土地であったという証拠と考えていいであろう。

余談になるが、日本書紀のこの箇所の少し前に、ツクヨミノ尊に殺された保食神(ウケモチノカミ)の死体から、頭上には牛馬、額から粟、眉の上には繭、眼の中には稗、腹の中には稲、陰処には麦と大豆と小豆が生えてきたため、アマテラス大神はこの世に生きる人たちの食物とすべきものとよろこんで、粟、稗、麦、豆を畑の種とし、稲を水田の種とした、とある。古事記にも似た箇所があり、わが国の神話の中に、この国で生きていくために必要な食糧、資材となる樹木について、明快な指針を示していたのである。また、仏教伝来以後肉食の習慣をなくした日本人も、それ以前には牛や馬を食糧としていた可能性が窺われる。

■ 天然林からの採集時代

縄文時代の人々の食生活の内容を、遺跡から出土する食品から分析すると、根菜類、種実類などの植物食(菜食)と魚介類や鳥獣類などの動物食(肉食)に分かれ、今日の穀物に当たる主食といえる食べ物は木の実類が中心であったようだ。狩猟に成功するかどうかという賭博性の高い動物食よりも、確実に誰にも手に入る木の実類に食のベースがあったことは、縄文人が堅実な生活を送っていたという証拠であり、日本の森が豊かに木の実を供給していたことを示している。三内丸山古墳ではクリの木の栽培をしていたような痕跡もあるようだ。

今日においてもクリはもちろん、トチの実の土産品や本県龍神村のドングリコーヒーなど森の恵みは広く利用されているが、縄文時代は今日よりはるかに様々な森の幸を活用していたことであろう。多様なものを利用できるということは、それだけ食糧難を緩和する手段となり得るわけである。

さて、森の木そのものを活用し始めた起源はいつなのかはっきりしないが、縄文時代の遺跡からはすでに多くの木製品が出土している。石斧、弓、木の器、丸木舟、住居の材料などが出土しているが、既にこれらはある法則性の下で使用目的に応じて樹種を使い分けていた痕跡がある。石斧の柄にはヤブツバキなどの木質の堅い木、弓には堅く粘りのあるカシなど、木の器にはトチの木、住居にはカシ、ヒノキ、クリ、シイなど、板材にはスギが使われていた。

日本書紀に細々と樹木の使用方法が書かれているのは、少なくとも縄文時代から実際に木材の性質に精通した豊富な知識の裏付けがあってのことであろう。

昨年(平成14年)も押し詰まった12月28日に大変残念な出来事があった。北海道南茅部町大船の埋蔵文化財調査事務所に保管されていた、縄文時代(約9000年前)のものと思われる世界最古の漆の出土品が火事で焼けてしまったのだ。「国宝級」といわれていた世界最古の漆を失ったことは、考古学上取り返しのつかない大変な損失であるが、漆が縄文時代から使われていたことを示す確かな証拠でもあった。当時から木の器や、櫛、耳飾り、腕輪などに漆が施されており、漆を使用すると、装飾効果だけでなく木製品の寿命が飛躍的に延びるのである。道具が稚拙であった縄文時代では、木製品を加工することは大変な労力と時間を必要とした。そのためどこで学んだのか漆の技法を使って、貴重な器物を長く使おうとしたのであろう。勿論装飾の意味もあったであろう。われわれが長い間イメージしてきたように縄文人の時代は、石斧でイノシシを追いまわしていただけの原始時代ではなく、なかなか高度でおしゃれな文明的生活を愉しんでいた人々の時代であったようだ。

農耕が始まるのは弥生時代、と私の学生時代では学校で習ったが、現在ではもっと早い時期、つまり縄文時代ではないかとも考えられている。弥生時代は500年遡るという議論も最近あったが、その真偽はともかく、昭和18年(1943)に発見された静岡市の登呂遺跡では大量のスギ板が発掘された。水田の畔や水路の土止めとして、スギ板が地中に打ち込まれていたのだ。なぜスギが使われたかは理由がある。ここで使用された材の寸法は、大体長さ2メートル厚さ5センチほどの板であるが、ノコギリのなかった当時は板材を作ることは至難であった。しかしスギは縦に石のくさびを打ち込めば、木目に沿って割ることができる。この技術をうまく使うと、厚さ5センチという当時としては画期的な薄さの板を手に入れることができたのだ。おそらく当時の最先端の高度な技術であったのだろう。そしてその技術を生かせるスギという材が、数千年を隔てた今日でも日本では主力材であるということは、この時代から現代まで同じ「木の文明」が脈々と続いているということである。

■ 躍進した加工技術

歴史を眺めているとときどき不思議なことに気が付く。木材加工技術についても、6世紀末ころ飛鳥寺の建築を皮切りに巨大寺院が次々と建てられ始めるのだ。個人の住居に関してはまだ竪穴式住居に住んでいたと思われる人々が、壮麗で緻密な建築を突然はじめる。大陸から伝わった仏教に付随する建築物であるため、この技術も大陸から伝わったのであろうが、短い間に日本の技術者がその技術を習得し、その上すぐに日本独自の建築様式へと改良を加えている。そして大陸にはない、あるいは滅んでしまったと思われる豊かな「木の文明」が日本に開花する。そこには量的にも質的にも豊富な木材資源が入手できる、という環境が、大きく影響していることは間違いないであろう。

奈良時代から平安時代にかけて、大量の木材が寺院建築や都の造営などで使われるようになった。瞬く間に都近郊の森のめぼしい木は切り尽くされ、木材を求めて人間が山奥に進出することになる。山奥へ入るほど木材の搬出により大きな労力を費やすようになる。それは現在の林業の問題にも通じることである。

伐られた丸太は筏を組んで川に流し、流れて来た丸太を集め引き揚げる「木津」が設けられ、木材を加工する「木屋」が作られた。大きな建築物が作られる現場には木屋で働く人々の殷賑な町が形成された。京都の木屋町はその名残の地名であろう。現在でいえば自動車産業のような、関連会社を多く持つ巨大裾野産業であったのだろう。当時の政府の組織である「木工寮」の人々は、朝廷の建築物の建築、修理、調度品などの製作にあたる腕の確かな多くの職人集団であった。

県立向陽高校教諭の梶川哲司氏から、奈良県黒滝村にある「貯木場建立記念の碑」のことを教えて頂いた。氏から送って頂いた写真に写っているこの碑の解説には、「江戸時代末期から黒滝の山で伐採した木は、筏流しにより丹生川、吉野川、紀の川を経て和歌山の海岸まで運び、海路で京阪神へ販売されていた。この碑は和歌山市湊地区に建立されていたが、諸般の事情で平成10年4月に移築したものである」と書かれている。川を通じて奈良と和歌山が密接な関係にあった証拠である。今日このような関係はほとんど見られなくなった。

話を元に戻すと、つい40年ほど前まで日本の日常生活の主力燃料であった木炭も、平安の頃から生産量が多くなり、日本の各地に炭焼き職人が増えて行った。木炭が通常の薪よりよく使われるようになったのは炭素の性質にある。ファラデーの『ロウソクの科学』で、ロウソクの炎は実は炭素(すす)が燃えていることを説明しているが、炭素は燃えるが火が着きにくい。しかしいったん火が着くと、炭素はきわめて高温まで蒸発しないので、炎をあげずに燃える性質をもっている。このため、通常の薪が燃えるときより高い温度が出て、赤く輝きながら炭の表面だけで燃えるので長持ちする。この炭素の残渣は木炭(チャコール)と呼ばれ、現在ではあまり使われない「おき」というもののことである。薪を木炭に変える行為は、より有用な物質にするために人類が行った最初の化学反応の活用かもしれない。しかし木炭を作ることは木材を浪費するということにもなる。木材の一部を木炭として残すために、大量の薪を燃やす必要があるからだ。穀物を直接人間が食べるのと、家畜に食べさせてその肉を食べるのとでは、必要になる穀物カロリー量が明らかに肉を食べると多くなるのと同様に、薪をそのまま燃やす方が、実は多くの熱エネルギーが得ることができるのである。

■ 確かな植林のはじまり

江戸時代に入り世間が平和になると、江戸をはじめ各地に地域の中核となる城下町等が建設され、そのまま木材の大消費市場となった。特に江戸は参勤交代制度により全国から武士が集まることから、地方都市よりも人口と富が集中して購買力が高くなったうえに、当時江戸の華と呼ばれた頻繁に起こる大火災は木材需要を押し上げた。このような突発的な需要が発生すると、木材はたちまち高騰し投機的な商いに走る者も出て、紀国屋文左衛門など伝説的な空前の富を築く商人も現れ、民間資本による森林開発が加速されるようになった。

地方においても平和な時代が訪れると、戦による領地の拡大ができなくなったため、領地内での農業開発や都市開発が促進されることになり、膨大な木材需要を産み出した。そのため木材は日本各地に流通する商品となり、価格が高騰することにより森林資源を持つ藩では財政を支える重要な商品として注目され、積極的に森林開発を進め、各地で林業が盛んになった。出羽国、木曽、美濃、紀州、吉野などの著名な林業地からは、大量の木材が伐り出される。それでも木材の需要をすべて賄うことはできなかったのだ。

この頃はまだ天然林を一方的に伐採する収奪林業が林業の中心で、ほとんどの伐採地では自然による森の回復に任せていたであろう。木材伐採地が広範囲に及んだが、まだ需要が供給を上回っていた。それに伴う木材の高騰は、藩の疲弊した財政を再建する切り札のように考えられ、庶民が樹木を伐採することに藩が関与しはじめる。ヒノキをはじめ良質の材を産する木曽を所領に持つ尾張藩では厳しい伐採制限を設ける。島崎藤村の『夜明け前』に当時の藩の関与の記述がある。

「当時の木曽山一帯を支配するものは尾張藩で、巣山(すやま)、留山(とめやま)、明山(あきやま)の区域を設け、そのうち明山のみは自由林であっても、許可なしに村民が五木を伐採することは禁じられてあった。言って見れば、檜木(ひのき)、椹(さわら)、明檜(あすひ)、高野槇(こうやまき)、ネズコの五種類が尾張藩の厳重な保護のもとにあったのだ」と江戸末期の状況が書かれている。木曽のように田畑の面積が思うようにとれない地域は、木材の高騰によってようやく地勢的なハンディを克服できたのであろう。その地域で木の伐採権を藩が握るということは、死活問題であったことは想像に難くない。

尾張藩の木曽の林政改革を行うのは割合早い時期である。寛文5年(1665)に「木材役所」を設置し、木曽山林の伐採・運材のすべてを藩の直営としている。それまで山林への立ち入りを禁止していたのは「巣山(御巣鷹山ともいう)」のみであった。巣山とは鷹狩りに用いる鷹を、巣の中にいる雛のうちに捕る山であった。山林の中でも最も樹木が繁茂した場所を選んで指定していた。しかし寛文4年(1664)尾張藩は木曽全域を巡視すると、山林が思いの外荒廃していたため、翌年樹種のいい場所を選んで農民の立ち入りを禁止した。これが「留山」で、享保9年(1724)まで留山を順次増やして行った。さらに享保の頃、巣山、留山の周辺の伐採を禁止し、これを「鞘山(さややま)」といった。巣山、留山以外の藩有林は「明山」といい、農民の利用が許されていた。しかし宝永5年(1708)ヒノキ、サワラ、アスナロ(ヒバ)、コウヤマキ、享保13年(1728)にはネズコ、嘉永2年(1849)にはケヤキを「停止木(じょうしぼく)」として、明山であっても伐ることを禁止した。「檜1本、首1つ」といわれる厳しい取締りが行われた。実際死罪となった者はないようだが、違反すれば木曽谷からの追放などの処罰が科せられた。このほかに享保7年(1722)にマツ、享保12年にクリ、元文3年(1738)にカツラの伐採を届出制とした「留木(とめぎ)」という制度がはじまった。このように農民が自由に伐れたのは、明山の雑木に限られていたのだ。農民は先に書いたように非常に不自由したのであるが、おかげで明治に入っても木曽には豊富な木材資源が残されていた。特に250年以上のヒノキの美林は日本では他にはない、かけがえのないものであるが、その後伐採が進み残りはわずかとなっている。

17世紀後半頃から植林、つまり人工造林事業が大都市の周辺に普及されはじめる。大阪市場を背景にした吉野林業、京都市場を背景にした山国林業、江戸市場を背景にした西川林業や青梅林業などであった。中でも吉野林業は造林技術において指導的役割を果たしていたようである。当時は1ヘクタール当たり1万8,000本ものスギの苗を植林し、10回以上も間伐を繰り返しながら、100年生の大径木に育てるというものであった。これが今日の林業の基本となっている。

2.森の仕事の種類
■ 循環しなければ林業でない

われわれはよく「将来のことを考えて」、と行動した理由に使う。では将来とはどのくらい先のことであろうか。10年後とか、老後つまり退職後、もっと遠くを見る人でも、子供が成人したらとか、孫が学校に上がったらとか、その程度の将来でほとんどは自分が生きている間のことであろう。通常自分が死んだ後のことまで、責任は持てないし、余り知りたくもないようだ。人間は案外刹那的に生きている。しかし森の仕事の「将来」は100年、200年先のことである。しかもそれを循環させなければならない。われわれの日常生活は明日のこともわからないほど変化がめまぐるしいが、森の仕事はそんなことに惑わされずに悠然と行う仕事である。いわば林業従事者は100年の大計を見る哲学者でなければならない。だから目先の利益が何事にも優先するような人は、森の仕事には向かないのである。

わが国の森林の林齢別面積(人工林)
わが国の森林の林齢別面積(人工林)

林野庁資料より

  •   注1)平成12年3月現在の推計値
  •   注2)国有林には林野庁所管外の国有林(人工林3万ha、天然林13万ha)は含まれていない。
  •   注3)国有林239ha、民有林792ha

大体100年で伐期を向かえるとすると、親が植え、子が育て、孫の時代の最晩年にようやく伐る、ということになるだろう。これでは得をするのは孫かその子だけではないか、と不平をこぼす人がいるのは当然である。明らかに親は労働ばかりで得るものがなく損である。しかし本来なら、それぞれに林分を決めて親の祖父が植えた木を親が伐ることによって親が儲かり、親の親が植えた木を子が伐るという、つまり長期の循環を必要とする仕事でその循環、つまり「法正林状態」が確立すれば問題はない。しかしどこかで順番が狂ったり、欲張って子供や孫の分まで先に伐ってしまうとこれは成り立たない。ところが現代はその循環が断ち切られた状態になっている。

*法正林 : 各樹齢の立木を同面積ずつまたは同林積ずつ含み、毎年同量の収穫ができるような理論上の森林

戦後の復興期に大量の木材が必要になったため、当然木材は高騰した。高騰すると木材生産に力が入り、どんどん伐採が進んだが、それでも市場はもっと木材を欲した。本来ならまだまだ伐期を迎えていない細い木も、市場に出しさえすれ高値で売れて行った。林業の好景気に踊らされ、気がつけば日本の山の人工林に木が無くなっていた。供給する木が国内になくなると、やむを得ず外国材に頼るようになった。農産物よりずっと早い時期に木材の門戸をわが国自ら外国に開放したのだ。これが後年国産材を駆逐することになる。現在の問題の多い日本林業のはじまりであったのと同時に、計画的に管理され、どの世代も潤うはずだった林業を断絶させてしまった原因になった。その頃伐採した跡地に高山の頂にまで、高値で取引されることを夢見て軒並みスギ、ヒノキを植林したが、それらが大きくなる前に、日本の木材市場は80パーセントまでもが外国産材に支配されていたのだ。こうなったのは、日本の人件費のその後の高騰など他の要因もあるが、最も大きい理由は、もちろん猛烈な社会的要請があったのだが、戦後復興期に林業家が目先の利益に飛びついたことだ、と私は考えている。100年の循環を断ち切ったのだから、それを戻すには最低100年が必要になるだろう。だから現在儲かる仕事ではないから、後継者が育たないのだ。

■ 里山の現代

森に関係ある職業といえば、苗木を植え、育て、伐採し、製品化するという一連の、いわゆる林業を思い浮かべるが、その過程に直接関係をもたないわれわれとは遠く隔たったところの職業のように感じてしまう。というのも、主に人工林は他人の財産であり、もし火事でも起これば犯人扱いされそうに感じて日頃余り近づかない山であり、また人工林の中に入っても多様な生態系は見られず余り面白くないので、私には登山口に広がる人工林を急いで通り抜けるくらいの関係であった。したがって、山に入ることがなければ遠くから人工林の姿を眺めるか、途中を抜いて、商品化された木製品を使用するくらいの関係しか持たないのが通常であろう。

しかしこれらは森の仕事の一部の仕事である。近年森の機能に多様な期待が集まり、新しく様々な仕事が出現している。いや、そういう仕事は意識されずとも従来からあったのかもしれない。元々は地域に住む人が何気ない日常の生活の中でこなしていた仕事が、過疎化や価値観の変化から日常生活から離れ誰もやらなくなったことを、現在「仕事」という形で復活したのかもしれない。

われわれの身近には里山と呼ばれた雑木林があった。この森は典型的な人工管理された二次林である。日常生活に使うエネルギーがガスや石油に切り替えられる以前は、里山から燃料を得ていたのである。マツ林や雑木林は、薪炭の生産地であり、その落ち葉は田畑の肥料、そこに生える山菜やキノコなどは食糧として活用されていたため、入会地として木の伐採や落ち葉の採取などには厳格な取り決めがあり、よく守られていた。しかしエネルギーは化石燃料に、肥料は化学肥料に、食糧はスーパーマーケットから得られるようになり、里山の有する経済的価値は低下してしまった。すると厳格なルールは守られなくなり、里山を手入れする者もいなくなり、勝手自由に木々を伐採するようになったが、やがて里山の中に入る者もなくなった。すると里山は人工的に作られた森であるだけに、バランスが崩れてしまうのだ。そのまま長期に置けば、元々そこにあった森に遷移するかもしれないが、それまでは相当な時間がかかることになろう。

しかし里山は低山や丘陵が多く近づきやすいため、心ない人のゴミの廃棄場所になったり、住宅や工業用地として開発するには格好の土地であった。経済的価値にしか存在意義を見出せない現代人によって、多くの里山が里山としての機能そのものも、森としての姿さえ失われてきたのである。

里山管理は失われた森の仕事の一例だが、ここで現代的に森に関する仕事にはどのようなものがあるのか列挙してみると、人工林をつくる仕事、木材を伐採し搬出する仕事、林道の敷設や整備・治山施設をつくる仕事、環境林をつくり保全する仕事、森林全体をどのようにするかを考えプランをつくる仕事、森林保護をする仕事、森林や林業の研究をする仕事、林業や森の環境・生態などを一般の人に広める森林インストラクターなどがあり、さらに関係を広げれば、木材加工業者、建築業者や特用林産物(しいたけやわさびなど)の栽培者、猟師、生態学者、木工作家なども含まれるのかもしれない。次に職業ではない関わりでは、林業ボランティア、野鳥や野生動植物の愛好家、登山やキャンプで訪れる人など、様々な人が森に関係を持っている。さらに、森の水源涵養機能などを考えれば、日本中のほとんどの人が森の恩恵を受けていることになる。マイナスの恩恵だが、スギ、ヒノキによる花粉には多くの人が影響を受けている。このように直接森に関係する仕事に携わってなくとも、都市住民であっても森に何らかの関係を持っていることになる。したがって、森の仕事はここからここまでと旗幟鮮明に示すことは難しい。

■ メインは造林業

ここでは森をフィールドにする仕事について述べたい。

まず、森の仕事で中心となるのはやはり造林業である。歴史的には明確でないが、本格的な造林が始まったのは江戸時代中期以降であろう。それ以来営々と植林事業は続けられ、日本の森林の約40パーセントが人工林(本県は割合が高く60.9パーセント)となり、スギ、ヒノキを中心に、マツ、カラマツなどの針葉樹が多く植えられている。目的は様々だが、大部分は木材生産を目的とし、他には水源涵養や崩壊防止などの保安林等の造林がある。

人工林をつくる仕事には、まず苗を育てなければならない、そして植える場所を整地する地ごしらえという作業をして植え付けを行う。それで樹木がすくすく育ってくれればいいのだが、造林事業で最も手がかかるのは植え付けしてから10年くらいの間といわれる。植えた苗の成長が遅く、すぐに草や広葉樹に追い越され、それらの日陰になると苗の成長は止まってしまうので、夏を中心に年2、3回の下草刈りが必要になる。私事であるが、昨秋庭にスギの苗を植えた。スギは成長が早いと思いきや、今年5月には冬には地上になかった百合に埋もれてしまったので、スギの周りに柵を拵え、かろうじてスギの先端に陽を当てている。

また、ツル性植物に捲かれると変形や成長不良を起こすのでツルを切らねばならない。実務者の話では、夏の下草刈りほど辛い仕事はない、ということで、意見が一致している。日本の植林地は傾斜が急な山が多いため、現場に行くだけでも大変な労力である。

わが国の森林資源の現況

(単位:千ha,万m3)

区       分 総   数 立 木 地
人 工 林 天 然 林
面積 蓄積 面積 蓄積 面積 蓄積
総       数 25,146 348,323 10,398 189,199 13,382 159,002
国有林 総     数 7,844 91,207 2,446 29,223 4,738 61,871
林野庁所管 総  数 7,647 89,246 2,417 28,925 4,608 60,208
国有林 5,531 87,609 2,315 27,313 4,604 60,184
官公造林 116 1,637 102 1,613 4 24
その他省庁所管 197 1,961 29 298 130 1,663
民有林 総     数 17,302 257,117 7,952 159,976 8,644 97,131
公有林 総  数 2,730 35,906 1,209 19,859 1,433 16,042
都道府県 1,196 14,890 477 7,052 703 7,838
市町村財産区 1,534 21,016 732 12,807 730 8,203
私 有 林 14,572 221,210 6,743 140,117 7,211 81,089

林野庁業務資料(平成7年3月31日現在)

10年を越えると、間伐、枝打ちに作業の中心が移って行く。立派な木を育てるという意味では、間伐は造林業に入るのだが、間伐材も木材として使用できるため集材や運搬の仕事に属するのかもしれない。ただ、最近は間伐材を出しても売れないため、間伐材をそのまま山に放置し、腐るに任せることが多くなっているようだから、間伐のほとんどは造林事業の中に包含されるのかもしれない。枝打ちには昔流行った「だっこちゃん」のような機械があり、自走で木に登りながら枝を払ってくれるらしいが、私は見たことがない。

間伐という作業は人が植林をはじめて必要になった作業であるが、先述したように吉野林業が江戸時代に先駆的役割を果たして来た。明治に入ってからの記録では、植林後15年目から100年目までに、13回間伐を行ったとされている。間伐される木は植林した木の95パーセントに及んだという。100年目の木の間伐というのは、現代において間伐という言葉でいいのかという印象を与える。もちろん間伐材も立派な木材となり、間伐の手間賃等は間伐材を売ることにより得られていたのである。

一方、全く間伐をしないことで特長のある木材を生産することに成功した地域がある。洛北の北山杉である。京都という雅な大消費地が控えていたこともあり、北山杉という極めて繊細な磨き丸太が生産されるようになった。元来この地には急斜面しかなく、土地はやせていたという。通常ならここは木材生産に適さないということで、諦めてしかるべき土地であったが、工夫を重ねて300年間生産を続けている。この土地の林業家の持つ土地は狭く、平均的な林業家の30分の1ほどの広さしかない林業家もいる。しかし、収益は面積当たり他の30倍以上になるという。1ヘクタール当たり5,000本から7,000本と、現代の通常の植林よりスギを過密に植えることにより成長を遅くする。しかも間伐はほとんどしない。だから単に肥らせて柱材を得るものではないことがわかる。プラスチックの細い棒を幾つも幹に巻き付けて、幹の表面に北山杉特有のでこぼこ(絞り)をつけているのだ。こう書くと簡単なようだが、実際は相当繊細で熟練した技術を要する。北山杉が他の産地の追随を許さないのは、「無節・通直・適寸」の三条件がきっちり揃った製品を生産をするところにある。そのために入念な枝打ち、絞りを作るときのタイミング、樹皮を剥いて磨き上げる木目細かい作業と、どれをとっても高度で繊細な技がいるため、北山杉のブランド名が今日まで続いているのだ。

もう一つ北山杉で特筆しておかなければならないのは、1本の親株から何本もの丸太を育てる「台株仕立て」という育林方法にある。これは植林後8、9年の杉の地上60センチくらいの枝を放射状に残し、そのまま育て30年で中心の幹を伐る。伐っても60センチのところの枝が生きているため、深海のコウモリダコこのようなかたちになって木は枯れない。伐った幹から萌芽が何本か出て来るので、それの枝打ちをしながら大事に育て、適寸になると伐採するという、盆栽のような育て方だ。1本の杉から多くの丸太を採るというこの方法は、厳しい条件を克服する課程で生まれた賜であろう。この「台株仕立て」は現在では垂木材を得る手法として受け継がれている。

■ 林業の実情

人工林はいつまでも肥らせておくものではない。ある程度成長すると、経営上からの理由や加工にちょうどいい大きさや、また成長スピードが鈍ることもあり、伐期を迎えることになる。伐期はいつがいいのかは樹種によっても、時代によっても異なっているようだ。

高性能林業機械

機 械 名 機      能
フェラーバンチャ 伐倒機 立木の伐倒、集積を行う機械
スキッダ 牽引集材車両 丸太を牽引・集材する機械
プロセッサ 造材機 伐倒された木材を掴み、枝払い、玉切りなどの造材作業及び集積作業を行う機械
ハーベスタ 伐倒造材機 立木の伐倒、枝払い、玉切りの伐木・造材作業及び集積作業を行う機械
フォワーダ 積載集材車両 玉切りした短幹材を荷台に積んで運ぶ集材専用の車輌。荷台に積載用のクレーンを装備している。
タワーヤーダ タワー付集材機 手軽に架線集材ができる人工支柱を装備した稼動可能な集材機
スイングヤーダ タワーヤーダに旋回機能を持たせた集材機

集材や運搬の作業が日本では林業の一つのネックになっている。というのは、日本の林地は斜面にあるのがほとんどであることによる。外国の林業地では平地が多いため、機械化が比較的簡単にできるのだが、日本の場合は斜面を掘削して林道をつくり、斜面でも使える機械を導入する必要がある。その斜面も相当な勾配であり、足場の不安定な状態での作業は危険がつきまとう。それでも工夫された高性能林業機械の導入が進んでおり、少しでも地形的なハンディを挽回するための試みがなされている。

スギ1立方メートル で雇用できる伐木作業者数の推移

昭和36年 40年 50年 60年 平成7年 12年
作 業 者 数 11.8人 7.7人 3.7人 1.8人 1.0人 0.6人
スギ山元立木価格 9,081円 9,380円 19,726円 15,156円 11,730円 7,794円
木材伐出業賃金 768円 1,220円 5,283円 8,629円 11,962円 12,160円

『林野庁インターネット資料』より
元資料:厚生労働省「林業労働者職種別賃金調査」、
   (財)日本不動産研究所「三輪素地及び山元立木価格調」

  • 注1)作業者数は、スギの山元立木価格で何人の伐木作業者が雇用できるか平均賃金で試算したものである。
  • 注2)木材伐出業賃金は、「林業労働者職種別賃金調査」のうち、伐木造材作業者、チェーンソー伐木作業者(会社所有)、人力集運材作業者、機械集運材作業者、伐出雑役の5職種の平均である。

ここでは、チェーンソーか高性能林業機械を使って伐採し、商品となる根元の部分を市場の求める長さに切る玉切りを行い、トラックに積載して搬出し、市場に出すことがこの課程の仕事である。

伐採は、人工林の場合、同時に植林した部分をすべて伐る皆伐という方法が、効率の面からも一般的に行われている。しかし皆伐による裸地が広くなると、表土の流失や崩壊の危険性が高くなるため、非皆伐という方法も採用されるようになってきた。そういうところでは同じ斜面に樹齢の違う複数の人工林のグループが育っている。

山元立木価格の推移(昭和52年〜平成13年)
山元立木価格の推移(昭和52年〜平成13年)

(財)日本不動産研究所「山林素地及び山元立木価格調」より

  • 注1)価格は利用材積1立方メートル の価格(各年3月末現在)。

新規林業就業者数の推移
新規林業就業者数の推移

搬出された丸太材は、市場で売買され、人の役に立つ製品に加工される。木材が市場の流通ルートに乗ってしまうと、もう森は関係ないかのように思われるが、実は市場での木材価格や需要の変化は林業の動向に大きな影響を与えている。価格が安ければ、林家は伐採の時期を先送りして価格が上昇するのを待つかもしれない。しかし先送りされるということは、実際に造林事業や伐採、集材、運搬の実務に携わっている人の仕事量が減少することになる。また、「山元立木価格の推移」のグラフでは、昭和55年(1980)をピークに低下の一途を辿っているのに反して、労働賃金は上昇(「スギ1立方メートルで雇用できる伐木作業者数の推移」参照)しており、多くの林業労働者の生活を維持することが難しい状況になっている。さらに海外からの低価格の輸入木材が増加しているため、日本人の木材需要量は変わらなくても、山林から伐採される木の量が減少し、平成11年(1999)では木材自給率は20パーセントを割り込んでいる。特に合板の自給率は低く、99パーセントまでが外材となっている。このような状況のため昭和35年(1960)には44万人いた林業就労者は、平成12年にはわずか7万人を下回るまで減少し、なお悪いことに4人に1人が65歳以上の高齢者に頼っているのが現状だ。ただ、最近の傾向として林業を見直す若者がわずかではあるが増加に転じている。この傾向を大切に育てて行けるかどうかで、日本の林業政策の明暗は分かれるだろう。本県の「緑の雇用事業」は本県にとどまらず、その意義は大きい。

林家の林業経営

価格が安くても市場に出せば収益があればまだいい方かもしれない。折角伐採して市場に出しても、市場での落札価格から伐採経費、集材経費、運搬費、市場での手数料などの諸経費を引けば、うっかりすると赤字になる。スギは目通り(目の高さの幹周り)が60センチ以上あるかどうかが、採算がとれるかどうかの分岐になるという。60センチ以上あれば、10.5センチ角、長さ3メートルの通常の柱がとれるからだ。それ以下だと市場価値はほとんどなくなってしまう。スギの間伐材を搬出すればそれだけ損だということになり、これが間伐材が捨てられる理由である。するとスギを植えている林業家は、スギが十分大きくなって伐採したときだけしか収入が得られないことになる。数十年間下草刈りや枝打ちをしながら、その間の収入は全くないとなれば、何のために林業を営むのか根拠がなくなってしまうのだ。山に散見される超過密のまま放置されたスギ山は、経営意欲を失った所有者が何もしなくなった山林の姿である。いわば見捨てられた山なのだ。

個人の山林だけでない。例えば伐採した跡にスギを植林し、下草刈りや枝打ちをする費用の通り相場はヘクタール当たり約260万円ということだが、地方自治体が所有する山であればその費用を自治体が負担しなければならない。山林を多く所有するのは、過疎化・高齢化が進行する自治体が多く、財政的に余裕も少ない地域である。それならば手間と費用がかかり、将来的に利益が期待できないスギの植林をやめて、広葉樹の林に戻す方が得策ということになる。

広葉樹に戻すなら少なくとも森の公的機能は維持されるが、スギを植えたまま放置されると、やがてスギは弱り倒れてしまい、山の崩壊につながる。

林業就業者数と高齢化の推移
林業就業者数と高齢化の推移

このような資金や技術等の問題で造林を実施するのが困難になる場合の対応策として、昭和33年(1958)に分収造林特別措置法が制定された。これは造林地所有者、造林者、造林費負担者の3者で契約して造林を進めるという制度だ。また、分収育林制度などで一定の効果はあったものの、木材価格の低迷もあって契約面積は非常に減少している。

■ 森林インストラクターと林業体験

森の機能で最近注目されているのは、レクリエーション機能である。前回のレポートに森がもつ好ましい作用に触れたが、都市に住む人口が増加すると人間と人工物に囲まれた都市が嫌になるのか、休日になると大阪方面から和歌山の南部に向けて老若男女が大挙してやってくる。日頃和歌山の自然が人口に膾炙されていることがわかる。そこでもう一歩踏み込んで、もっと自然を知りたい、自然に触れたいという人が出てくる。そういう人を自然に誘うのが森林インストラクターの仕事である。

森林インストラクターは平成3年(1991)に誕生した新しい仕事で、現在全国に1,000人以上が活躍している。一般の人を森に案内し植物や動物などを紹介したり、青少年に対するキャンプなど野外活動の指導、林業の初歩を教えたりする。全国森林レクリエーション協会が資格を与えているらしいが、資格がなければならないということでもない。とにかく森林インストラクターは色んなことをよく知っている。だから1日ついて歩いても退屈しないし、色んな知識をもらうことができ、一端の森林インストラクターになった気になる。その知識を今度は誰かに披露すると、ちょっと誇らしい気分になる。また人々に自然を汚さないというマナーも身につけさせるのも、森林インストラクターの重要な仕事だ。

アメリカの国立公園には必ずパーク・レンジャーがいて、公園の説明をしてくれる。しかし彼らはそれが本職ではなく、公園内の警察の役割もし、罰金を科すこともできるから裁判官の役目もしていることになる。動物を入れてはダメ、野生動物を触ってはダメ、食べ物を残してはダメ、石ひとつ持って帰ってはダメ、と禁止事項がやたらと多い。だからアメリカの国立公園は厳しく保護されており、その保護のおかげで多くの人が訪れるようだ。厳しく自然を守ることは、地域住民の生活を縛ることではなく、新しい観光資源を得ることにつながる格好の例である。

最近注目されるのは、林業体験が案外盛んに行われていることだ。実は私も昨年11月和歌山県が主催した間伐体験に参加した。林業のことを書くのに何も体験しないのはどうか、という動機で参加したのだが、林業家の方と森林インストラクターの指導のもと、遊園地へ行くより遙かにエキサイティングな体験ができた。私には才能がありそのままスカウトされるかもしれないと自負していたが、林業家のコメントは「素人を教えるのは疲れる」というものだった。私が伐り倒したスギの年輪を数えれば、ちょうど私と同じ歳であったのでショックを受けたものの、このような体験を多くの人が共有することにより、林業への親近感、木製品を使うことの意義、そして木材も命であることを理解できるのではないだろうか。私が伐ったスギは丸太にして持って帰り、磨いて書庫に飾っている。

ふとした林業体験が病み付きになった人々もいるようだ。毎週休日に近くの山に集まり山仕事をしながら親交を深めている。もちろん山仕事の報酬はもらっていないから、ボランティア活動であるが、参加者はリフレッシュして都会に帰って行く。たった一度の体験だが、その感覚はよくわかる。登山家が休みごとにいろいろな山を目指すのと同じである。また、関東郊外の新興住宅地では折角郊外に住んでいるのだから、地域の環境をよくする里山の復活に取り組んでいる人々もいる。里山は人間が作り変えて来た人工の自然であるが、人間が手軽に楽しめる自然に満ちている。四季折々の自然の表情を住居の近くで楽しめるなら、通勤に2時間かかっても、そこに暮らす意義は十分あるに違いない。

森林に期待する機能
森林に期待する機能

■ スギとヒノキ

古くから日本の林業の中心樹種として植えられて来たスギとヒノキについて、簡単に述べたい。

スギは日本の湿潤な環境に適した日本特産の木である。年間降水量2000ミリを超える場所に多く自生している。山の上よりも土中に水分の多い谷筋にしばしば見られ、私の家の近くの府県境の低い山でも谷筋に数本のスギが自生している箇所を幾つか見ることができる。スギは降水量の多い、東海地方から九州までの太平洋側や、日本海側の降雪の多いところに多く分布するが、乾燥する瀬戸内海地域や寒さの厳しい東北地方の太平洋側には分布が少なくなっている。

先に登呂遺跡のスギ板を紹介したように、加工がしやすかったためスギの利用はかなり早い時期にはじまっている。またその成長の早さが着目されて、まずは寺社用材を得るために植えられた。そのためか寺社、特に寺の周りにはスギの巨木が多い。水分が豊富であれば、屋久島の縄文杉のような巨体に成長する。樹齢も軽く1000年を越える長寿の木である。

加工がやさしく、狂いが少ないため建築資材や酒樽など多方面に使われている。しかし残念ながら最良の材とは考えられていない。というのは、スギ材は乾燥が難しいからだ。スギはヒノキの倍は乾燥に時間がかかり、特に芯持ち柱の乾燥は難しいといわれていた。ヒノキは後述するように、比較的乾燥した場所に生えているのにくらべて、スギは水が多い場所を好むため、元々生材の含水率が高くなっている。このスギの乾燥の難しさが、スギより材質は劣るかもしれない外材(ホワイトウッドなど)に押されて、年々価格を下げてしまっている。

日本の山の大量のスギ資源を生かすため、様々な試みがなされている。そのひとつは、「葉枯らし乾燥材」だ。葉枯らし乾燥材は、伐採したスギの枝葉をつけたままの状態で一定期間放置すると、葉からの蒸散作用で水分が放出され、本体の含水率が低下することを利用したものだ。まだこの方法は主流にはなっていないが、このように乾燥させたスギ材は建築業者には好評であるとのことで、今後もっと広まるだろう。また、スギを集成材に使う試みもなされ、スギだけでなく、マツと組み合わせたり、あるいは外材と合わせたり、いろいろな試みがされている。スギ材をうまく使うことが日本の林業が再生するかどうかという、大きな鍵を握っている。というのは、スギの人工林の面積が最も広いからだ。

人工林の樹種別現況(平成7年3月31日現在)

区分 針葉樹 広葉樹 合計
スギ ヒノキ カラマツ マツ類 トドマツ その他 針葉樹計
面積(万ha) 454 253 98 107 79 22 1,013 23 1,036
比率(%) 44 24 9 10 8 2 98 2 100

『日本の森林・林業1997』より

ヒノキはスギとともに日本の林業の中心的役割を果たして来た樹種であるが、天然分布もかなり広く、福島県から屋久島まで自生している。世界にヒノキの属は6種類あるが、日本のヒノキが最も優れていて、建築材としては最高のものである。

スギは水分の多い沢筋に多いと書いたが、その逆に尾根筋などの乾いた場所が好きなのがアカマツで、その中間が適するのがヒノキである。したがって、ヒノキはスギの半分の含水率しかない。ヒノキの特徴は、幹の心材の割合が大きいということだ。60年以上のヒノキになると心材は80パーセントを占め、心材には独特の芳香があり、腐りにくい部分である。

ヒノキといえば、創建以来1300年たった法隆寺を思い浮かべるのだが、その頃から畿内を中心に神社仏閣にはヒノキを使うことが常識になっていたようだ。それはヒノキの特徴をよく知っていたためであろう。通常物質は新しいときが最も強度が大きく、時間を経る毎に劣化されていくことになる。しかしヒノキは伐られた後、2、300年の間は、曲げに対する強度や硬さが増してゆき、最大20パーセントほど強度が増すといわれる。そしてピークが過ぎると、徐々に弱くなるのだが、現在の法隆寺はようやく元(伐採直後)の強度に戻ったところくらいらしい。そして樹齢によってヒノキの耐用年数が変化する、というのが著名な宮大工の故西岡常一氏の見解だ。それは500年の樹齢の木を使った建物は500年もち、1000年の木は1000年もつという。さらに、どの樹種もそうかもしれないが、長期の耐久性を持つヒノキには特に重要な要素になることだが、遠くから伐り出して来た木より、近くで伐った木の方が長持ちする。これは自然環境は地域によって微妙に異なっており、木も自然環境に適用して成長するため、伐ったあともその場所の環境が最も適応していることの顕れである。雨の多い地域のヒノキは雨に強く、寒冷地のヒノキは寒さに強いということになる。さらにその地域の害虫に対する抵抗力も既に獲得しており、材として利用された後も有効に機能する。農産物だけでなく林業も地産地消は大きなメリットがある。

ヒノキはよく研究されているためか、個体間の格差もよく指摘される。人工林は自然林に比べて成育がいいので、細胞が大きくなって年輪幅も広くなる。そのため粘り気がなく、しなやかさに欠け、加重がかかると折れやすくなる。このためヒノキは天然木が貴重とされる。それが一体どの程度の差であるのか、筆者にはわからない。

また、生えている場所によって性質に差異が出る。北や西斜面や光の当たりにくい谷間で育ったヒノキは、材としての性質が素直で大人しいと、木材の研究者は指摘する。また、根本から先端まで大体同じ太さで育つため、節が少なく、木目の通った大きな材がとれる。その反面、相対的に材質が弱いという。一方、南や東斜面、山頂部の日当たりのいい場所で育ったヒノキは、成長が早いが風雨を真正面から受けることが多いため、根本が頑丈に太くなり、先端は細くなる。日当たりがいいので枝が多く、したがって節が多く、ひねくれている場合が少なくないが、芯は非常に強い。どの種でも根元には、木全体の重量がかかる「あて」という狂いの生じやすい部分が形成され、余程の名人でないと思うように加工できない暴れ材であるが、南や東斜面にこの部分が多い。1本のヒノキであっても、南と北とではこのような差が出るという。南側は枝が多いので節が多く油ぎっていて強い。これに対して北側は、木目が素直で節が少ないが、ひ弱である。このように見ると、ヒノキも人間も育った環境によって性格に影響を及ぼすのは同じことかもしれない。

ヒノキのような優良な特徴を持った樹種は世界にはないので、このヒノキを使ってバイオリンを作ってみた人がいる。しかしどのように作っても和風の響き(筆者にはよくわからない)がして、バター臭い音を出さねばならない西洋楽器にはどうしても向かない、という結論になったようだ。

■ 広葉樹の林業

ところで山林に植えられている人工林は、円錐の形からほとんどがスギ、ヒノキであることがわかる。ところが家を建てるときの内装材や家具の材料に、ミズナラ、サクラ、シイ、カシ、ケヤキなどの広葉樹による材も随所に使われている。しかし例えば、ケヤキ大通り(和歌山市のメイン道路)のケヤキを見ると、大木にはなりそうだが、思い思いの方向に野放図に枝が伸び、中心となる幹も短かくねくね曲がっているため、これでは伐採しても使えるところがほとんど無いように思える。その点スギなどの針葉樹はどんなにのびのび育っても、幹は真っ直ぐに上に伸び通直性が優れているから使いやすい。枝もそれほど張らないため、単位面積当たりの育林数が多くなる。これらの理由のために日本の林業は針葉樹が中心になったのだが、既述のとおり広葉樹の需要も案外多いのだ。

広葉樹も植林されて、木材用の人工林が作られている。形質のよい広葉樹材を生産するには、幼樹から高密度で育てることで、陽の光を求めて上に伸びようとする性質を利用して通直性がややよくなる。しかし針葉樹と違うところは、針葉樹は人間が高密度に植林するのだが、広葉樹は目的とする樹種に生理的な適地を与え、適度に手を加える他は天然林施業で行うのが通常で、そういう意味では人工林ではない。ブナやミズナラは種子は毎年できずに、豊作年がある。豊作年にうまく種子が芽を出すように人が手を貸せば、高密度の天然林ができる。したがって広葉樹林施業は天然林施業が主体となる。これも長い歴史に培われた日本人の知恵といえるかもしれない。それでもどのくらい真っ直ぐに伸びるのか、私には疑問が残っている。

しかし広葉樹の用途は、まず薪炭、パルプ原木、キノコ原木、薬用・成分利用、用材と分かれる。薪炭は現代ではほとんど無くなったが、紀州備長炭に使うウバメガシは需要が多く、薪炭製造に使った木はパルプにもキノコの原木にも使用でき、形はどうでもいいため、育林は簡単である。人間が手を下す必要すらないかもしれない。薬用・成分利用は漆の樹液採取など、木の形には関係しない利用形態である。最後の用材だけが林業家の腕の見せ所となる。もちろん針葉樹と同じように間伐も行う。しかし針葉樹のように柱材などには使用せず、家具や床の間の床材や欄間などに利用され、あえて年輪模様の乱れを愉しむかのような利用の仕方をする。自ずから針葉樹とは使い方が違っているのだが、そのことが日本人の木の活用幅を広くしている。

3.世界の林業
■ 世界の森林事情

これまで3回に亘って森の話をしてきたのだが、どこにも森の定義をしなかったように思う。しかし「森」とは何かという定義は見つからず、「森林」ならFAO(国際連合食糧農業機関)で次のように定義されている。森林には天然林と人工林を含み、林地に対する樹冠面積が10パーセント以上で0.5ヘクタール以上を有している土地をいう。森林は、樹木の比率と他の優先的な土地利用が無いという両方の条件で決定される。樹木は最低でも5メートルの樹高が必要である。現在幼木で、樹冠面積10パーセント、樹高5メートルに達しなくても、将来それに達すると予想される場合には森林に含まれる。となっているが、果樹園などは除かれる。

世界には3,870百万ヘクタールの森林があり、その95パーセントまでが天然林であり、わずかに5パーセントが人工林と推定されている。人工林の半分はまだ15年以下の若い木で、その人工林の62パーセントはアジアにある。われわれは国内のどこに行っても人工林の森を見ることができるが、これは外国では珍しい光景であるようだ。半分が15年以下ということは、つい最近植えられた木ということである。伐採すれば植林するのは日本では当然の常識であるが、世界では伐採してそのまま放置し、回復を自然に任せる地域も今もって多い。現在も収奪的な林業を営んでいる地域は少なくないのだ。

地域別森林面積の年間純変化(1990−2000年)
地域別森林面積の年間純変化(1990−2000年)

FRA2000(世界森林資源評価2000)より

1990〜2000年までの世界の森林面積の年間変化は、減少面積14.6百万ヘクタール、増加面積5.2百万ヘクタールを差し引いて、年間純変化は△9.4百万ヘクタールと推定されている。森林面積が増加しているのは主にヨーロッパで、フランス、アイルランド、トルコ、スペインでは造林プログラムが実施され、その他の国でも耕作されなくなった農地が森林に戻りつつあるためと『世界森林白書』では説明している。しかしヨーロッパのような夏乾燥し、冬の寒さの厳しい地域で、農地が簡単に森林に戻るとは考えにくく、ヨーロッパでも余程温暖で多雨の地域でなければならない。また、一方ではスキー場開発や道路建設で減少している森林面積もかなりあるが、差し引きすると増加しているということであるから、ヨーロッパ全体が森林保護に取り組んでいる訳ではない。全体の減少面積の大部分はアフリカと南米、そしてアジアの熱帯雨林の減少である。『森を考えるヒント 2』でも述べたが、これらの森林減少速度はなかなか減速しない。特にアフリカは雨量が少ないため、森を荒らせば簡単に砂漠となり、その拡大がより深刻である。

■ 森林保護が貿易に与える影響

アジア・太平洋森林理事会(APEC)では、森林保護を達成するため天然林から木材生産を行わないことの有効性について、中国、ニュージーランド、フィリピン、スリランカ、タイ、ベトナムの6か国でケーススタディが実施された。ニュージーランドとスリランカは木材需要の供給源を海外に求めたことにより、天然林の保全にかなりの成功を収めている。しかし、他の国では天然林の伐採を抑えたことにより、林産物部門や地元経済などに大きな影響が出る一方で、近隣国の天然木の伐採が増えたことなど、必ずしも良好な結果は得られなかった。タイやフィリピンでは、10年以上も前、全面的あるいは部分的に伐採を禁止したにもかかわらず、森林破壊や違法伐採が続いている。伐採を禁止すれば、それまで木材を伐採することで生計を立てていた人々がおり、それらの人々が已むに已まれず違法伐採に走るのである。これらの人々の生活を他の方法で支えなければ、天然林の伐採を禁止しても思うような効果は得られない。

木材の伐採を減らすために、輸出禁止、課徴金、輸出割当などの輸出制限措置を採用している国もある。輸出禁止あるいは相当高額の輸出税の賦課をかけているのは、カナダ、ガーナ、インドネシア、モンゴル、フィリピン、スーダン、アメリカといった国である。

わが国も多くの製材用丸太を輸入している北米(アメリカ、カナダ)は、木材の輸出に対して厳しい措置を取り始めている。アメリカでは環境保護の要請が1980年代から高まり、その矛先が国有林に向けられたため、国有林の原木供給量をそれまでの3分の1にしたことから、大幅な減産を余儀なくされている。本来アメリカの国有林は森林保存を目的として設定されたという歴史的経緯を根拠に、原生林の伐採そのものに反対する自然保護運動が活発になった。この国有林の方向転換で、全米で環境重視の動きを加速し、公有林はもとより私有林においても州法や自治体の条例で、規制が強化されているという状況が裏にある。

このような状況下で、わが国が依存していたのは1980年代までは北米、東南アジア3国、旧ソ連などに限定されていたが、アメリカの国有林の大減伐をはじめインドネシアの加工貿易政策の強化、ロシアの政治経済的混乱などの結果、輸入相手国は他の東南アジアの国々、アフリカ諸国から、木材の消費地であるヨーロッパにまで拡大している。このような木材の輸入がいつまで続けられるかわからない。食糧は日本がもっと輸入するようにと国際的圧力が強いが、木材には逆の風が吹いている。

わが国の製材用木材供給量の推移
わが国の製材用木材供給量の推移

木材主要輸出国における木材輸出規制の概要
木材主要輸出国における木材輸出規制の概要

わが国の林業とアメリカの林業を比較すると、根本的な考え方の違いがあるようだ。その一つに日本の林業は山で伐採すると、長さ数メートルの玉切りにし、幹の部分だけを搬出して残りは山に放置している。ところがアメリカでは、伐採した木はすべて何らかの方法で製品化する。パルプ、合板、ボード、集成材、積層材、住宅用二次加工、家具などの木材加工製品を生産するのは当然だが、その過程で出た廃材、枝葉などは燃料として使用する。さらに元々細い木は加工などせずに、すりつぶしてボード類の原料のチップやパルプの原料にし、製材に余計な手間をかけないことになっている。製材途中のオガクズや、樹皮でさえ産業資源として活用するルートを備えている。近年これらの製品以外の林業の副産物は、バイオマスエネルギーとして、アメリカ全土で個人の家の燃料や地域の発電などに利用されている。このため、根を除くすべてから収入が得られる仕組みになっているのだ。だから林業企業は儲かっている。なるほどアメリカの林業は合理的で無駄がない、と感心し納得する。しかしその一方で森から木の枝葉まで持ち出してしまうことは、林地に還元される養分が少なくなるということで、将来的に何か不都合が起こらないかと、心配に思うのは私だけかもしれないが、やはり心配である。もちろん、ゴミとして捨てる部分を活用することは見習わねばならない。

因みに、戦後米ツガ材の国内製材をはじめたのは、昭和36年(1961)頃本県の田辺市新庄の田辺五社会(大手製材業者5社)が伊藤忠商事と共同で、米ツガの調査を実施したのにはじまる。米ツガを日本材以上の高品質に製材し、米ツガの日本での地位を確立したのは、五社会のもつ高い技術力であった。

■ 持続可能な森林経営

1992年にリオデジャネイロで開かれた地球サミット以降、「持続可能な開発(sustainable development)」という言葉がよく聞かれるようになった。それはわれわれの産業活動のあらゆる部分で、地球環境に配慮した自制を求めるキーワードとなって世界を駆けめぐっている。

林業も例外ではなく、熱帯雨林の減少など様々な問題を乗り越えるため、「持続可能な森林経営」を目指して、1993年に国際非政府組織、森林管理協議会(FSC)が環境保護団体の主導で、木材産業も加わり発足した。この制度は日本ではまだ余り馴染みがない制度であるが、概要は森林環境に負荷をかけない森林経営を行うことを目標にしたものであり、そういう森林経営とは、森を再生しながら木材を生産するといった循環あるいは持続することを優先にした経営である。そのような経営をしているかどうかは、第三者機関が判断することになっているが、FSCがその役割を果たしている。対象とするのは森だけではなく、森から生まれる木材や木材製品にも認証を与え、趣旨に見合った製品かどうか消費者が判断できるようにFSCのロゴマークを製品に貼ることにしている。1999年10月末現在世界で1,736万ヘクタールの森林が認証を受けている。FSCの他に国際標準化機構が実施するISO14000シリーズでも、環境に配慮した経営を行っている林業会社や木材加工業者などを評価し、認証することを実施している。またヨーロッパでは、凡ヨーロッパ森林認証協議会が森林認証制度の実施を準備しており、認証されれば独自のロゴの入ったラベルを製品に貼ることができるようになる。この他国レベルでは、ドイツ林業協議会のマーク、英国森林産業協議会の「ウッドマーク」、アメリカのツリーファーム・システムやグリーン・タグなどがある。どのようなシステムで判定されるのかというと、FSCの例では判定代理会社のSCS社が、木材生産のやり方、生態系への影響、地域社会・経済との関係、の3分野で基準を設けて判断されている。

このようなシステムは環境意識の高いヨーロッパを中心に進められている。というのも、このような環境に配慮した林業を行えば当然コストが高くなる。自由競争の世界では同じ製品であれば、価格が廉価なものが売れるのが当然だが、ここに環境に配慮したという付加価値が付くことになる。つまり、環境に配慮する、ということに価値を見出せない地域や国ではこのシステムは成り立たないのである。製品の値段が高くても、自然に負荷をかけていないものを買いたい、という意識があってはじめて導入できる制度である。

欧米諸国の森林・林業の現状
木材主要輸出国における木材輸出規制の概要

日本人にこういう意識が希薄なのか、日本ではFSCなどの認証制度の導入が遅れている。しかし国内では7か所の森林業者が既に取得しており、今春山梨県の県有林が認証されたと聞いている。このような動きがようやく活発化しており、認証基準の国内向きの基準づくりが急がれる。

4.人と森の展望
■ 身の回りの木材利用

私が生まれた家の窓枠は木枠でできていて、窓もガラス以外はすべて木製であった。中学生の頃新築した家の窓は、アルミサッシになった。しかし雨戸はまだ木製で、大きな戸袋がついている。そして5年前に建てた現在の家の窓は、どこを見ても木の部分がない。窓も窓枠も雨戸もアルミで出来ている。変色したり、腐ったりする木より、半永久的に変質しないアルミを使用することに進歩を感じたものだった。木であれば水に濡れれば直ちに拭き取らないと腐るような気分になるが、アルミでは何も感じない。腐る材料から腐らない材料の使用は大きな進歩であり、素晴らしく感じたものだ。学校の校舎も木造からコンクリート製になり、イスや机も木からスチール製になった。用務員のおじさんが壊れたイスをカナズチで直してくれることは最早ない。

木材需要構造(平成12年)
木材需要構造(平成12年)

現在の家は木造であっても、和室は別として、洋間には木の柱は表にはほとんど出ずに、壁紙の下に隠れてしまう。壁紙も木の上でなく、柔らかい石膏ボードの上に張られている。現在の家は木を表に出さない方向に進化したようだ。表にでなければ木目の美しい木材を使う必要もなくなり、安くて加工しやすい外材で十分になるから、コストはかかるが非常に美しい日本の木材の活躍する場が少なくなる。和室のヒノキの柱も集成材にヒノキの皮を貼るのが主流のようだ。これにも理由があり、集成材の柱は反りなどの変形が少なく、ヒノキの柱は高価だがヒノキの皮なら木目の通った美しい皮をいくらでも貼れるので、見た目は高級総ヒノキの和室に見える。接着剤も工夫されて剥がれなくなっているという。しかし皮は皮でいずれ化けの皮が剥がれるだろう。そして、既にヒノキの香りもしなくなった。ついでにヒノキの香りのスプレーでも付けてくれればいいのだが。

このほか木の橋など日本中探してもそう残っていまい。建築工事に使う足場も、木からスチール製に変わってしまった。公園などで木の柵かと思えばコンクリートだったりする。住宅着工戸数のうち木造の家は45パーセントまで減ってしまった。これらは主に耐久性を重視してのことだろう。確かに、わが家の庭に設置した木製のラティスは3年で腐ってしまった。それで今はアルミ製のラティスに代えている。何と風情のないことかと思いながらも、余程の酸性雨でも降らない限り腐ることはないので安心している。

木を使うには哲学がいるのだ。後に書くように伊勢神宮のように常に新しいものに交換して行くという哲学だ。腐るから別の材料を、というのではなく、腐るから定期的に新しいものに代えよう、というどこまでも木を使う考え方だ。交換することで、新しく再生する。木を使うことで日本の山村が元気になる。それなら少し無理をしてでも日本の木材を使おう、という気になる人は少なくないと思う。戦後の生活史の一面は、身の回りのモノが木製からプラスチックや金属類に代わる歴史でもあった。一時期木材が不足したということもあったのだろうが、木でできたモノの良さを見失ってしまったように思う。木を見捨てることは、わが国の面積のほとんどを占める山村を見捨てることに直結している。

国民1人当たり木材消費量
国民1人当たり木材消費量

例えば、もし県内すべての官公庁の机をスチールから木製にできるのなら、どれだけの木の需要を作り出せるだろう。スチールなら長持ちすると考えるのは間違っている。買った早々はツンとしてきれいだが、5年もするとさびが出たりひどい汚れが付いたりする。異動の度に新しい職場で古い汚れたスチール製の机が待っているのにはうんざりさせられる。木製にはそんなところはなく、大事に使えば使うほど風格すら出て来る。少々高価かもしれないが、広大な山村を抱える自治体は率先して木の机を使ってほしいものだ。

間伐材が使われないのなら、山の中で林道整備や、遊歩道や登山道整備に大いに活用すればいい。今はやりのビオトープづくりにも間伐材は最高だ。腐れば何度でもやり直す。そこには過疎地に公共事業という仕事がついてくるのだ。値が安いから何の手だてもしないで放ってしまうことは、山村を放棄してしまったようなものだ。値が安いから何にでも気軽に使うことができるのだ。

■ 割り箸論争

私が環境問題に関心を持ち始めた頃、割り箸を使うことは自然破壊だという風潮があった。エントロピー学会のある先生は、いつも箸箱を持参しており、飲食店に入ってもこの箸を使うことで割り箸の消費を避けていた。当時は、なるほど、すごいな、と感心していたが、それはとんでもない誤解であったと感じている。

人間がこの社会で生きていくためには、何らかの消費が必要であり、その消費によって貨幣経済が健全に機能している。この消費が深刻な環境問題を引き起こしていることは確かであるが、割り箸の消費は環境問題を引き起こす性質のものではない。使った割り箸を地面に刺しておけば、1年もすれば腐って土に戻り、それが土を肥やしている。子供らが使用済の割り箸を集めて、製紙工場で紙の原料に使ってもらうような試みも行われており、割り箸は資源と考えられよう。ビニールやプラスチックゴミのように分解されずにいつまでも残り、環境にダメージを与え続けるものとは、全く違う性質のものである。

また、割り箸を作る主な材料は、柱材などをとった後の残りの部分を活用しており、いわば捨てる部分の有効利用である。この部分を加工することにより、立派な商品になる。いくら消費しても環境に悪影響を与えず、それでいて林業従事者の生活を安定させているのだから、これほど素晴らしい消費財はないと考えていいのではないか。プラスチックの箸を使うくらいなら、毎日割り箸を消費する方が、余程環境に対する配慮をしているといえる。割り箸にFSCマークをつけてほしいくらいである。

大事なのは、木材を使わないことではなく、再生産可能な資源を消費し、しっかり再生産することである。そして、消費者が何を使うべきか正しく理解することが重要である。

■ 知床騒動

林行政にも問題があった。次に掲げる例は、日本の森林経営がいかに場当たり的であったかを表している。

昭和62年(1987)4月14日午前10時知床半島幌別川の原生林の伐採が、日本全国の多くの人々の関心が寄せられる中開始された。「伐らないで、伐らないで」と謳うように自然保護団体の若い女性が木にしがみつくようにして、樹齢数百年のミズナラの巨木を護ろうとしていた光景を、テレビで見て記憶されている人も多いと思う。しかし機動隊によって次々排除されていく。機動隊に守られた林野庁の作業員は533本の巨木を伐り倒し、直径の大きな部分の長さ4メートルだけをヘリコプターで搬出した。少なくともそれだけの巨木になるには300年かかるといわれる木だけを533本伐り搬出して、得られた売上金はわずかに3,000万円であったといわれる。1本当たり6万円にもならない売り上げだ。伐採の必要経費はヘリコプター代、作業員の人件費だけではない。動員された機動隊も国民の税金で賄われている。それらを差し引いて、この事業に一体どれだけの収益があったのだろうか。未だ深い疑問が残っている。

林野庁の説明では、原生林の老齢の過熟木を伐ることによって、森林を蘇らせるというものであった。蘇らせる、といっても知床の原生林が弱っていたというデータはない。間伐も含めて伐らねばならない人工林が国内に山ほどあるなかで、わざわざ折角残った原生林に人の手を入れる根拠は非常に乏しかった。伐ったのは533本でも、北海道大学自然保護研究会の調査では、伐り出しに2,000本の木が倒され放置されたと報告している。ヘクタール当たり4、5本の伐採と説明されたが、実際は数カ所に集中して伐採されており、原生林全体で平均すれば、1ヘクタール当たり4、5本ということになるようだった。伐採跡は広々と木々が伐り払われていたという。

林野庁が伐採した本当の理由は、その説明には無いのだが、当時も赤字がかさんでいた林野庁はただ単に収益が欲しかったからであろうと思う。その証拠に、巨木であっても中が空洞や腐っていた木は途中まで伐って、伐り倒しもせずそのまま放置していたようだ。そのような木はもうただ枯れるしかない。傷がつかなければ、まだまだ長寿を全うできる木であった。本当の老木は金にならないから伐採しなかった、このことが伐採の真の目的が何であったかを示している。この行為は明治に出された神社合祀令と似ている。各地にある神社の神木を伐採し、材木にして利益を上げようとしたが、実際に伐ってみるとほとんどの巨木の中心部分は空洞で木材として利用できなかったため、多くの国民の反対を押し通して合祀を実施したものの、目的に反して大した収益を上げることもできず、それぞれの地域の人々の心の拠り所を失わせただけであった。それと同じ事を繰り返してしまった事件であった。

知床の自然は幼樹から老樹までを含めた各階層の木が茂っているため、バランスよく保たれていた。老樹は時期が来れば人間が伐り倒さなくても勝手に倒れるものだ。巨木は枯れるまで、あるいは枯れてからも様々な生物が住処や食べ物として利用するため、知床の野生生物にはなくてはならないものであった。人間が過熟木を伐らないと良好な森林は保てないという理屈は全くなく、思い上がり以外の何ものでもない。天然林は自分たちで自然の法則に従ってやっていけるのである。

現在では世界遺産となっている白神山地のブナ天然林も、道路建設のために大量に伐採された。古く日本人は森を畏敬して大切にし、どこの国よりも良好に保存してきた伝統が、現在には受け継がれていない。森はただ木が生えていればいいというものではないのだ。

人の手が入っていない森の貴重さは、今日では誰でも理解できるだろう。ではなぜこのようなことが起こるのか。それは、結局森林行政の環境政策が貧困であったためだと思う。当時はまだ日本の山をすべて人工林にしても、何の痛痒も感じない人が多くいたのではないか。人工林は人工林で人間が育て、十分利用する。一方、貴重な天然林は未来に残す。こんな単純だが分かりやすいコンセプトが無かったからであろう。もちろん今日では林野庁をはじめ行政全体が変わりつつある。

■ 伊勢神宮と法隆寺

良好な森を作るために、伊勢神宮は独特の育林の方法を考え出している。もちろん元々は天然林を伐採して人工林にしたのであるが、人工林をより天然林に近いかたちで繰り返し育林できる手法である。この項は県立図書館の宇治田誠次氏から提供していただいた、NHKスペシャルのビデオ「伊勢神宮 永遠に継ぐ森づくり」に負うところが大きい。 

伊勢神宮は周知の通り式年遷宮を行っている。これは飛鳥時代に、20年に一度神の社を建て替えることにより国が栄えるようにと、天武天皇の発願に始まったものである。20年に一度新しく造営するのは、古代の日本には一代一屋主義があり、藤原京に遷都する694年まで、天皇が即位する毎に新しく都をつくっていた。が、中国に習って大規模な都を目指すようになると、そういうこともできなくなったのだろう。それでその習慣が天皇家を祀る伊勢神宮に受け継がれたのかもしれない。

遷宮とは20年に一度、伊勢神宮にある大小125の社をすべて新しく建て直すというものだ。このことにより、祭りの手順や作法、ヒノキを加工する技術は確実に伝えることができる。そしてこのことは木の文化の在り様を示しているようにも思える。常に更新していくことが、木の文化の基本である。生き物としての木材には寿命があり、その木材を多く使うことにより、その木材をまかなうために木を育てることが必要になり、木を育てるには人間が自然を知り、積極的に自然と関わり合いを持たねばならないという行動につながる。そこには永遠に続く循環の思想がなければならない。

このように考えると、植林を行いはじめた日本古来からの木の文化の本質が見えて来る気がする。しかし一方では創建後1300年を経てもビクともしない、世界最古の木造建築の法隆寺が存在している。石造りの建物であれば、1000年でも2000年でもそれほど驚くことではないだろうが、日本のように湿気と天災の多い国において、1300年を持ちこたえ、今後まだまだ1000年は大丈夫という太鼓判を押された木造建築は驚嘆に値する。

ヒノキはうまく使えば1000年以上持ちこたえることを知りながら、20年で建て替えてしまう思想は一体どこから来ているのであろうか。また、日本に石材がなかった訳ではなく、石の建築を行っていれば、法隆寺よりもっと長寿の建物をつくることも可能であったであろう。が、その方法は採用されなかった。石の建築物がもし日本にあったとしても、それは古城の石垣のように遺跡になっているであろう。法隆寺は遺跡ではなく、現役の寺院である。しかし「木の文明」として法隆寺はむしろ例外であり、同じ1300年の間持ちこたえる建物でも、伊勢神宮は定期的に作り替えることにより、建物に生命を吹き込み続けている。そうすることにより、常に多くの人が伊勢神宮に関係を持つことができるのだ。そして、自然に生きているものは常に生死の循環の中にあり、その循環の中に身を置くことにより永遠に続く豊かな暮らしが保証されてきた。そしてうまく循環を利用することにより、石の文明よりはるかに強靱な生命力を保持できるのである。一見まだまだ使える社を建て直すのはもったいないことに思えるかもしれないが、常に新しく生まれ変わるということを、伊勢神宮の式年遷宮は具現化した祭であろう。そして過去から未来へ、世代を越えて、時代を超えて、受け継がれて行くのだ。常に生まれ新しくなるのが木の文明で、一度作れば半永久的に保持できるが、人との関わりを遠避けてしまうのが石の文明であろう。だから石の建物は遺跡になってしまう。

ではこのような式年遷宮が、かつてはかなりの数の神社で行われていたが、寺院にはその制度は無かったのはどうしてであろうか。その答えを私は見つけていないが、寺院は日本固有のものではなく、仏教とともに外国から入ったものであり、木の文明というよりどちらかといえば石の文明に近い思想があったのではないかと思う。カンボジアのアンコールの遺跡群やインドネシアのボロブドゥールの仏教寺院、あるいは敦煌の莫高窟など多くの石でできた仏教遺跡を考えれば、そう外れた考えでもないかもしれない。そしてその地域の宗教の変遷も関係があるのだろうが、どれも現在では既に遺跡となっている。日本固有の宗教の神道にだけ、式年遷宮の習慣があると考える方がいいのだろう。

■ 伊勢神宮の森

大小125の社を建て直すのに膨大な量のヒノキを使用する。具体的には直径60センチのヒノキ1万本を使うという。成長の遅いヒノキが直径60センチになるには有に200年を必要とする。伊勢神宮の周辺に広がっていた森のヒノキは鎌倉時代に切り尽くされ、その後紀伊半島にヒノキを求めたが、ここも400年で切り尽くし、江戸時代から木曽のヒノキに頼って来た。日本の森林の懐がいくら深いといっても、これまで1300年の間、一方的に伐採してきたのであるから、木曽のヒノキですら200年もののヒノキは残りは少なくなっている。式年遷宮に使用できるヒノキが日本から無くなるという事態を避けるために、大正12年(1923)に「神宮森林経営計画」を策定し、神宮の森5,500ヘクタールにヒノキの植林をはじめた。200年後に遷宮に使用できるヒノキの森が完成し、その後は順々に再生産を続けて行けるというものだ。

この森を造林するのに、神宮側はできるだけ自然に近い森を作りたいと考え、ヒノキと広葉樹が共生する森を目指していた。最初広葉樹の森にヒノキを植林するとき、広葉樹を半分伐採して空いた土地にヒノキを植林した。しかしヒノキより成長の早い広葉樹は、ヒノキを覆って日陰にしてしまうため、ヒノキは枯れるか光を求めて曲がって成長をしてしまい、木材には使えなくなってしまった。そこで試行錯誤の上、次のような方法が考え出された。

まず植林する前に広葉樹をすべて伐採し、そこにヒノキを植林する。ヒノキが大きくなるまでに広葉樹が先に育って来るので、これもすべて伐採する。やがてヒノキが育ち地上部分に陽が差さなくなると広葉樹は生えてこなくなるが、間伐を行うと地上に陽が届くようになり、広葉樹が芽生えて来る。この広葉樹をそのまま育てるというものだ。もうヒノキは広葉樹に負けない。ヒノキが育つにつれて、窮屈になり陽が広葉樹に当たらなくなるが、間伐を繰り返すので、広葉樹も枯れずに育つことができる。ヒノキを育てながら、本来の広葉樹の森も育てることになるのだ。ヒノキだけでなく広葉樹と200年共存することにより、そこには何らかの共生と競争が生まれ、互いに強くなることができる。

このような造林事業を行うようになって、大雨が降って河川が増水しても五十鈴川の堤防を決壊させることはなくなったという。広葉樹はしっかりと根で大地をつかみ土の流失を防ぐ上、落葉が堆積して水の保水量が増したということだ。落葉樹は人間が欲する木材を供給してくれないが、木材生産にとってかかせない土壌の保護を行うとともに、国土の保全にも有効なのである。そして広葉樹の森は、野生生物にとっては棲みやすい環境で、現に伊勢神宮の森でも野鳥の種類と個体数が増加しているのが確認されている。野生動物がいることにより、一段と森は豊かになるのである。

■ ただ感謝するしか…

自然からあまりに多くのものを収奪することは、バランスという秩序の崩壊につながる。例えば採集経済に依存していたころは、動物は森の中におり、その動物を獲れるかどうかは、全く運に頼っていた。その運は人間ばかりでなく動物側にもあった。不運な人間、幸運な動物、という現代社会ではほとんどあり得ないような組み合わせも存在していた。そして、幸運に恵まれた人間も、自分で運べる以上の動物は殺さない。肉の保存方法もないため、必要以上の殺生はなかったのだ。

ところが、「家畜の飼育」という動物の強制収容所を考え出した人間は、動物の幸運をすべて奪ってしまい、人間側だけの幸運を追求し、確実に肉を手に入れるシステムを作り出した。家畜の運命はすべて人間の掌に委ねられている。ほしいときにいくらでも殺して肉にできる。今日生き延びても明日は生きられるかどうかわからない、仔牛であっても成牛であっても待っているものは同じ、というアウシュビッツの運命を家畜は常に背負わされている。牛にもその運命から来るストレスがあるに違いない。

結局この地上の勝利者は人間であって、人間の横暴を戒めるカミはいないように見えた。いや、人間がカミを傀儡にしたかのように見える。しかし、実はカミは存在する。動物に対する横暴を戒め、動物に乗り移ったカミの意志は、狂牛病や黄蹄疫ではなかったか。狂牛病を恐れ、疑いのある牛をすべて殺して焼却処分にした。もしこれらの病気が本当は牛の意図で起こっているとしたらどうだろう。家畜という責め苦から逃れるため、絶滅する道を牛が自ら選んだのだとしたら、もはや人間も手が出せまい。

前世紀のエボラ出血熱やエイズから今世紀のSARS(重症性呼吸器症候群)に至るまで、未知の病気は野生動物が媒介している可能性が高い。自然の中で眠っていたものが、突然暴れ出すのだ。人類がライ病やペストを克服したように、将来何らかの方法で解決するものかもしれないが、そのときさらにカミという傀儡を身に付けることになる。

森林の過度の伐採に対する人間への戒めは、異常な気候変化ではないだろうか。樹木に心や痛さを感じる部分があるとは、恐らくほとんどの人は考えていないだろう。だからどんなにも粗末に扱うことができる。しかしわが国では、本物の神は樹木だけに天から降りて来られるのである。神社において社はむしろ余計なもので、「日本書紀」や「万葉集」では「社」と書いて「もり」と読ませている。

「カミ」は存在する、ということは恐らく無いだろう。しかし人間一人ひとりの心の中に、良心という「神」を生き返らせなければならない問題が多すぎるように思う。人間以外の生き物の命も尊重する、食べ物は粗末にしない、必要以上のことはしない、身に余る富は持たない、自分よりも子孫のことを考える、これくらいのことを実行できれば「カミ」は人間の心の中で「神」となり、安らかに息つくことができるはずである。

狂牛病も異常気象も、あるいはアメリカとイラクの争いも、すべて人間の行き過ぎから生じている。富める国アメリカと、石油はあるものの貧しい国イラク(もし石油がなければアメリカに抵抗しようという気持ちすら起こらないくらい貧しくなる)の対立という構図である。ここでも富という本来は平等に存在しなければならないものが、偏在的にアメリカに集中していたということに根本原因がある。富とは力である。力は相手を支配するために使用されるものだ。その力に反発する手段として、テロが起こる。もちろん力があれば、テロという姑息な手段は使わないで、正面から国家として宣戦布告をするだろうが、力は偏在している。アメリカはテロはしない。力があるから、国家として戦争を行うことができるのだ。何兆円もの戦費を費やせる国が他にあるだろうか。戦争とは金持ち国のテロの一形態に過ぎないのかもしれない。根本にある問題は国際社会、いや個人間においても、歪になってしまった人間社会の複雑系の問題が吹き出したということだ。

以上の話は森とは関係がないと思われるかもしれないが、私は森の話をしながら「文明論」を書いて来たつもりである。木を伐ることにより富を得た人間は、もっと富を得るために森の木を伐採し続け、伐る木がなくなれば知恵を出して植林をして人工林を育てた。これは樹木の家畜化にほかならない。しかも人間が有用と認めた木だけを一面に過密に植え、他の生態の入る余地を無くしてしまっている。さらに間伐は間引きである。詰め詰めに植えて、成長するにしたがって形が劣るものや個性が強いものを間引いてゆく。もし同じ事を人間に応用するとしたら、どんな恐ろしい世界であろうか。牛も樹木も文句を言わない。だからどのようにしてもいいのであろうか。

『木曽式伐木運材図絵』に「株祭之図」というものがある。切り株に梢を差して、山の精霊に感謝するという儀礼である。アイヌにもクマを山の神の贈り物として感謝する祭りがあるが、それが良好に自然に接する感覚であって、たとえ儀礼に過ぎなくてもそこから生まれる感謝の気持ちを忘れてしまえば、樹木も家畜も生き物であることを忘れてしまうのだ。伊勢神宮のヒノキの造林は、もちろん間伐を伴うが、広葉樹もともに育て、様々な生き物が棲める人工林を目指して来たことに、幾分心の安らぎを覚える。この造林の方法はもっと注目されるべきであろう。

この地球の生命原理は、別の生命を奪いながら生きて行かねばならない、という業を生命それぞれに背負わせているということである。生き物の基本は悲しいことに多産多死である。どう考えても他の生き物のエサのために卵や子を産んでいるとしか思えない生物もいる。その中で人間だけが、ただ一方的に他の生き物の生命を奪い続けている。命を与えるから他の命をもらうことができる、という平等な取引が成立していないのだ。地上の生命である限り、他の生き物の命をもらわねば生きられないのは宿命だが、この大きな負債に対して人間は一体何ができるのだろう。これは宮沢賢治をはじめとする、多くの良心を持つ人の永遠の課題であった。心から感謝して、できるだけ慎ましく、自然を破壊しないように生活する、これくらいしか私には思い浮かばない。

拙稿「森を考えるヒント」は3回の予定で掲載していただいたものだが、今回の『森を考えるヒント 3』ではわが国と本県のデータを基にしたもう少し深い検討と、わが国と地形が似ているスイスの林業を分析する予定であったが、あれもこれもと書いていると紙面数が無くなってしまったため、やむを得ず割愛した。

当機関誌には『文化、そして文明』以来一貫して私の文明論を掲載していただいた。『文化、そして文明』では西洋文明と日本文明の本質的な差異を、『循環ということ』では現代文明の問題点のあらすじを書いた。そしてその中で問題の柱となる食糧問題を『食糧問題と農村のあり方』に、地球環境という視点からこの『森を考えるヒント』を書いてきたが、もう一つの柱となる「水」問題を書いて、一連の文明論は完結するはずであったが、今回の異動で当研究所を去り「水」を書く機会はなくなった。研究所の方に期待したい。

長い間読んでいただいたことに謝意を表するとともに、完結できなかったお詫びを申し上げて筆を置くことにしたい。

平成15年5月

参考文献

  • 『森林インストラクター入門』  (林野庁監修)  全国林業改良普及協会
  • 『森のセミナーNo.2 くらしと森林』  (全国委林業改良普及協会編)
  • 『森のセミナーNo.4 わたしたちの人工林』  (全国委林業改良普及協会編)
  • 『森のセミナーNo.5 里山の雑木林』  (国委林業改良普及協会編)
  • 『森のセミナーNo.7 森のバイオマスエネルギー』  (全国委林業改良普及協会編)
  • 『森のセミナーNo.8 森をゆたかにする間伐』  (全国委林業改良普及協会編)
  • 『森のセミナーNo.9 森林・林業の仕事図鑑』  (全国委林業改良普及協会編)
  • 『自然と人間の日本史4 樹の日本史』  (足立輝一監修)  新人物往来社
  • 『山と木と日本人』  (市川健夫著)  NHKブックス
  • 『法隆寺を支えた木』  (西岡常一、小原二郎著)  NHKブックス
  • 『木に学べ』  (西岡常一著)  小学館
  • 『森林・林業・木材産業 そこが知りたい 平成14年版』  (全国林業改良普及協会)
  • 『日本の森林・林業 1997』  (日本林業調査会)
  • 『平成14年度 森林・林業および山村の概況』  (和歌山県)
  • 『「木の文明」の成立』  (川添登著)  NHKブックス
  • 『日本の自然』  (濱田隆士、中村和郎著)  放送大学教育振興会
  • 『平成13年度 森林及び林業の動向に関する年次報告』  (林野庁編)  日本林業協会
  • 『森に訊け』  (橋本克彦著)  講談社
  • 『森の旅 森の人』  (稲本正著)  世界文化社
  • 『スギの行くべき道』  (遠藤日雄著)  林業改良普及双書
  • 『新しい里山再生法』  (重松敏則著)  林業改良普及双書
  • 『広葉樹林施業』  (藤森隆郎、河原輝彦編著)  林業改良普及双書
  • 『21世紀の地域森林管理』  (志賀和人編著)  林業改良普及双書
  • 『林業の新しい潮流』  (白石善也著)  全国委林業改良普及協会編
  • 『世界森林白書2002年版』  (国連食糧農業機関編)  農山漁村文化協会
  • 『諸外国の森林・林業』  (日本林業調査会編)  日本林業調査会
  • 『森の形 森の仕事』  (稲本正著)  世界文化社
  • 『遊ぶ!レジャー林業』  (羽鳥孝明著)  J−FIC
  • 『森林ビジネス革命』  (M・B・ジェンキンス、E・T・スミス)  築地書館
  • 『森林破壊と地球環境』  (大石眞人著)  丸善ライブラリー
  • 『森を読む』  (大場秀章著)  岩波書店

(2003.12)
(執筆者の所属、役職等は発表当時のものです)

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