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欧州個性あるまちづくり・地域活性化コース

研究員  田端 浩二

概要

研修期間 平成11年11月6日(土)〜11月14日(日)(9日間)
研修先 イギリス、ドイツ、フランス

これまでのまちづくりは、都市施設の配置に重点をおいて考えられてきたが、社会経済情勢の変化や、住民の価値観の多様化に伴い、ゆとりや豊かさを真に実感できる個性的な都市への転換が必要になってきた。

これからのまちづくりは地方分権の推進や少子・高齢化に対応した魅力ある都市空間の創出、住民が快適に暮らせる居住環境の整備がもっとも重要な要素になると考えられる。

こうした中で、今後のまちづくりにおいては住民参加が基本であると考え、その先進である欧州各国の都市計画制度に基づく住民参加の形態、さらに住民の意見を尊重したまちづくりの実情を参考にすることで、取り組みは如何にあるべきかに視点をおいて視察した。

平成11年12月

1 イギリス編

1−1 イギリスにおける研修の視点

イギリスにおける研修は、

  • 保存修復型再開発による都市(中心市街地)の活性化
  • 地方都市の官民協力による職住近接のまちづくり

の2点であり、歴史的建造物を再整備しながらの中心市街地の活性化と都市機能を分散するための新たな都市施策の現状が対比できる研修である。

そこで、ロンドンにおける都市政策の変遷や都市計画制度を踏まえた上で、これらに係る住民参加のあり方について検討する。

1−2 イギリスの地方自治制度

イギリスの地方自治制度は、単一国家でありながらも、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの4つの地域からなる連合国家である。

イギリスの首都ロンドンには、以前、大ロンドン県(日本でいう都庁)が置かれていたが、1986年に当時の保守党政府によって廃止され、以来、ロンドンには、全域を統括する役所は存在しなくなった。

1986年まで大ロンドン県が処理していた業務は、32のバラ(区)とシティ(市町村)によって治められている。

1−3 イギリスの都市計画制度

1947年に制定されたイギリス都市計画の基本法『都市農村計画法』において導入されたディベロップメントプランは、10年〜20年後の土地利用のあるべき姿を示し、個別案件に対する許可・不許可の判断基準とするものである。

その後、1968年法の下で広域的な開発政策を示す『ストラクチャープラン』と地区の詳細な計画を示す『ローカルプラン』の2層制に改編された。

大ロンドン及び大都市圏においては、この2段階の計画を統合化した『ユニタリーディベロップメントプラン』が施行され、現行1990年法では、以下の3つのプランが規定されている。

(1)ストラクチャープラン(基本計画)

非大都市圏の県レベルで策定される広域的な計画であり、土地開発及び土地利用に関する一般的な政策を策定し、10年以内に着工する総合開発、再開発、改良事業を行う地区は開発事業区域として示している。

(2)ローカルプラン(地区計画)

非大都市圏の市町村が策定する具体的な開発プランであり、ストラクチャープランに盛り込まれた政策及び提案を実現するため、各地域の土地開発及び土地利用に関する詳細な政策を示している。

(3)ユニタリーディベロップメントプラン(統合開発計画)

ロンドンやマンチェスター等の大都市圏の市町村ないし特別区が策定するもので、上記の両者の性格を合わせ持っている。

1−4 都市計画決定の手続き

1−5 ロンドンの都市政策の変遷

イギリスは、ロンドンをはじめとする大都市から経済活動を地方に分散させようとする政策を強力に推し進めてきた歴史がある。

産業革命に端を発した高度経済成長もピークを迎え、安定成長へ移行する頃、ロンドンにおいては、過度の人口集中、生活環境の悪化などが深刻な都市問題としてとらえられるようになってきた。

1944年、都市計画学者アバークロンビーによって「大ロンドン計画」が発表された。

この計画の中でロンドン都市域の外側に指定されたグリーンベルト内においては、新たな都市開発を厳しく指定すること、そして、グリーンベルトの外側にある衛星都市は重点的に開発投資を行うことを提案した。

1946年ニュータウン法が公布され、郊外における衛星都市の建設は「ニュータウン」として実現された。

都市に集中している人口や経済活動を地方に分散することによって都市の過密問題を解消し、また、大都市から独立した職住近接のコミュニティを作り出そうとした政策は、結果として、ロンドン等の製造業、物流業といった基幹産業の凋落に伴う失業率を高めることになってしまった。

このような状況に対処するため、1978年インナーシティ法が公布され、ニュータウンのような郊外開発から、インナーシティの再生へと振り向けられるようになった。

◆都市政策の変遷

西 暦 都 市 政 策
1944年 大ロンドン計画を発表
1945年 第2次世界大戦終戦
1946年 ニュータウン法の公布
1947年 都市農村計画法の公布(ディベロップメントプラン)
1963年 大ロンドン県(GLC)の創設
1968年 都市農村計画法の改編(ストラクチャープランとローカルプランの2層制)
1973年 コベントガーデン再開発計画を発表
1978年 インナーシティ法の公布
1980年 地方行政・計画・土地法の公布
1986年 大ロンドン県(GLC)を廃止
ロンドン市内の様子
(上:広告看板が全くない、下:ピカデリーサーカス(ここだけが広告看板が許可されている))
1−6 コベントガーデン再開発事業地区の視察
「保存修復型再開発による都市(中心市街地)の活性化」
日   時 ; 平成11年11月7日(日) 天気 晴れ  気温 9℃
コベントガーデン
コベントガーデン
コベントガーデン内部
コベントガーデン内部
(1)歴史的背景

コベントガーデンは、ウエストミンスター僧院付属の広大な庭の一部だったといわれる。国家は僧院の庭を没収し、初代ベットフォー伯爵に与えた。彼がそこに野菜類の売買のため、屋台を設置したのが青果市場になった始まりだという。その後、1631年、建築家イニゴー・ジョーンズが長方形の広場と周囲の回廊、聖ポール教会などを設計し、1660年代に市場として正式認可され、ビクトリア時代にピークに達する。

第2次大戦後、ロンドンが大都市化するにつれて、周辺の狭い道路は荷物を搬出入する車で混雑し手狭になったため、1974年市場はテムズ川対岸のナインエルムズに移転されることになった。その2年前の1972年には、地区住民の反対運動も展開された。しかし、この地区の再開発に際して、残された市場の建物の歴史的・文化的価値を巡り、住民の意見を最優先することや徹底的な住民参加と公共性確保の計画構想を提示することによって次第に合意が形成なされ、保全的再生を図ることになった。

(2)コベントガーデン再開発事業の基本方針

地区の歴史的、文化的環境を尊重し、その保全を図りながら都心立地型産業、文化施設を導入することにより、都市生活機能の充実を目指した多角的再生を行う。

(3)計画の策定体制

1973年、大ロンドン計画におけるインナーシティ都市再生事業の1つとして、コベントガーデン再開発事業がある。

再開発の主体 大ロンドン県(GLC)
財政面 歴史的建物保存協会、旅行公社など
代表者フォーラム 地区住民、ビジネスマン、職人、地主、家主、宗教団体、コミュニティ組織代表者
審問機関 ウエストミンスター市議会、カムデン区、ピーポディ・トラスト、ロイヤル・オペラ・ハウスなどの公的関連団体
(4)市民参加

“代表者フォーラム”という市民の代表者の組織をつくり、この中の意見を反映しながら原案を策定した。

また、計画策定過程で、審問機関との調整を図っている。

(5)現在の状況

1978年以来、コベントガーデンは、新しい商業・ショッピングセンターとして急成長している。小売業のほか、劇場関連業も進出し、レストラン、ワインバーなども増えた。1974年に市場が移った後の活気を失った都市空間が再生し、ロンドンで最も生き生きした地区、近隣住区となっている。

コベントガーデン再生事業のシンボルとも言えるものが、1980年にオープンした一大ショッピングセンター(コベントガーデン・ピアザ)である。これは、鉄とガラスの屋根を持つ中央市場ビルを4年間かけて、構造的に補強し、内部改装を加えて、多目的施設として、他業種のテナントが入居したものである。中央市場ビルは、チャールズ・ファウラーがデザインした19世紀建築物の貴重な遺産である。そのビルを保全しながら、現代的に再生することが計画当初からの基本的な考えであり、それが見事に実現されていると言える。地区全体が歩行者空間とされており、北と南につながるサービス・ベイを除いてはクルマは排除されている。ビクトリア時代からの花崗岩の敷石も修復され、市場に手押し車で入るためにあったスロープも身障者用に修復、活用されている。

1−7 ベイジングストーク・ディーン市開発局公式訪問
「官民協力による職住近接のまちづくり」
日   時 ; 平成11年11月8日(月) 天気 曇り  気温 8℃
場   所 ; ベイジングストーク・ディーン市役所会議室
概要説明 ; Robert Jolly氏(通訳・木村氏)
人   口 ; 90,000人
市域面積 ; 640Km2
(1)ベイジングストーク・ディーン市公式訪問の紹介

最初の公式訪問となったベイジングストーク・ディーン市役所において、地区の説明を受ける。

ロンドンから南西部方向へ約90kmに位置し、ロンドンから車で約1時間の距離にある。1960年代にロンドンと同じ機能を持つ新都市建設計画により2市が合併してできた市で、当時の人口は約15,000人であったが、現在では人口約90,000人の市へと発展した。

計画的な都市計画により都市機能の充実と雇用機会を確保する事ができている。しかし、当市の計画の中で、市の最も古い建造物を解体しショッピングセンターを建設したことだけは誤りであった。

【市長挨拶】
  • 市長という職は、評議会メンバーの中から選出され、任期は1年となっている。そのため、職権力の行使はなく、どちらかと言うと象徴的立場にあり、親善行事や表敬訪問等々の対応が主な仕事であり、専らPR役である。商業活動は活発であり、経済的には潤っている。また、スポーツクラブなどは約900を数え、10軒の映画館や劇場が2つ建設されています。このような文化施設は町のためだけではなく、南イングランド全体のために建設されている。その他、バルーンフェスティバルやツールドフランスの会場になったこともある。
【新都市建設担当 Robert Jolly】
  • ベイジングストーク・ディーン市は、イギリスの中心的企業をはじめ、アメリカ・ドイツ・日本などの企業の進出が4,700件ほどあり、IBMやSONY、サンライフオブカナダなど、その殆どが頭脳企業である。世界中の貨幣の多くもここで作られている。市民の50%以上が何らかの雇用に関わり、雇用の場を確保できていることから、失業率はイギリスで最も低い1.8%に留まっている。また、市は、積極的に大学を設置し、企業との関連を強めている。
  • 環境問題への取り組みも行われており、自然保護推進については条例化し、環境と景観に力を注ぎ、工業団地には緑が非常に多く、労働環境は整っている。今後は、道路(自動車)にたよらない公共交通の充実をめざして、より一層の環境対策を推進しようとしている。
(2)市の都市計画

経済開発計画(日本でいう総合計画)

  • 目標とする10年後の将来像を描くとともに、7つの基本方針を掲げ、その実現にむけた整備プログラムとして、5年計画、1年計画を策定している。年間計画目標数は10〜12項目としている。

<基本方針>

  1. 誘致した企業はいつまでも当地に留まってもらう。(企業アンケートの実施などで、企業ニーズの徹底調査)
  2. 企業が進出しやすい環境を整える。(土地の造成など)
  3. 企業は市に還元すること。(企業の地域投資を促進)
  4. 職業、高等教育の訓練をする。
  5. EUの一員であることを自覚する。
  6. 快適で豊かな生活環境を整える。
  7. 借入金なしの予算を立てる。
(3)市民参加

計画の策定に際して、企業や商工会議所などから意見を聞き、特に企業についてはアンケート調査を実施しながら、この意見を重視して策定している。

(4)成功した要件

ベイジングストークが成功した要件の1つとして、都心から分散していったオフィスが空港アクセスの良い立地を選んだことにある。ロンドンの主要空港は、西のヒースロー、南のガトウィック、北東のスタンテッドと3つあるが、アメリカやアジアへの大陸間の長距離フライトはヒースローに集中している。

ロンドンに拠点を置く大企業の活動はイギリスやヨーロッパのみならず、世界規模でのマーケットを相手にしていることを考えると、同じ条件の選択肢であればヨーロッパ便は充実していても大陸間移動に不便なガトウィックやスタンステッドよりもヒースローを選んだといえる。

企業に対するアンケート調査の結果を計画に盛り込み、企業が進出し易い環境を整えたことも要件である。さらに、都市局では、「ビジネスを逃がさない」ことを最大の目標にしており、そのため仕事の配分は、80%が既存企業の残留対策、20%が新規企業の誘致の割合になっている。職員は十数名であるが、その人事は、「誰が、最もこのプロジェクトのエキスパートであるのか」という企業的発想にもとづいて人選され、市職員・ビジネスサポートセンター職員(コンサルタント)・商工会議所職員(輸出入や通商に卓越した人材)で構成されている。

2 ドイツ編

2−1 ドイツにおける視察研修の視点

ドイツにおける視察は、

  • 歴史的景観の保全と研究学園都市建設による地域振興
  • 都市景観条例の概要と歴史的景観保全を考慮した住民参加のまちづくり
  • 歩行者専用ゾーン建設・拡大による歩行者中心のまちづくり

の3点であり、歴史的景観を重視したまちづくりとコミュニティを重視したまちづくりとなっている。

2−2 ドイツの地方自治制度

ドイツ連邦共和国は、ヨーロッパの中心に位置しており、東西南北に9つの国と国境線がある。また、16の州からなる集合国家である。

ドイツの地方自治制度は、州によって異なるが、基本的には市町村と広域自治体である郡から構成される。

2−3 ドイツの都市計画制度

連邦国土整備法(1965年)に基づき、国土整備の基本原理を示す国土整備計画を策定し、これに沿って各州における州計画、さらに

広域地方計画など上位計画としてそれぞれのレベルにおける整備プログラムを策定している。

市町村による計画として、『建設管理計画』が策定され、ドイツにおける建築的土地利用及び都市建設に関する最も基礎的な計画となっている。

建設管理計画は、市町村全域におけるマスタープランである『Fプラン』と地区単位の詳細計画である『Bプラン』により構成され、2層制の計画システムとなっている。

(1)土地利用計画(Fプラン)

当該市町村全域について、概ね10〜15年程度を将来目標とし、あるべき土地利用の概要を示すマスタープランであり、市町村の議会の議決を経る。

(2)地区計画(Bプラン)

街区単位の個別の地区毎(5〜10ha)に、Fプランに基づき市町村の条例で定められる詳細計画である。

土地利用の区分、道路・駐車場等の地区内交通施設、その他の公共施設用地、建築許容限度(壁面線、建ぺい率、容積率)などを一体的、総合的に定める。

2−4 ハイデルベルクの視察
「歴史的景観の保全と研究学園都市建設による地域振興」
日   時 ; 平成11年11月8日(月) 天気 曇り  気温 6℃
人   口 ; 13万3千人

中世から、ドイツ最古の大学都市ハイデルベルクは、国際交流を特色としている。ハイデルベルクはフランクフルト国際空港至近の利便性を得て、ヨーロッパ有数の都市として発展し、また、世界的にも最高レベルの学術、経済、文化に関する施設が備わっている。

学術研究の中心として、18学部、8つの特別研究所を擁するハイデルベルク大学をはじめ、ヨーロッパ分子生物研究所、ドイツ癌センター、マックス・プランク研究所なども本拠を構えている。

ハイデルベルク城を望む
ハイデルベルク城を望む

経済都市としては、ドイツ第3位の規模となっている。

市庁舎前広場
市庁舎前広場

(1)都市景観

●都市景観については、省令で定めている。

  • 建物の高さ ; 5〜6階程度
  • 外壁の色  ; 奇抜な色を規制
  • 屋根の色  ; オレンジ色を基調
  • 補助金    ; 外壁などの修理等

小高い丘の上には、ハイデルベルク城が中世の戦いの傷跡を残したまま、そびえている。老朽化し危険な状態になってしまったため、4〜5年前に取り壊しの話が持ち上がったが、全世界から保存の声があがり、市でも歴史的建造物の認識を新たにし、保存を決定した。ハイデルベルク市では、外壁や屋根を補修する際には、まわりの景観に沿うように指導を行っている。

また、大学の敷地内と市街地の境界線がないことから、ハイデルベルク大学を中心に市街地と一体となった街並みが形成されている。旧市街地の市庁舎前マルクト広場から広がるメインストリートは歩行者天国になっており、多くの観光客がそぞろ歩きをしながら街並みを楽しんでいる。また、新市街地には路面電車が通っており、学生が多いこの街では、バスとともに市民の重要な交通手段となっている。

(2)研究学研都市

ハイデルベルクはドイツの大学都市のモデルにもなっている。13万3千人の人口に対し学生数は3万人にのぼり、全人口のおよそ4分の1を学生が占めている。ここでは、学生が街のイメージを決めていると言える。

ハイデルベルクが、経済都市としてもドイツ第3位の地位を占めているのには空港至近という利便性の他にも理由がある。1つは産学の協力関係、もう1つはハイデルベルクのアカデミックで文化的な寡囲気、新しい考え方を受け入れる自由な空気であり、最高レベルの人材が確保できるため企業の研究開発の進出が多い。

学術交流の中心的役割を果たしているのがハイデルベルク大学国際学術フォーラムで、このフォーラムでは、あらゆる専門領域の国内・外の学者が、学術会議やシンポジウムにおいて研究結果や意見を交換している。また、コンベンションセンターでは、頻繁に国際会議が開かれ、経済界、学界の交流の場となっている。

また、ハイデルベルクでは製品の50%以上が輸出され、国内ではトップの座を占めている。さらに、ソフトウェア会社や金融サービス会社など新しい企業も着実に成長を遂げており、これらの中には、ドイツ国内の上場企業の中で優良企業に選ばれた企業も見られる。

2−5 ローテンブルク市公式訪問
「都市景観保護条例の概要と歴史的景観保全を考慮した住民参加のまちづくり」
日   時 ; 平成11年11月9日(火) 天気 雨  気温 6℃
場   所 ; 市庁舎 会議室
概要説明 ; マイスター建設部長  (通訳・フランケン・クミコ氏)
人   口 ; 12,500人(旧市街地 4,000人  新市街地 8,500人)
市域面積 ; 240ha
ローテンブルク城壁内旧市街地
ローテンブルク城壁内旧市街地

ローテンブルクはロマンチック街道の中心都市で、『中世の宝珠』と言われるほど、赤い屋根と石畳の広がり、ドイツの中でも最も中世の面影を残す美しい街である。

19世紀後半から観光都市となり、バイエルン州の中ではミュンヘンに続いて外国からの観光客が多い都市である。

人口わずか1万人余りの街にもかかわらず、年間観光客は100万人以上を数え、城内の人口が4,000人に対し、一晩の宿泊客の最高は住民より多い5,000人である。

中でも、日本人観光客が最も多く、日本人は歓迎されている。

(1)観光都市 ローテンブルクの歴史
紀元970年頃 ローテンブルク西端の高台に城グラーフェンブルクを建設
1172年 都市権を獲得
1204年以降 防御用市壁が1,400mから2,400mに拡張される
1250年 ゴシック様式の市庁舎が起工される
1274年 帝国自由都市となる
14世紀 市壁2,400mから3,400mに拡張される
1618年 30年戦争が勃発
1648年 30年戦争が終結
1905年 鉄道が敷設される
1910年 都市景観条例の制定
1945年 戦後、町の再興が計られるが、国内外からの寄附により歴史古き建造物の復築が可能となる
(2)景観上の制限

ローテンブルクは1400年頃に市の最盛期を迎えるが、近代国家へと発展していく過程で、交通機関の発達から取り残され、近代化とは縁のない街となった。その後、長い年月を経てこの街が観光都市として脚光を浴びるのは、1905年に鉄道が敷設されてからのことである。言い換えれば、近代化の波に乗り遅れたことで、現存する城壁や建造物に中世都市の発展過程が見られるほどに当時のままの姿を留めることができ、現存の観光都市としての基盤が築かれたとも言える。

ところが、1945年の第2次世界大戦により市域の40%が、また市庁舎のルネサンス様式部分も破壊された。再建の際、「旧市街の再生を目指すか」、「新しい町を創生するか」が議論となり、結果的に市民は戦災前の市街地に再生することを選択した。そして戦後1950年に建築規制(条例)を制定し復興が図られることになった。この建築規制は現在でも有効であるが、20年ごとに街の建築規制の見直しを行っている。具体的には、窓、バルコニー、外壁、屋根、ネオン、洗濯物、パラボラアンテナ、建物の高さ(市庁舎や教会のある旧市街地の中心部は4〜5階程度、その周辺部は1〜3階程度とし街全体としてバランスがとれるようにしている)、改築の方法などに規制を設け、街の雰囲気にそぐわないものはすべて排除している。このため、建造物の建設・維持コストは上昇するが、その分補助金を出すなどしている。各商店の広告物については、事前にスケッチを描き、市建設局がそのデザインや色彩等を審査した上で許可を出すよう徹底している。

1991年の条例改正では、改築に伴う建造物の弱体化を防止するため、1階は店舗、2階は事務所、3階以上は居宅を基本とすることに改正されている。観光客の増加に伴い自動車も増加してきたため、石畳の道を一方通行とし、時間帯制限を実施している。(平日は11時〜16時まで、週末・休日は9時〜18時まで許可車以外の城壁内進入禁止。但し、観光バスは観光客と荷物の積み降ろしに限り進入を許可されている。)そのため許可車以外は、城壁外の駐車場に駐車することになる。

(3)市民参加

計画を策定する段階からすべての市民が参加することができる。

また、ある区域の外壁を改修する際にも、市民の意見を取り入れるなど、常に行政と市民との間で意見交換を行っている。

(1)ある区域の建物を全面改修する場合

  • 計画案--->市民に公表--->意見収集--->計画案の変更--->市民に公表

(2)公表の仕方

  • 計画の概要で了承された計画案は、新聞等に掲載することにより、再び市民に公開される。公開は法的に義務づけられており、日本の都市計画決定の際に実施される縦覧にあたるものと考えられるが、地区説明会は実施されていない。日本では縦覧は市役所等の掲示板での掲示のみであるのに対して、いかにPR方法が有効かつ効果的に働き、市民も充分に関心を示しているかが窺える。公開されると、市民からは、意見書が提出され、直接市都市計画課を訪れ意見を述べていく市民もおり、これらは意見書として書き加えられたり、担当者との協議を通して、さらに良案がでてきた場合には、やはり意見書として取りまとめられる。これら意見書は、条例の場合は代表者による討議会に、開発計画の場合は地区会員討議会にそれぞれ諮られ、意見書の妥当性について協議される。再び協議会の結果が公開され、これが繰り返される。市民の建築確認に際して、2年間討議した例があったが、建設部長は、計画案を市民に示すことによって、ここ20年間よい結果を得ることができたと言う。
  • 日本における市民参加とは、ある案件に対して市民が計画の策定を行政に要請したり、ワークショップ方式による計画案の策定などが多いが、その点について建設部長は、「市民のまちづくりに対する意識が非常に高いため、これまで問題はなかった」と答えた。さらに、「意見書が提出された際には、この意見についてよく市民と話し合う必要がある」ということである。
  • まちづくりに対するリーダーの育成、補助金制度の確立は勿論ではあるが、先ず、住民のまちづくりに対する意識を高めることが必要であろう。
(4)ローテンブルク市の今後の課題
ローテンブルク市建設部長による説明
ローテンブルク市建設部長による説明

街にもいくつかの問題点がある。町の観光化や自動車による騒音、建物の老朽化に伴い、生活の場を城壁外周辺部に移転してしまう、いわゆる空洞化現象がおきている。

今後は、博物館としての保存的な活動ではなく、人々の生活の場としてのまちづくりが必要であると考えている。しかし、前述のとおり、交通規制や階層別建築物利用規制等により、生活空間機能を取り戻し、徐々に城壁内へと市民が戻ってきているようである。

また、町の防災については、城壁内は木造建築物が多いため、絶えず大火災の危険性を含んでいるが、対策として火災報知器や井戸(普段は噴水として利用)を多数設置し、住民には消防訓練を徹底しており、消防団はドイツ第1位を自負しているとのこと。最近では、やむを得ず燃えにくく、かつ従来の材質に近い材料の使用を認めている。

また、旧市街地はすべてが石畳であるため、バリアフリーなど高齢化に対応したまちづくりが大きな課題となっている。

2−6 ミュンヘンモールの視察
「歩行者専用ゾーン建設・拡大による歩行者中心のまちづくり」
日   時 ; 平成11年11月11日(木) 天気 曇り  気温 5℃
(1)歩行者専用ゾーンの設定
歩行者専用ゾーン・ミュンヘンモール
歩行者専用ゾーン・ミュンヘンモール

ミュンヘン市は、第二次大戦中に市街地の83%が破壊され、40%が全壊するという大打撃を受けたが、戦後見事に再建され、1972年のミュンヘンオリンピック開催決定を契機に、世界に誇れるような街づくりを目指した。中心部のあるべき姿としては、かつてアドルフ・アーベルが提案した“歩行者優先の活気ある街”の方向性が打ち出され、コペンハーゲンで実施された歩行者専用ゾーンがモデルとなった。車の混雑によりメインストリートに人々が集まらなくなっては、中心部の活力は生まれないと判断したからである。

そこで市としては、この歩行者専用ゾーン計画は、都市交通計画と並行して検討することとなった。つまり歩行者を集中させる役割をどのように作り出すかが、都市計画上の課題であった。

それは、

  • 近郊鉄道(Sバーン)と地下鉄(Uバーン)とをマリエン広場で交差させて、中心部へのアクセスを確保する。
  • 都心部の通過交通を排除する。
  • 近郊鉄道と地下鉄の利便性を向上させる。
  • 市域内の何処からでも、都心部への到達時間距離を45分圏域化するとともに、交通ネットを改善し、45分圏域を従来の500m2から1,500m2に拡大する。
  • 旧市街地での駐車を制限する(1万台を限度)。

というような施策をとり、これによって自動車を中心部から排除するとともに、公共交通機関により中心部へのアクセシビリティを確保するというものであった。

しかし、店前に駐車して買物をしてもらっていた当時の小売店から見れば、メインストリートに車を入れない歩行者専用ゾーンは、売上を減少させるものとして大反対があった。

これに対して、市の都市計画当局は“歩行者優先の活気ある街”でなければならないとの信念のもとに、小売業連盟、投資家、市民代表者らと徹底的に話し合う場が持たれた。小売業連盟には、個々の商店主を説得してもらい、ようやくこの計画は了承され実行された。1972年に「ミュンヘンモール」といわれる歩行者専用ゾーンが完成すると、訪れる人々の数が増加するとともに、安心してショッピングができることや、自動車公害がなくなり、かつ静かな空間になった。加えて街自体をよく見ることができるようになったことなどが評価として現れ、ミュンヘンモールのメイン通りであるカウフィンガー通りでは、歩行者専用ゾーン化前は1日当たりの来街者数が7万人だったのが、現在は24万人に増えており、商店主が抱いていた不安(客が減少する)は一掃され、売上が以前の2倍、3倍と伸びた。

この壮大なショッピングモールは、観光客を呼び寄せる大きな観光資源にもなっている。

(2)市民参加

ミュンヘンモールは、ミュンヘンの都心に整備された全長15km、総面積10haにも及ぶショッピングモールで、中心は市役所前のマリエン広場からカールス門に至るカウフィンガー通りとノイハウザー通りである。ここは昔からの土地割りを持ち、不整形かつ細長いさまざまな形状の上に、建物、広場、街路などが存在し、中世以来の伝統的な手工業やサービス業の、いわば中小小売店などが集中して、多様な魅力を連鎖的に作り出している。そして噴水や彫刻が豊かな雰囲気をかもし出している。

この成功を背景に歩行者専用ゾーンは市民に受け入れられ、その拡充を進めることになるが、同時に商店主や市民は率先してショーウインドーを美しくディスプレーしたり、建物を清掃したり、またファサードを改修したりしながら、路地を清潔に維持管理するようになり、歩行者専用ゾーンが中心部に新たな活性化のインパクトを与えたため、ミュンヘンの中心商店街では、昔も今も空き店舗はないといわれている。

また、これを契機に市民は都心部改造の一切を行政にゆだねることにはせず、市民が自ら進んで土地や資金などを負担してまで公共用途に提供することも定着した。すなわち、当初実施したカウフィンガー通りとノイハウザー通りの1.2km以外は、すべて沿道の商店主たちが自分たちで費用を集め、市当局に対しモール化を要請している。

一方、市の都市計画局では、当初、単に車の進入を阻止した歩行者専用ゾーンで旧市街地を歩く空間に提供したのでは、利用者の増加や円滑なアクセスに問題が生じることが懸念されたことから、この歩行者専用ゾーンの直下に近郊鉄道と地下鉄を通し、ゾーンの両端に駅を設けるとともに、駐車場も19,000台分が必要になると見込み、とりあえず旧市街地の周囲に9,000台分駐車場を整備して、利用者への利便を図った。その後、公共交通機関の整備に伴い駐車場の稼働率は低下傾向になり、市内中心部に駐車場をこれ以上作る必要もなくなった。

(3)ミュンヘンモールの魅力

ミュンヘンの歩行者専用ゾーンの魅力は、次のとおりである。

第1に、カウフィンガー通りやティアティーナ通りなどのメインストリートと広場や小さな路地がネットワーク状にモールを形成し、買物にとどまらず、そぞろ歩きをし、休憩をし、人々を眺め、人からも眺められるといった楽しみの多い自由な空間であること。この商店街には雰囲気を損なう看板、ネオン類はなく、電線類はすべて地中化されている。

第2に、教会や市庁舎、劇場などはじめとする歴史的な建造物がところどころに存在し、変化に富んでいること。

第3に、高層ビルのないオープン・エアのモールであって、広い空を楽しめること。また、青空市場やオフィス街との間には、公園を配してネットワーク化されている。

第4に、高級品、大衆品、食料品というように、目的に合ったショッピング空間が展開されていること。

ビクトリア・マーケットは、以前は車も通行する広場だったが、3方の道路を封鎖して青空市場にしたものである。このマーケットは市の土地であり、出店者は高い賃借料を払わなければならないが、商売不振でやめたいとの申し出はなく、出店希望者が空きを待つという状況で、市民も気軽なショッピングやコミュニケーションの場として楽しんでいる。また、広場ではいろいろなパフォーマンスも行われており、音楽を演奏する者、パントマイムを演じる者もいる。人々がショッピングなどで歩く距離は400mが限界だといわれているが、ミュンヘンモールの場合は800m歩いても苦にならないという結果が出ているとのことで、ミュンヘンの歩行者専用ゾーンの魅力を窺うことができる。

そして、1996年11月に閉店法の改正により、一般小売店の営業は夜8時まで認められるようになったため、平日夜8時の閉店時に押し出されるように、多くの若者が店を出て映画館や飲食店に行く姿は、街の活性化に大いに貢献している。

3−1 パリにおける視察研修の視点

パリにおける視察は、デファンス地区の再開発であり、一極集中から多極分散型の都市構造への転換により、都市機能を効率化する実例である。

デファンス再開発地域
デファンス再開発地域
「アルシュ」(新凱旋門)より旧市街地を望む
「アルシュ」(新凱旋門)より旧市街地を望む
高層アパート群
高層アパート群
3−2 ラ・デファンス開発

パリにおける再開発の歴史は古く、再開発の計画は1950年代後半から始まった。その先駆けとなったのが、1939年に認可された“パリ地方基本整備計画”である。しかし、この計画は第二次世界大戦によりなかなか進展せず、計画が具体的に検討されるようになったのは戦後10年程たってからのことである。それは、1955年、「ル・ムーラン計画」と呼ばれる第一次パリ新編成計画であった。

この計画が引き継がれ、具体的に検討され、進展することになった。このなかで最も早いものが、デファンス地区の再開発である。当時、フランス政府は、ドゴール将軍通りのセーヌ河より西方の地区で再開発を行い、周辺に広がるナンテール平原整備に着手することを検討していた。これによって、デファンス地区の再開発を同意、整備区域を指定したのを機に、1958年E.P.A.D(デファンス地区開発公社)を設立して、事業が推進されることとなった。

観光スポット位置図
観光スポット位置図

(1)計画の概要

デファンス地区はセーヌ河を隔て、パリの中心コンコルド広場から約4km西方、ループ宮殿、シャンゼリゼ通りそしてエトワール広場を直線で結ぶ延長上にあり、この地区は、プュトー、クールプヴワ、ナンテールの3コミューン(基礎的地方公共団体)にまたがっている。

ここは、古くから交通の要所で、かつ産業の中心であったが、パリの広域拡大の影響によりスプロール化、中小工場群や老朽化した住宅群が混在し、環境水準が低下していた。

デファンス再開発計画の方針は、地区の状況を改善するとともに、首都圏機能の拡大発展をめざして、この地区にパリの散在する中枢機能を集約し、あわせて、その移転跡地を整備することにあった。そして、このことによってパリ旧市街地の都市機能を回復・再生させることであった。

更に、パリの都市中心軸の延長線上に、国際的レベルの業務地区を創造することによって、’92年欧州共同体(EC)の統合に向け、その主導権確保のための力の誇示の一環としての期待がこめられていた。

このような大前提のもと、地区整備がかかえる基本目標は、

  • 都市機能の秩序化
  • 交通事情の改善
  • 業務施設のみならず、商業・文化・教育・行政施設を加えた新しい活動的な都市の創造

といった点である。

(2)土地利用

計画全体のゾーンをA・Bの2つに分けている。ゾーンAは業務施設を中心にループ状の道路網に囲まれた面積160haの地区である。この地区はほぼ完成し、業務ビル26棟、高層住宅7棟これに鉄道、街路等の構成で、業務施設(事務所)の床面積は155万m2、商業施設は30万m2(欧州最大規模のショッピングセンターがある)、住宅戸数6,300戸である。就業人口は100,000人、居住人口は20,000人である。

一方、ゾーンBは住宅主体とした面積600haの地区で、現在事業中である(工事完成は2007年の予定)。この地区は、10万本を植樹する25haのアンドレ・マルロー公園を中心に、円筒型の高層住宅、美術館、大学、スポーツセンター、行政施設そして業務ビルの構成となっている。

特に、ゾーンAの土地利用の特色を整理すると次のとおりである。

  • 3層の高速道路インターチェンジの設置
  • R.E.R(地下高速鉄道) やバスなどの交通拠点と巨大な駐車場(ダル内)の設置
  • 屋内道路と商業施設の連結(ダル内)
  • 地域冷暖房施設等の共同溝の設置
  • 各ビルヘのサービス施設としてのツインデッキ(二重床構造の人工地盤)の導入
  • 5〜10階程度の住居の導入
  • 高層巨大ビル(パリ中心部は凱旋門より高い建物を建てられない)
  • ダル(人工地盤)の導入による歩車道の完全分離
(3)交通システム

この地区の交通システムは、立体的に構成された鉄道、自動車道路網と、緑地、商店街、あるいはダル上部広場等の歩行者専用道路に分離され、さらに自動車道路網は機能別に3種の道路(高速道路、国道)に区分されている。また、各種施設の利用へ巨大な駐車場が確保されている。

これを可能にしたのがダルの導入といえる。

ダルの規模は約25ha、延床面積は約70haで、約1,200m×200mの大きさである。面状、5層の形態を成し、下部は高速鉄道等の交通施設や広場、通路等の歩行者専用空間を、最上部は主に歩行者空間の確保を可能にした。また、最上部の一部には中層の商業、宿泊施設や業務施設も建設されている。

(4)開発主体

この開発主体はデファンス地区開発公社(E.P.A.D)である。区域内の土地は、まず国が収用し、そしてE.P.A.Dに与えた。このE.P.A.Dは公共的な権限を付与された機関であるが、政府直属の機関でないので、商業的、産業的な活動ができるようになっている。これによって、自分の土地を企業に売って資金調達するという独立採算方式で運営されている。この特有な状況は、ショッピングセンターなど人工地盤の上部施設の建設に際して見られる。それは、人工地盤の土地の権限は公社が所有し、上部利用の権利を民間が買うという具合いである。このような方法で、色々な所有形態が混じりながら、開発が進められた。

(5)建築、景観

1966年初めて高層ビルが姿を現してから、業務機能を備えた高層建築が相ついで、パリの空にそびえ立った。住宅も、12階から14階建てと高層アパートが建築された。こうした光景は、パリで見られない異様な一つの建築群を成し、パリのスカイライン、景観を損うものだという声が出始めた。

この声を反映するかのように、1970年代、経済条件が悪くなり、第一次オイルショックを迎えると、これまで建築されたものに対し、経済効率の追求やエネルギー面で見直されるようになった。建築は多様化の方向となり、高さも低く押さえられるようになった。1980年代になると、パリにおいて新しい建築活動がここだけに認められたために、民間企業が投資して貸すという民間投資活動が活発になっていった。

(6)グランド・プロジェクト

フランス革命200周年を迎え、21世紀へ向けた9大プロジェクトとして、1982年、当時のミッテラン大統領により、グランド・プロジェクトが発表された。この中の1つとして、ラ・デファンス地区に「アルシュ」(新凱旋門)を建設した。

4 考察

今回の視察を通して、まちづくりについて日本と欧州を比較しながら、考察する。

4−1 街に対する帰属意識

歴史を振り返ると、中世に他民族による侵略が多かった欧州においては、城あるいは精神的な拠り所である教会が街の中心でありシンボルであった。市民は城壁内で生活し、身分の区別があったとしても、戦時には一致団結して戦い、街を守っていた。なぜならば、城(街)が制圧されることは、そこに生活する者の死を意味するからである。そのため、住民同士の結びつきが非常に強かったと思われる。

これに対して中世の日本では、街は城を取り巻くように形成されていたが、城内に暮らす者はごく限られた身分の者で、身分の低い者は城内に入ることさえも許されていなかった。他民族に侵略されることがなく、城が攻められるとしても、それは同一民族による権力争いのためであって、たとえ城主が変わっても、市民の暮らしが一変するということはなかった。身分の違いが生活空間の違いとなり、血縁など同一身分との結束は堅いが、同じ街に暮らしていても、身分差間における互いの連携意識は希薄で、生活空間としての街に対する意識は乏しかったと思われる。

4−2 建築物に対する考え方

欧州では地震がないため、建築物は石やレンガで造られ、100〜150年の耐用年数があり、内部の改築を重ねながらその役割を果たしている。また、持ち家に対する執着があまりなく、それぞれのライフスタイルに合った家を借りて生活するのが一般的である。イギリスでは、一生のうち平均5回は引っ越しするらしい。

これに対して日本の家は、木造であるため一般的に耐用年数が短い。また、持ち家に対するこだわりがあり、自分の家を持つことが人生の目標のようになっている。また、建物はだいたい30〜50年ごとに建て替えられるため、都市景観に対する規制がなかったこれまでの日本では、その時代の建築の流行や、快適さを求めることになり、結果として、景観の統一がとれていない。アメリカを手本として高度経済成長を遂げた日本では、残念ながら街並みを考える状況にはなかったと言わざるを得ない。

欧州では、100〜150年前以上の建築物が、人々に世代を超えて精神的充足感ややすらぎ、うるおいを感じさせるものとなっている。日本での景観を考えた場合、今から100年前、1900年代当初は、明治・大正・昭和の初期にあたり、日本各地で景観の整備・保全に成功している地区には、必ずこの時代の建築物あるいはそれ以前の建築物が残存し、それを中心に整備をしている。過去の歴史的建造物やシンボル的建造物と現在の建築物との調和はとても難しいことであるが、家の色や高さ、外観、広告等は、創意工夫により充分調和させることができるはずである。

4−3 市民参加のまちづくり

欧州でのまちづくりに対する市民参加をみると、ローテンブルクにおいては、1910年の都市景観条例が制定される以前からであり、日本での都市景観条例の制定はごく最近であることから、約100年遅れということになるが、決してできないことではない。

ドイツでは、侵略者から身を守るため城壁を作り、共に生きるという気持ちが日常生活を通じて自然に育まれてきており、『街が市民を守る=市民が街を守る』という意識が、街を大切に思う心に繋がっていったと思われる。

最近では日本でも、住民の意識が『生活者である自分たちが、自分たちの街をつくる』という風に変化しつつあり、この意識が住民に広く浸透することが必要であるが、行政の意識や対応も変化しなければ、決して良い方向には向かわないと言える。

(執筆者の所属、役職等は発表当時のものです)

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