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「生ける神」の思想的背景について 〜復興と鎮魂の祈りを込めて〜

研究部長  田 朋男

1.プロローグ

県庁北別館前にて撮影
県庁北別館前にて撮影

稲むらの火の館からの提供
稲むらの火の館からの提供

威風堂々たる銅像である。

いつも何気なく、通り過ごしているが、あらためて見上げてみると、見るものに迫る存在感が伝わってくる。ここは、県庁東門近くにある濱口梧陵翁の銅像前である。

郷土が生んだ尊敬する偉人“濱口梧陵翁”のことを思うとき、私には腑に落ちない事柄が一つあった。一言で言うと、彼は、何故、巨額の私財を投げ打ってまで「あのような社会政策的な取り組み(人命救助のための広村堤防の築堤、多額の寄付による医学への貢献、人づくりを行うための教育活動)」を行ったのか、ということである。このことが私には不思議でならなかった。

その尊い行いの奥に、どんな思想的背景があるのか、あるいはないのか。長年、それが分からないので、不思議な思いを抱いていたのである。津波による悲惨な実体験が、強い思いとなり、行動を支えたとも思えるが、果たしてそれだけなのだろうか。もしそうであれば、医学研究等への多額の寄付や人づくりのための教育活動の行動は、どう説明するのだろうか。

この首尾一貫した「済世救民」の実践は、単なる思いつきで出来るものではないと思う。心に秘めた深く固い信念があってこそ、初めてできることではないだろうか。

例えば、キリスト教の熱心な伝道で有名であったアルベルト・シュバイツァーやカトリック教会の修道女であったマザー・テレサなどは、宗教的な思想を背景に医療活動や救民活動を行ったことが広く知られている。では、浜口梧陵翁の行動には、どのような思想的背景があったのだろうか。

2.「稲むらの火の館」にて

数年前、家族で「稲むらの火の館」を訪れた時のことである。展示室に梧陵翁の生い立ちから晩年までをたどるコーナーがあり、ふと何気なく展示物を見ると、そこに謎を解く鍵を偶然みつけたのである。私は「やはりそうだったのか」と思わず唸ってしまった。そして私の中で、全てが氷解したのである。

即ち、その展示物の解説には、濱口梧陵翁の思想的背景が何であったか、示されていたのである。そこには、「知行合一の人 濱口梧陵」と書かれていた。そしてその解説は次のようなものであった。

「知行合一」とは「知ること」と「行うこと」は別のことではなく、真の知識は実践を伴うものだということ、「知」と「行」はその源を同じくするものであるという儒教の教えの一つ。梧陵は若いころより学問の先駆者と交わり、書を読み、何事においても率先垂範して行動することが大切であると学びました。数々の偉業の根底には、こうした「実際」「事実」を重んずる学問への姿勢と「知行合一」の精神が貫かれていました。
知行合一の人 濱口梧陵
知行合一の人 濱口梧陵
(稲むらの火の館にて撮影)

「知行合一」とは、陽明学の根本思想の一つで、同じ儒教の中でも、朱子学にはない考え方である。朱子学は、一般的には「万物の理を窮めてから実践に向かう」(知先行後)という知識優先主義的なところがあるのに対し、陽明学では「知って行わないのは、未だ知らないことと同じである」とし、「真に知るということは、必ず実行を伴うもので、知と行とは表裏一体で別物ではない」(知行合一)とする。一見すると、実践優先主義に思えるが、認識と行動(あるいは体験)の一致を求めているという事である。路傍に咲く一輪の花を美しいと感じて見るときには、すでに好んでいるのであるから、「知」(=認識)と「行」(=体験)は一体不可分のものであり、分離しているものではないと説く。

先ほどの解説文を見ると、儒教の教えの一つとしか書かれていないが、明らかに陽明学のことを指している。濱口梧陵翁がいつどこで誰から学んだのかは示されていないので不明であるが、「知行合一」(=陽明学)のとの指摘は、その多彩な業績から言って、まさに“合点”のいくものである。

梧陵翁に造詣の深い清水勲氏への取材の際に、濱口梧陵翁は、いったい誰から陽明学を学んだと思いますかと尋ねたところ、清水勲氏の見立てでは「特に誰からとういうのではなく、濱口翁は、幕末の維新の頃の人であり、陽明学が浸透・普及していた時代だったので、影響を受けたのではないか」というものであった。また、稲むらの火の館の熊野館長に同じ質問をしたところ、この館の展示物の解説は、杉村広太郎氏の「浜口梧陵伝」に依拠していると説明されたので、後日図書館でその著書を閲覧したが、残念ながら具体的な記述は見当たらなかった。

では、陽明学との指摘を有識者がしていないのかと言えば、そうではない。「濱口梧陵と医学」の著者の川村純一氏は、「梧陵の信条」と題して次のように述べている。

梧陵の信条
そもそも梧陵は青年時代から「経世済民」の実践、すなわち「自他の区別を克服して天下万民の困苦を救済せん」を志として生きてきた。この思想は人も含めて万物は根元が同じであるとの考えから、他者の苦しみは自らの苦しみであり、それを癒そうとするのは自然であるという陽明学に基づくものである。特に梧陵が嘉永六年(1853)、三四歳で家督を継ぎ、ヤマサの当主第七代目儀兵衛を名乗ってから、明治三年(1870)五一歳で家業を八代目梧荘(養子幸三郎)に譲るまでの一八年間は梧陵が最もその志を貫き通し、我が身を削って世の中に尽くした時代であったといえる。

やはり陽明学が思想的背景にあるとの指摘である。特に、陽明学が社会救済の根拠としている「万物一体の仁」のことに触れている。梧陵翁が行った「社会政策的な取り組み」、即ち、人命救助のための広村堤防の築堤、多額の寄付による医学への貢献、人づくりを行うための教育活動は陽明学の「万物一体の仁」と「知行合一」から生まれたものであると捉えることができる。

≪有識者の声の欄≫
稲むらの火の館 館長 熊野享氏のコメント

儒教以外にも、浜口梧陵の思想としては、商人目線からでてきた郷土愛が重要な位置を占めていると思う。もし武士であれば、上から目線で、あのような経世済民は難しかったのではないだろうか。
この館は、当初、年間入場者数一万人が目標であった。特に、東日本大震災以後、入館者数が大幅に増加し、23年度は、4万6千人の入場者があった。
入場者の50%は大阪方面からで、最近は名古屋方面からも結構多い。大阪方面からの入館者は主に日帰りで、名古屋方面は白浜で宿泊するケースが多い。
団体客は10月、11月に集中してやってくる。家族づれは、子供といっしょに学習する姿勢が見られる。特に、5年生の国語の教科書に取り上げられてから、一度現地に行こうというケースが目立つ。
また、入館者の三分の一は、実際に広村堤防を視察して帰宅している。ちなみに、入場者数の推移は次のとおりである。
H19年度 30,906人、H20年度 26,566人、H21年度 21,317人、H22年度 20,490人、H23年度 46,519人
耐久大学 学長 清水勲氏のコメント

浜口梧陵が私財を投げ打って、堤防を造った話を小学生などにする場合、築堤費用が銀94貫と言っても、分からないので、人足延べ五万六千七百三十六人だったので、日当一万円で換算すると約5億6千万円の私財を使ったことになると説明している。

3.「生ける神」の思想

元総理大臣であった橋本龍太郎氏(故人)は、司馬遼太郎の小説の中で、「峠」を一番の愛読書にしていた。その「峠」の主人公は、長岡藩の河井継之助である。橋本元総理は、自分の政治人生と重なり合わせ、おそらく河井継之助の生き様に共感を覚えたのであろう。
河井継之助は、司馬遼太郎をして「幕末期に完成した武士という人間像は、日本人がうみだした、多少奇形であるにしてもその結晶のみごとさにおいて人間の芸術品とまでいえるように思える。その典型を越後長岡藩の河井継之助にもとめたことは、書き終えてからもまちがっていなかったとひそかに自負している。」と言わしめたほどの人物である。
また河井継之助は陽明学の徒としても有名である。これは、備前松山藩の山田方谷から学んだとされる。当時、山田方谷は、松山藩の藩政改革で全国に名を留めていた。その噂を聞いて、河井継之助が会いに行くのである。そこで目にしたものは民から“神のごとく”慕われていた山田方谷であった。その行いと精神の高貴さゆえのなせる業である。

調べてみると、山田方谷と佐久間象山は、いずれも佐藤一斎(朱子学・陽明学)の門下生で、“二傑”と称されていたという。そして、濱口梧陵翁は、三十一歳の時、佐久間象山に弟子入りしている。またその際、勝海舟と知己を得た。この佐久間象山は、陽明学に造詣が深かったとされている。
例えば、陽明学の系譜につながる人物を挙げると。中江藤樹、熊沢蕃山、大塩平八郎、吉田松陰、西郷隆盛、佐久間象山、勝海舟、山田方谷、河井継之助、渋沢栄一、東郷平八郎、安岡正篤などである。
これはあくまで私の推測であるが、このように佐久間象山も陽明学を学んだ系譜に属しており、この佐久間象山から陽明学の何たるかを会得したと考えられないだろか。
前述の清水勲氏の洞察力あるご指摘のとおり、梧陵翁が生きた時代背景を考えると、黒船の来襲から始まる激動の幕末期に青壮年期を迎えている。この時代は朱子学でなく陽明学を求めていた。それゆえ、指導者層に共通した価値観としての陽明学(基礎的な知識)を十分身に着けていたと考えられるが、信条となるまで吸収していたとは考えにくいのではないだろうか。それよりは、碩学泰斗の人物から直接学ぶに如かずと思えるのだが。

師弟関係図

4.「復興」に寄せて

不思議なことに、山田方谷と同様、濱口梧陵翁は、「神のごとく」村民から尊崇されていた。その証拠に、村民は彼を濱口大明神として祭り上げようとしたが、彼は堅く固辞したと伝えられている。また、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、濱口梧陵翁を称え、短編小説で「生ける神(A Living God)」と称賛している。「知行合一」の二人は、場所こそ違うが、いずれも神のごとく慕われていた。

さらに不思議なことに、濱口梧陵翁と同じく、実業人にして慈善活動(日本赤十字社の設立など多数の功績がある)に未曽有の足跡を残した渋沢栄一も、陽明学の思想に影響を受けたと言われている。日本を代表する実業人にして慈善事業家の二人が、ともに陽明学を思想的背景に有していたことになる。渋沢栄一は、一般的には山田方谷の影響であろうか、「論語と算盤」で有名であるが、その「済世救民」は本物である。関東大震災後の復興のために寄付金集めに奔走したと言われている。

最後に「復興」を考える時、自らを省みて“絆”とともに日本精神の顕れとも思える「知行合一」も忘れてはならないと思った。

(参考)事績データについて

1.防災・減災対策の事績
1854年 安政大地震の津波の際「稲むらの火」を掲げ村民救済。
(津波がおさまった後、梧陵は村人の救援活動にかけまわった。まず応急対策として、自分の家の米をすべて放出し、足りない分は隣村の寺から米を借り受け、にぎり飯を被災者に配った。さらに不足してくると、深夜、隣村の庄屋を訪ね「一切の責任は自分が負うから」という条件で米50石を借り受けた。梧陵は休む間もなく食糧確保に努めた。)
(さらに、梧陵は物資の輸送に必要な道路や橋の修復工事を手掛けた。同時に、村人の住む家を確保するために、流出した家財を集めたり、私財を投じて家屋を建てたりして貧しい人に無料で住まわせたりした。また、津波被害の直後から、村人の衣食住を確保するために私財を投入するだけでなく、近隣の資産家に寄付をよびかけた。)
1858年 1855年から築堤を開始した広村堤防完成。
(郷土史の書物「人づくり風土記 ふるさとの人と知恵 和歌山」によると、人足延べ5万六千七百三十六人、費用合計約1370両という大工事。)
(当時、良質の作物が採れた田畑は、村人たちの藩への重い年貢の対象となっていた。津波による塩害で、年貢の負担だけが残った田畑を堤防の敷地にすることで、藩の課税対象から外す交渉をした。その結果、租税免除も兼ね備えた防災対策事業であり、失業対策事業でもあった。)
2.教育面での事績
1852年 広村に稽古場(私塾)を開設する。
(私財を投じて剣道と漢学を教える稽古場(私塾)を創設する。後に「耐久社」と命名。)
1866年 広村稽古場を耐久社と命名。
(1908年、中学校令により、耐久学舎が私立耐久中学校と改称される。)
1869年 藩校学習館知事に就任し、学習館の改革を行った。
松山棟庵とともに共立学舎設立に奔走する。
(紀州出身で福沢諭吉門下の松山棟庵が和歌山に帰って藩立の共立学舎という英学校を作った。)
1878年 自修舎維持のために尽力する。
3.医学面での事績
1858年 江戸に関寛斎(幕末から明治時代の蘭方医)を送り、コレラ防疫にあたる。
1859年 種痘館再興のため三百両を寄付。(郷土史の書物「人づくり風土記 ふるさとの人と知恵 和歌山」によると、種痘所は再建され、江戸町民に接種を勧告するなどの活動をした。)
1861年 医学研究費用として西洋医学所に四百両を寄付
(郷土史の書物「人づくり風土記 ふるさとの人と知恵 和歌山」によると、この西洋医学研究所が、現在の東京大学医学部の出発点となった。)
4.政治面での事績
1868年 抜擢され紀州藩勘定奉行となる。
1869年 和歌山藩小参事となる。(翌年には、和歌山藩権大参事になる。これは、各府県の知事を補佐する役職。)
1871年 新政府の駅逓頭(初代郵政大臣)となる。同年、和歌山県大参事となる。
1879年 和歌山県初代県議会議長となる。同年、国会開設建言の惣代となる。

出典

  • 「津波とたたかった人  浜口梧陵伝」戸石四郎著(新日本出版社)
  • 「江戸時代 人づくり風土記 30 和歌山」社団法人農山漁村文化協会 企画・発行
  • 「稲むらの火の館」のホームページ
  • 「浜口梧陵伝」杉村広太郎編
  • 「浜口梧陵と医学」川村純一著(崙書房出版)
  • 「文藝春秋」1996年5月臨時増刊号“特集 司馬遼太郎の世界”
  • 「峠」司馬遼太郎著(新潮社)
  • 「陽明学と偉人」佐藤庄太著
  • 「日本における陽明学の系譜」安藤英男著(新人物往来社)
  • 「陽明学派の人物」石崎東国著
  • 「陽明学がわかる本 〜武士道の源流〜」長尾剛著(PHP研究所)

(2012.9)
(執筆者の所属、役職等は発表当時のものです)

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