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郷土の偉人列伝 〜見えざる縁(えにし)の糸に結ばれて〜

研究部長  田 朋男

1.忍び難きを忍び、耐え難きを耐え

※「無門関提唱」山本玄峰著(大法輪閣)より引用


「忍び難きを忍び、耐え難きを耐え」。

誰もが一度は聞いたことがある一節である。この有名な一節は、終戦の玉音放送で、昭和天皇陛下の口から出た言葉である。

敗戦当時の悲惨で暗澹たる世相から判断して、本当に陛下の心底から湧いてきたようなこの一節は、戦後長らく語り継がれる言葉となった。しかし翻って、この言葉が誰から生まれ出たものかはあまり一般には知られていない。この言葉の生みの親は、知る人ぞ知る郷土の偉人、山本玄峰老師(本宮町湯の峰生まれ)である。山本玄峰老師が当時の首相であった鈴木貫太郎に宛てた手紙から生まれたものだった。『和歌山県史 人物』(発行 和歌山県)には、山本玄峰老師を次のように記している。「終戦時、詔勅にある『耐え難きを耐え、忍び難きを忍び』の文言を進言、新憲法における天皇の地位について『象徴』を示唆したという」。

このエピソードについては後述するとして、山本玄峰老師に纏わる逸話は事欠かない。例えば、山本玄峰老師と言えば、次の逸話がすぐに思い浮かんでくる。

棋界でその名を残し「将棋というゲームに寿命があるなら、その寿命を300年縮めた男」と評された升田幸三氏が、ある著名人の葬儀に参列した時のことだった。もともと升田氏は、天才肌で自分の目で見たものしか信じない、動物的な第六感を有している人であった。大勢の参列者が席につき、静寂の中、何人か僧侶たちが弔いの読経のため祭壇に向かって中央の通路をゆっくりと前に進んでいく。その時、一人の僧侶に升田氏の目がとまった。その身のこなし、歩み方に目を奪われていると、すべてに隙がなく、これはただ者ではないと悟った。その僧侶こそ、白隠禅師(江戸時代の臨済宗の名僧)の再来とまで言われた山本玄峰老師その人である。その後、升田氏は山本玄峰老師に弟子入りした。後年、この出来事を新聞紙上において述懐している(以上は私が当時の「朝日新聞の特集記事」を思い起こして記述した。また、白隠禅師は臨済宗中興の祖と称され、「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とうたわれた)。

ほとんど語られることがないが、山本玄峰老師は、戦前・戦中・戦後を通して、臨済宗という宗派を超えて、日本という国の行く末に大きな影響を与えた稀有の人物だった。敗戦末期の頃、鈴木貫太郎、米内光政、吉田茂、岡田啓介、迫水久常、入江相政、池田成彬等々の日本の指導者たちが日本の針路に悩み苦しんでいた時、高い見識からの教えを請いに訪れたと言われている。そして、田中清玄を介して“敗戦”(老師は“終戦”という言葉を認めなかった)に向けて、日本の進むべき針路を指し示し、見えざるところで極めて大きな歴史的な行いを成した人なのである。

その山本玄峰老師は生前『無門関』を愛し、『無門関提唱』(大法輪閣)を著し、禅の神髄を披歴している。禅宗(臨済宗)には、三大公案集、即ち『臨済録』、『碧巌録』そして『無門関』があり、江戸中期まではその中でも『碧巌録』が代表的な公案集として尊重されてきた。しかし江戸中期の白隠禅師が『無門関』の“趙州無字”や“隻手音声”を尊重したことから、それ以来『無門関』が第一の公案集となった。そしてこの『無門関』を日本の請来させたのが、誰あろう、由良の興国寺の開祖である心地覚心、後の法燈国師である。このことは、残念ながらあまり世に知られていない。言うまでもなく、請来したかしないかで、後世に与えた影響が大きく違ってくる。それゆえ、禅は言うに及ばず日本の思想形成にとって、非常に重要な事柄であった。この随筆においては、これらのことについて触れていきたい。

2.『無門関』の“無”とは

ある僧が趙州和尚に問うた。

「犬に仏性あるやなしや」と、和尚曰く「無」。

これは有名な『無門関』第一則の“趙州無字”の公案である。臨済宗には、前述したとおり『碧巌録』『臨済録』『無門関』の三大公案集があり、この中でもっとも権威があるといわれているのが、『無門関』である。しかもこの『無門関』四十八則中、もっとも難解と言われているのが“趙州無字”の公案である。「一則通れば万則通る」という禅の世界の格言があるが、この“趙州無字”の公案を指していると思われるほど重要な地位を占めている。本来はある境地に達し、一つの公案が通れば、他の公案もすべて通ることを述べているだが、この公案さえ通れば、あとの公案はすべて難なく通るという譬えのように聞こえる。「禅」と言えば「無」と即座に想起するのも、この公案の影響からだろう。それほどすべての公案の中で、もっとも有名でかつ難関な公案として広く知れ渡っている。

“趙州無字”の問答に戻ろう。仏教の教えでは「一切衆生悉有仏性」(一切のものは仏の性質がある)が常識の中、ある僧が其のことを知りながらこの質問を行った。それに対して趙州和尚が「無」と答えた。これは明らかに、仏教の教えと矛盾することになる。それではこの「無」とは一体何かというのがこの公案である。臨済禅では、趙州和尚はこの「無」にどのような意味を込めたのか、それを口頭ではなく、全人格を持って回答しろと問われる。この公案に答えるためには、論理整合性を持って対処すべきでない。何故なら、禅は論理ではなく全人格における実体験からの回答を重視すると考えられるからである。具体的に言うと、犬には仏性があるという仏教の教えからすれば、当然、答えは「有」に決まっている。それを敢えて、「無」と答えた意味は、論理では見いだせない。換言すると、座禅を重ねて思案に次ぐ思案の末、心の奥の奥底からにじみ出るような考えを引き出せというのである。師との真剣勝負である。いわば揚棄するしかない状況を追い込まれて、“窮鼠、猫を噛む”状態から殻を破り「悟り(本来持っている本性である仏性)」を導き出すのであろう。

そして、この無門関の「無」という公案が、西田幾多郎のいわゆる“西田哲学”に影響を与えたと言われている。西田哲学は、西田幾多郎がこの哲学を完成させる過程で、金沢と京都において参禅を繰り返し行い、禅の思想を取り入れながら完成させたのである。まさに西田幾多郎の生涯は、松岡正剛氏が述べているように「禅にひそむ『無』に向かい、『無』を哲学し、『無』に投企するための人生」であった。そしてこの「無」の境地から「純粋経験」や「絶対矛盾的自己同一」という哲学用語を生み出すに至った。この西田哲学の「無」こそ、この『無門関』の第一則を指している。そしてこの『無門関』を当時の宋国から、持ち帰ったのが、心地覚心(法燈国師)である。後世に大きな影響を与えた書物を心地覚心がもたらしたとは、ほとんど人が知りえない事実であろう。さらに、この『無門関』をもっとも好んだ禅師が山本玄峰老師であることも、あまり知られていない。それゆえ、山本玄峰老師と法燈国師は、同じ紀州の地で時空を超えて、いわば見えざる法縁の糸に結ばれた関係にある。

そして、もし仮に『無門関』が請来されていなかったら、白隠禅師はどうしたのだろうか。そして西田幾多郎の「善の研究」は現在のような思想形成となっていたのだろうか、そう考えると、『無門関』の大きさを感じざるを得ない。

3.興国寺と心地覚心(法燈国師)

興国寺の山門
興国寺の山門

書院の庭
書院の庭(中央に盆栽松と庭石が見える)

ある日の事でございます。お釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶらお歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂いが、絶え間なくあたりへ溢れて居ります。極楽は丁度朝なのでございましょう。

興国寺の書院にある庭へ行く度に、この芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の冒頭の一節を思い浮かべてしまう。ちょうどここに表現されている雰囲気とどこかよく似たところがあるせいだろう。この鷲峯山興国寺は由良の開山とも呼ばれ親しまれているが、一般には馴染みの薄い寺であるため、書院の庭も広く知られることなくそれ相応の評価が下されたことは稀である。

しかし、私はこの庭の前に立つと、いつも心が休まる。この庭園の“心字の池”には前掲の文にあるような蓮の花が咲き、その花の下を鯉が群れなして泳いでいる。そして鯉がぶつかりあった拍子に、尾が水面上を叩くため、時々ピシャピシャという音がする。その鯉につられて池の周りをぐるりと一巡すると、その場その場で庭と寺院建築の織り成す趣が、ゆっくりと変化していく様が手に取るようにわかる。庭園と寺院建築が相互に作用しながら、一つの「空間」を形作っている。まさに仏教の世界である。

また、この庭園を書院から眺めると、正面にある盆栽でこしらえたような松が実に素晴らしい。この松は骨太で、背が低く、味のある恰好をしているために、いち早く訪れる人の目を引いてしまう。そしてもう一つは、この松だけでなく、松を助ける役目を果たしている庭石が物を言っていることだ。それはすぐ右横にどっかりと座っており、この松をより一層ひきたたせ、印象深く焼き付けてしまう効果を持っている。ちょうど盆栽の世界の松と岩の組み合わせである。思うに、この松と庭石−座禅石が、この庭園全体のキーポイントになっていることだ。背後にある心字の池、池の周りの座禅石、中腹にある枯山水、この庭園全体を取り囲む山峡が、この盆栽松を軸に見事に“自然の持つ妙味”を表現している。・・・・・・・・最後に、この「関南第一禅林」鷲峯山興国寺を称して「紀に興国寺あり」と白隠禅師が言われたが、この言葉に敢えて私は付け加えたい。「紀に興国寺の庭あり」と。

法燈国師坐像
法燈国師坐像

(ただし平成25年3月15日に訪ねた際、“盆栽松”は十数年前に枯れて撤去され、蓮もなく、池の“鯉”も鳥獣被害で今は泳いでいなかった。寂しいかぎりである。)

以上は、私が三十数年前に訪れた際に、筆を執った紀行文の一節である。この由良の興国寺を開山したのが、他ならぬ「心地覚心」である。そしてこの庭園の左奥に法燈国師坐像(重文)が安置されている開山堂の甍の一部が見える。この坐像は法燈国師八十歳の寿像と伝えられている。

私事であるが、数十年以上前に一度、この坐像を拝顔する栄に浴した。開山堂に一歩足を踏み入れると、堂の空間は静寂が覆っていた。数十段の階段を踏みしめる音だけが辺りに響き、坐像の周りには厳かな雰囲気が漂っていた。法燈国師が今そこにいるように椅子に安座されていた。そして膝上に両手を深く重ね、高僧の面影とはこういうものかと思った。じっと見つめていると、何か語りかけてくるようであった。その時の様子が残像のように目に浮かぶ。

法燈国師の木像

別掲の「法燈国師坐像」は国の重要文化財に指定されており、解体修理した際、金銅製宝塔や銘文が発見されている。また法燈国師の木像として現在確認されているのは、山形県(海印寺)、福島県(安養寺)、長野県(瀧仙寺)、京都府(妙光寺)、広島県(安国寺)などである。このことから、伝えられているように全国的な信仰の広がりが見て取れる。
無門慧開老師の偈

心地覚心が悟った時の心境を次のような言葉で、無門慧開老師は表現し、その言葉を心地覚心に与えた。「心即是仏・仏即是心・仏心如如・亘古亘今」(心すなわち仏なり、仏すなわち心なり、心も仏も一体のもの、いにしえにわたり今にわたる)

心地覚心の功績を辿る時、葛山景倫を抜きにしては語れない。葛山景倫は、鎌倉幕府三代将軍である源実朝の近習で幕府の中枢に仕えていたようである。そして源実朝は自ら渡宋(当時の中国は南宋時代で禅宗が全盛期を迎えていた)の念が捨てがたく、近習の葛山景倫に渡宋の夢を託した。しかしながら、葛山景倫は渡宋する直前、実朝の訃報に接し渡宋を断念した。高野山に登り剃髪、「願性」と名乗って実朝の霊を弔った。その忠勤を知った実朝の母・尼将軍政子は、高野山での生活の糧として由良荘の地頭職を与えたと言われている。そして1227年、三代将軍実朝とその母・政子の菩提を弔うため、荘内に西方寺を建立した(現在の興国寺の位置)。創建時には、明恵上人(華厳宗)が落慶の導師を勤めて寺号を撰び、道元(永平寺開山、曹洞宗)が額に書いたと伝えられている。従って、実朝と母・政子の菩提を弔う真言宗の寺院として、鎌倉時代の初期、興国寺は出発した(実際、境内に源実朝公の墓がある)。

願性は高野山の金剛三昧院に僧籍を置いていたので、やがて同じように籍を置いていた心地覚心と知り合い、親交を深めていくこととなる。そして願性の支援により入宋し、願性に請われて真言宗から禅宗に改められた西方寺の開山となった。

心地覚心は、長野県松本市の生まれで十九歳で剃髪、東大寺において具足戒を受けた。その後、高野山に登り密教や禅などを学び、三十六歳の時には京都で道元から菩薩戒を伝授されている。四十三歳の時、博多より宋の船に乗り入宋を果たした。はじめ径山興聖万福禅寺で二年有余留まった。この時、径山寺味噌の醸造法を習得したと言われている。その後、日本僧である源心に会い、無門和尚が一代の明師であると聞く。こうして杭州護国寺を訪ね無門慧開老師と出会う。その時、老師との有名な問答により大悟し、たちまち印可を得たといわれている。護国寺を辞する際、無門慧開老師より『無門関』『月林録』の著書や頂相(無門の画像)、袈裟などを授けられた(いわば正統な後継者である)

その後、願性に懇請され西方寺(現在の興国寺)の開山となられ、名声高まり心地覚心を慕って師事する学僧あとをたたず「千余の学僧堂塔にあり」と伝えられている。紀伊、伊勢、志摩を中心に末寺一四三カ寺を数えるに至り、臨済宗法燈派大本山の名も広まって「関南第一禅林」と称されるに至ったという(関南とは箱根より南の意)。

七十五歳の時、亀山法皇のお召により禅要を説かれ、南禅寺の開山に請うぜられたが、固辞し由良に帰られたと伝えられている。亀山、後宇多、後伏見、後醍醐と歴代天皇の尊信も厚く、亀山法皇からは「法燈禅師」号を、後醍醐天皇からは「法燈圓明国師」号を勅謚され、そして後村上天皇が遷化四十二年後、興国寺号を追贈された(このことにより創建時から興国寺と称されることとなった)。歴史に「もしはない」が、心地覚心が京都を拠点に宗教活動をしていたら、間違いなく栄西・道元と並ぶ日本を代表する名僧との評価を得ただろう。

径山寺味噌と醤油

心地覚心が入宋し、径山寺にあって修業中、味噌の醸造法を習得され、帰朝後、西方寺でいろいろと工夫をこらして試醸され、湯浅の水が最適であることに着眼されたという。そして槽底に沈澱した液で食べ物を煮ると美味だったことから、これよりさらに工夫をこらして醤油を醸造したと伝えられている。
普化尺八と虚無僧

心地覚心は普化尺八の始祖と言われている。宋より尺八の名手である法晋ほか三名を伴い帰朝された。そして弟子たちにより普化宗に発展し虚無僧により全国に広められた。興国寺の鈴木副住職からは「虚無僧の発祥の寺になっているが、尺八を吹くときの息が座禅を組んで吐く息とちょうど同じであることから、禅の修業の一環として、中国から普化尺八を吹ける四人の居士を連れて帰ってきた」と説明された。

4.山本玄峰老師の“象徴天皇”の逸話

平成25年3月15日、興国寺を訪ね、鈴木副住職から山本玄峰老師に関する貴重なお話しを聞かせていただいた。

「山本玄峰老師は青年の頃、目が不自由になり、親に迷惑をかけないでおこうと、自殺しようと思ったらしい。しかし母親が悲しむので、それはできない。それで四国の八十八カ所巡りで行き倒れになれば、親にも迷惑をかけず、死ねると思った。そして四国八十八か所巡りの途中で行き倒れになり、偶然、山本太玄和尚と巡り合い、禅に入門することになった」。

そして、その入門に際して行われた問答があまりにも有名である。山本玄峰著『無門関提唱』 (大法輪閣)より引用させていただくと。

師弟の間に次の如き問答あり。
「お坊さんになりとうございます。」
「お前は、そうなる人間だろう。」
「しかし、ご覧の通り、私は失明同然。字も識らず、お経も読めません。こんな人間でもお坊さんになれましょうか。」
「普通のお坊さんにはなれんが、覚悟次第で、本当の坊主にならなれる。」

この随筆の締めくくりとして、巻頭で触れた「忍び難きを忍び、耐え難きを耐え」及び象徴天皇についての逸話について、臨場感が溢れている帯金充利著『再来 山本玄峰』(大法輪閣)から引用させていただくこととする。

玄峰は、昭和二十年三月二十五日に鈴木貫太郎(海軍出身)に会った。鈴木の「合いたい」という希望を受けて、赤坂の内田博士(眼科医で玄峰の信者)の邸宅に出かけて行ったのである。そこで玄峰と鈴木の間に交わされた会話は次のようなものであった。

鈴 木 老師、今日はわざわざお越し下さってありがとうございます。日本は今、国が滅びるような危機です。『武人政権をとって国興った例しなし』と古人が言う通りです。私は武人政治には反対です。
玄 峰 力で立つ者は力で滅びる。金で立つ者は金で滅びる。徳をもって立つ者は永遠なりです。あなたは徳がおありだから、徳をもってお立ちなさい。
鈴 木 今は武人が政権をとって、国は累卵の危うきにあります。政権を一刻も早く政治家に渡さなければなりません。老師にお会いしたかったのは、実は今、私陛下から大任を命ぜられようとしています。しかし、私は政治は嫌いです。
『武人、政治に関与すべからず』という明治陛下の御勅語を金科玉条に生きてきた者としては、その信念に反することにもなり、どうしたら良いものか、非常に悩んでおります。
玄 峰 あなたは日常の政治家ではないし、総理になる人でもない。総理になる者は、世の中の悪いことも、いいこともよく知っていて、いいことに尽くすことのできる人です。あなたは純粋すぎる。しかし、今はそういう人こそが必要だ。名誉も地位もいらん、国になりきった人が必要だ。あなたは二・二六で、一度あの世に行っている方だ。だから生死は乗り越えていらっしゃる。お引き受けなさい。ただし戦争を止めさせるためですよ。

鈴木貫太郎は二・二六事件の時、襲撃されて重傷を負ったが一命をとりとめたのだった。それをふまえた玄峰の発言だったわけだが、なんと力強い励ましの言葉だろうか。これで鈴木の迷いがふっきれたことは間違いないところである。この会見から十日余りして、新聞に「鈴木貫太郎に大命降下」という記事が出た。鈴木は総理大臣を引き受けたのである。・・・・・・・そして、ポツダム宣言が出され、それを受諾するかしないかの御前会議が開かれた。賛否は三対三の同点となり、最終的には天皇の決断を仰ぐことになった。・・・・・・この御前会議の頃、玄峰は鈴木に、「これからが大事な時ですから、耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで、体に気をつけながらやって下さい」という手紙を送ったという。この、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」という言葉が終戦を告げる玉音放送に使われたことは周知のことであろう。

また、象徴天皇も山本玄峰老師の助言から生まれた。帯金充利著『再来 山本玄峰』(大法輪閣)及び玉置辨吉編『回想 山本玄峰』(春秋社)にその時のいきさつが詳しく述べられている。憲法改正委員会のまとめ役の楢崎渡氏に山本玄峰老師が助言した。まさに楢崎氏が昭和憲法における天皇の位置づけに困り果てて、老師に助言を求めてきた時の出来事である。ここでは老師の発した言葉を引用させていただき、この随筆の結びの言葉としたい。


「天皇が一切の政治から超然として、空に輝く太陽のごとくしておって、今度は、その天皇の大御心を受けて、真・善・美の政治を実現するということで、眷々身を慎んで政治をすることになれば、天皇がおられても、もっと立派な民主主義国家ができるのではないか。天皇は空に輝く象徴みたいなものだい。」

(稿を終えるに当たり、興国寺の鈴木副住職様には、貴重なご教示をいただき、心から深く感謝申し上げたい。)

参考

(和歌山県田辺市本宮町湯の峰温泉の地に建立されている。)
“玄峰塔”に関する逸話

“字”は、玄峰老師の絶筆である。細字なれば、死の直前まで書けるが、このような大字は力なくては書けない。一年近くも病床におられ、しかも死の二週間前に渾身の力をもって揮毫された絶筆である。この禅定力、精神力こそ、老師不屈の真の実行力によって顕現されたものであり、永らく私達の師表として仰ぐべきお方であることを、今更ながら思い偲ぶのである。そして、この老大師の故郷に建立された不滅の金字塔“玄峰塔”こそ、万人の鑑であることを改めて欣びたいと思う。

『回想 山本玄峰』玉置辨吉編(春秋社)より

出典 及び 参考文献

  • 帯金充利著『再来 山本玄峰伝』(大法輪閣)
  • 玉置辨吉編『回想 山本玄峰』(春秋社)
  • 山本玄峰著『無門関提唱』(大法輪閣)
  • 河原信三著『入宋覚心』
  • 興国寺発行『由良の興国寺』(晃洋書房)
  • 開山法燈国師七百年遠諱奉賛委員会編『鷲峯山 興国寺』
  • 西田幾多郎『善の研究』(岩波書店)
  • 松岡正剛の千夜千冊のホームページ『西田幾多郎哲学論集』

(2013.6)
(執筆者の所属、役職等は発表当時のものです)

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