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植芝盛平翁の深遠な哲理について 〜「知」の巨人と「武」の巨人〜

研究部長  田 朋男

1.「武」の巨人

「最近読んだ本で一番面白かったのは?」と尋ねられて、
「『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』ですね。これにはびっくりしましたねえ。ノンフィクションなんですが、完全に本の世界に引きずりこまれましたねえ」。

『永遠の0』が三百万部、『海賊と呼ばれた男』が上下合わせて百六十万部。このベストセラーの著者である百田尚樹氏が、あるテレビ番組(平成25年6月9日)で、このように答えていた。ベストセラー作家が面白いという本、増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(新潮社)。実はこの本の中で、郷土の偉人である植芝盛平翁(和歌山県田辺市出身、合気道の開祖)の逸話に出会った。この本からコンパクトにまとめて引用すると、それは次のような内容である。

「合気道開祖植芝盛平伝」より引用
「合気道開祖植芝盛平伝」より引用
田辺市扇ケ浜公園にて撮影
田辺市扇ケ浜公園にて撮影

この本の主人公である木村政彦は戦前、戦中、戦後の十五年間不敗のまま引退し「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と謳われた伝説の柔道家である。

講道館柔道の歴史で化け物のように強い選手が四人いた。木村政彦、ヘーシンク、ルスカ、そして山下泰裕。このなかでもっとも強かったのが木村政彦であると関係者の意見は完全に一致しているという。

極真空手の大山倍達も、いつも試合を生で観戦していた。「とにかく技が速い。神技だよ。全盛時代の木村先輩にはだれもかなわない。ヘーシンクもルスカも三分もたないと断言できる」と証言している。

その木村政彦が生涯たった一回だけ負けた相手が天才との誉れが高かった阿部謙四郎である。

木村政彦は自伝に「彼と組み合ってまず驚かされたのは、ふんわりとしか感じられない組み手の力と柔軟さだった。・・・・・かける技かける技、全然効き目がない。・・・相手の技に対して戦々恐々、防戦一方で試合は終わった。結果はもちろん、私の負けである」と述べている。

この木村政彦を破った阿部謙四郎は、実は合気道を習っていたという。その時の逸話がこの本に載っているのである。

夜、試合に向かうため汽車に乗っていた時のこと。阿部の向かい側に髭を伸ばした小柄な老人が座っていた。目が合うと、老人が言った。

「私は君のことを知っているよ」
「わたしは柔道のチャンピオンですから」
「あなたの名前を教えていただけませんか」
「植芝盛平だ」

阿部は植芝の名を知らなかった。植芝は阿部の顔に小指を突き出した。

「この指を折ってみなさい」

阿部はその非礼にいらついて、思いっきり小指を握った。その瞬間、阿部は車両の床に組伏せられていた。驚いた阿部はその場で弟子入りし、その後十年間、合気道を習うことになったというエピソードである。

そして『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』の中で、著者の増田氏は「イギリスに初めて合気道を持ち込んだのは阿部謙四郎だった」というイギリス人合気道家の話を紹介し、この逸話が「脚色なしの真実だろう」と述べている。

また増田氏は、木村政彦がこの敗北に悔しがり柔道を本気でやめようとしたというエピソードを紹介するとともに、木村政彦を破った秘密は明らかに合気道にあったと述懐している。

思うに、阿部謙四郎は合気道の究極の動きである「三元八力」(剛体・柔体・流体=△・〇・□、動、静、引、弛、凝、解、分、合)を導入した身のこなし方で木村政彦を破ったということだろう。

この逸話とよく似た話を私自身も二十数年前に聞いたことがある。実際、自分の目で、植芝盛平翁の演武を見た人がこんな話をされた。和歌山で有名な他流派の武道家が植芝盛平翁に一手指南を受けた時のことをこう話された。

「昭和二十年代の末頃だったと思うが、たまたま植芝盛平先生が和歌山市に来られて演武をなさっていた。それを見学していた武道家が、一手だけお相手にしていただきたいと、植芝先生に申し入れをされた。先生は受ける気はないような素振りを見せていたが、あまりにしつこく言うものだから、しかたなく受けることにしたようである。そしていざ立ち合いが始まると、ものの数秒で片が付いてしまった。人差し指一本で相手を投げ飛ばし、その武道家は畳にうつ伏せに倒れていたのである。一瞬の出来事だった」と。

合気道の開祖である植芝盛平翁(1883―1969)は、幾多の挑戦者がその真偽を確かめるため立ちはだかってきたが、すべて不敗であった。そして“正伝”の植芝吉祥丸編著・植芝守央改訂版監修『合気道開祖植芝盛平伝』(出版芸術社)にも記述されているように、精神性を高めた結果、武道の悟り境地に達し、銃の弾丸でさえ難なく避けることが出来るようになったと言われている(なお、弾丸を見切った事については、正伝に開祖自身の体験談=実話として記述されている)。

このエッセイでは、植芝盛平翁の深遠な哲理について考えていくとともに、「知」の巨人である南方熊楠翁(1867−1941)との深い縁、そしてその思想的な相似性についても触れていきたい。

高山寺にて撮影 高山寺にて撮影
高山寺にて撮影

2.「知」の巨人

「知」の巨人である南方熊楠翁と「武」の巨人である植芝盛平翁の墓碑にお参りするために、田辺市の名刹である高山寺を訪ねた。私車を止め、坂道を上がり本堂前まで来て、墓苑が何処にあるのか分からず辺りを見回したが、それでも見当がつかなかった。そこで誰かに訊ねようと思ったら、ちょうどこの日は大掃除にあたっていたのか、お寺の関係者の方が掃除をしていた。そこで尋ねると、親切にも案内してくれるという。言葉に甘えて、墓碑まで案内してもらった。お参りを済ませ、熊楠翁の墓碑から海が見えるので、眺めていると、海の向こうに神島らしき森が見えた。神島を久しく見て、あれが「一枝も心して吹け沖つ風わが天皇のめてましし森そ」だと思った。神島はもともと熊楠翁の神社合祀反対と天然記念物保護の運動によって、破壊されずに済んだ森だと言われている。そう言えば、神宿る森を愛した熊楠翁と盛平翁は共に、命がけとも思えるような神社合祀反対運動を展開した。一般的には、両偉人が知己を得た親しい間柄であったことをあまり取り上げていないが、「知」と「武」という範疇は違えども、人格から自ずから現れいずる器量の大きさを互いに感得し交流を深めたものと思われる。例えば『合気道開祖植芝盛平伝』によれば、熊楠翁の指示により、神社合祀反対運動における開祖の幾多の奮闘ぶりが描かれており、まさに両雄が手を携えここに現れる感がある。そして晩年、開祖はこのことを振り返り、「わしはあの時、生まれてはじめて国事に奔走しとるのじゃという欣快を味わったものじゃ。熊楠爺さんは偉いお方じゃった」と述懐されている。

しかしながら、以前からこの神社合祀反対運動で腑に落ちないことが一つだけあった。それは、開祖は義侠心と義憤で神社合祀反対運動に邁進したと考えられるが、何故、熊楠翁は学者にもかかわらず身命を賭してまで止めようとしたのか、私事ながら疑問に思っていた。中沢新一著『森のバロック』(せりか書房)にはその時の様子を「この神社合祀にたいして南方熊楠は文字どおり命を賭け、みずからの生活を危機にさらしながら、孤軍奮闘して闘った。重要な研究は中断をよぎなくされ、たえず非難と中傷に脅かされ、家庭は荒れすさみ、怒りの発作に翻弄され、熊楠はこのとき、ほとんど狂気の淵にいた」と述べている。よほどの「何か」が熊楠翁を突き動かし駆り立てたのだろう。そして「その何か」とは、なんだろうと思っていたのである。

平成25年1月4日のNHKEテレの『第三回日本人は何を考えてきたのか』において南方熊楠翁が取り上げられ、中沢新一氏が極めて鋭い指摘をされていた。そしてこれこそ「その何か」だと思ったのである。ちなみに中沢氏は次にように述べた。

「もちろん森が切られることが、彼の運動の出発点になっていたんですが、彼を根底から突き動かしているものはそれらを超えていると思いますね。昔の日本には、神社だけでなく、たくさんの『お入らずの森』があり、普通人々が入り込んではいけない場所があちこちにたくさんありました。人間がやることよりも大きいものが私たちを包んでいるという感覚があって、その感覚を残すために人間の行為が入らない領域をちゃんと設定してあって、そこには植物が生えていて動物がいて神社があった。これは日本の形です。人間を超えたものを南方はいつも捉えようとしていました。しかし森で象徴されるものを壊していく力が加わり始めた。そのことについて物凄く彼は憤る。私たちが今考えている自然保護とかというものより、はるかに深みを持っています。熊楠の考え方は、自然と人間の心という二つの極を持っている。これは相互に交流し合っていて、よく似た構造をしているんですが、実のところ、自然の方が全体的に精妙さを持っている。人間の知性は、使い方を間違えると自然の持っている精妙さを捉えられない。人間の人知を発達させるものは何かというと、合理主義的な思考を発展させるというのではなく、宇宙が持っている精妙複雑さに共感できる共鳴できるような知性の形に高めていくというのが、知性だというふうに考えていて、いつかはこの二つが合体できる地点があるぞと考えていた。この学問はヨーロッパにはない学問です。・・・・森は宇宙がつくり出す精妙な構造体ですから、森が切られるということは、彼にとっては自分の存在に刀を突き付けられ刺されるような痛いことだったと思います。もう自分の全存在をかけて戦わなければならないと思い戦ったと思います」。

これは正鵠を得た鋭い指摘である。まず第一に、“お入らずの森”に表象される神宿る場所が日本のあちこちにあり、それが「日本の形」であったという指摘。第二に、自然には人間を包み込むような感覚があり、それを残すために神社があったとは、原初の日本人が感得した思想概念を、神社を通して現代まで継承してきたという指摘。第三に、私たちが今考える自然保護より遥かに深みを持っているという指摘。思うに自然保護という思想背後には、西欧的な二元論が存在している。つまり人間と自然は対峙しており、人間があくまで自然を保護するという対等あるいは見下すような感覚が潜んでいる。このことは、古来より日本が有していた自然と人間が交流し一体化していくという精神性とは正反対である。第四に、西欧的な合理主義の思考を発展させることが知性を高めていくことではないと熊楠翁が考えていたとの指摘。第五に、熊楠翁が考えていた学問とは、西欧にはない学問であり、その領域は森をはじめとした自然・宇宙の精妙複雑な構造体であったという指摘。

以上の指摘を踏まえ、私見を述べると、熊楠翁を突き動かした「その何か」とは、森こそ神宿る場所(=神社)であり、それが日本を形作るものであり、日本人そのものだと考えていたのではないだろうか。それゆえ、祖先が守り敬ってきた神宿る森、自分自身が敬ってきた神宿る森、子孫が守り敬うべき神宿る森を壊そうということは、自らの五臓六腑を引き裂かれるような強い憤りとなって行動を発火させたように思える。その証左は、熊楠翁が「神社」の八項目にわたる重要性を訴えた「神社合併反対意見」の第一に掲げた「敬神の念を減殺する」である。

このことは、次章でのべる開祖の深遠な哲理と極めて相似性を有している。すなわち日本人が古より連綿と伝えてきた神道の思想(=「自然・森羅万象への畏敬の念」)が基底に存在するということである。


南方熊楠邸を訪れて

南方熊楠顕彰館にて撮影 顕彰館(田辺市中屋敷町)の隣にある熊楠邸に一歩足を踏み入れると、昭和初期のレトロな雰囲気が漂っていた。なんとなく懐かしい、それでいて心落ち着く場所である。母屋側から庭を見ていると、何故か子規庵を連想してしまう。正岡子規とは大学予備門の同級生である。二人とも昭和初期の“時代の匂い”が立ち込める庭に面し、一人は「南方曼荼羅」の思索に耽り、もう一人は俳句・短歌の創作に没頭したのだろうか。
私が初めて熊楠翁の偉大さに触れたきっかけは、約三十年前に読んだ鶴見和子著『南方熊楠』(講談社)に出会った時である。そして同書に記せられている熊楠翁の言葉が、今も重く脳裏に突き刺さっている。「だがもし、進化の終極に必ず完全な美・善の境界に到達することができる、という人がいれば、思いつくままに一事をあげれば、反論することができる。かれは進化が進化であるのは、一方の直進によるのではなく、必ず双方の並進による、ということが分らず、もっぱら一方だけをあげているのである。ただ智識が進化するとだけいうのはよい。もし道徳についていうならば、善も進化し、悪も進化する。もし生計についていうならば、楽も進化し、苦も進化する。影が形にしたがい、罔両(影の影)が影のあとを追うように、双方が並進するのであり、それ以外にはない。智識が高くなればなるほど、一方(善・楽)を取り一方(悪・苦)を棄てようと思っても、それは不可能だ。昔の善・悪は小さかったが、今の善・悪は大きい。そうだとすると、善・楽を求めることを目的とする者は、はたして進化を最も幸いだとするのか、それとも最も不幸だとするのか。進化が実際にあることは否定できないが、進化の作用には採るべきものはない」。

3.深遠な哲理


写真は生家跡。田辺市にて撮影

高山寺を後にして、盛平翁の生家跡を訪ねることにした。車で切土橋を抜け、会津川の左岸沿いに海岸線に向かった。そして突き当りの錦水神社側から田辺大橋を渡り、江川町に入った。車のナビを見ながら、この辺のはずだと思って探してみたが、一向に見つからない。そこで国道に合流する直前で、もう一度引き返すことにした。そしてようやく見つけることが出来た。

ここが生家跡だと思いながら、暫く辺りをじっと眺めていると、盛平翁が「チチキトク」の知らせを受けて、北海道白滝村(現在の遠軽町)からこの生家跡を目指して十日前後の旅に出た場面を思い出していた。『合気道開祖植芝盛平伝』によると、途中の列車内で大本教の話を聞き、綾部で出口王仁三郎聖師との運命的な出会いをする。そして出口聖師から「あなたのお父さんは、あれでよいのや」という実に深みのある言葉で諭されたという。その後、大本教で入信修行しつつ、一方で大東流合気術を学びながら「合気道」が完成していくこととなる。

従って、植芝盛平翁の深遠な哲理を考える際、大東流合気術の極意とともに、大本教の教理、特に出口王仁三郎聖師の精神世界や言霊学などの影響を色濃く受けているものと考えられる。

その出口王仁三郎聖師は、国学者であり神道家の本田親徳らの霊学、例えば一霊四魂(直霊と荒魂・和魂・幸魂・奇魂)や鎮魂帰神などを取り入れ、古神道の系譜に属しつつ、独自に教理の体系化を図り、大本三大学則を始めとした神概念、宇宙観、人生観、信仰観など理路整然とした教理を整えたと言われている。

一方、もともと神道は、「言挙げせず」という性格からか、あまり教理の体系化を図っていなかったように思う。西行の歌にある「何事のおはしますかを知らねども有り難さにぞ涙こぼるる」だろう。

話を植芝盛平翁に戻そう。『合気道開祖植芝盛平伝』によると、大本教に入信後、「植芝塾」を開設し“武道を天職として”修業に励んだ。そして開眼する時が訪れたという。いわゆる悟りの境地に達する際、翁は神秘体験をしている。有名な“黄金体”体験である。この神秘体験に出会うまでのプロローグとして、満州での銃の弾道を見切って得た心境や海軍の剣道家との真剣そのものの対戦(「素手」対「木剣」の真剣勝負)を通して、武の最高の境地(「気の妙用」の武術極意)に達しようとしていた。まさにその時に訪れた特異な体験である。空海の御厨人窟(みくろど)の神秘体験と相通じるものがある。そしていずれも神秘体験を経て悟りの境地に達したと言われている。開祖は、武の悟りの境地から得た“深遠な哲理”を様々な表現で披歴しているが、ここではもっとも分かりやすい次の言葉を紹介したい。

「合気とは、敵と闘い、敵を破る術ではない。世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である。合気道の極意は、己を宇宙の働きと調和させ、己を宇宙そのものと一致させることにある。合気道の極意を会得した者は、宇宙がその腹中にあり、『我は即ち宇宙』なのである。私はそのことを、武を通じて悟った。いかなる速技で、敵がおそいかかっても、私は敗れない。それは私の技が、敵の技より速いからではない。これは、速い、おそいの問題ではない。はじめから勝負がついているのだ。敵が、『宇宙そのものである私』とあらそおうとすることは、宇宙との調和を破ろうとしているのだ。すなわち、私と争おうという気持ちをおこした瞬間に、敵は既に破れているのだ」と。(注1)

この言葉からまず「合気とは敵と戦う武道ではない」、「世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である」、「宇宙・森羅万象との調和こそ絶対不敗である」という事柄が窺える。そして思うに、この言葉には前提があり、宇宙は調和する方向にベクトルが絶えず働いており、その力の方向に反すれば如何なるものも直ちに滅すると述べているのだろう。

そして開祖が悟達に至った後、晩年に取り組んだ最も着目すべき事柄は、茨城県笠間市(旧岩間町)に「合気神社」を創設したことである。「合気神社」には四十三神をお祀りしているが、主神としては、古事記並びに日本書紀にも登場する“猿田彦大神”である。このことから、最晩年の境地としては、古から連綿と続く神道の思想(=「自然・森羅万象への畏敬の念」)を基底に据えていたと考えられる。

あくまで私見であるが、以上、述べてきたことを総括するとともに要点を整理すると、開祖の言葉から垣間見える“深遠な哲理”の要諦とは、

第一に「世界を和合させ、人類を和合させる道である」こと(武術とは一見相反する「愛」「和合」を打ち出した徹底した無抵抗主義・平和主義)。
第二に「合気道の理念は自然と一体となり、天地自然と調和する」こと(武力によって勝ち負けを争うことを否定し、合気道の技を通して敵との対立を解消し、自然・宇宙森羅万象との「調和」「一体化」を実現するような境地に至ることを理想としている)。
第三に「心身の錬成による人間形成の道である」こと(勝敗に力点を置くスポーツ化した武道とは違い、合気道はあくまでの精神性に重きをおくため、競技試合は存在しない)。
第四に「実証が伴った絶対の強さである」こと(真偽を確かめるため、幾多の挑戦を受けてきたがすべて不敗であり、その真姿は、絶対の強さである)。
第五に「自らの心身をたたき台として築きあげた武の境地である」こと(八十六年の生涯をかけて、合気道の真偽を証明するための一生であった)。
第六に「“深遠な哲理”の基底には、神道の思想、即ち森羅万象に神が宿り、自然(森・海・巨岩・滝・川など)を畏れ敬う心(=「畏敬の念」)が厳然と存在している」こと(その証左は合気神社の創設である)。
思うに、この“深遠な哲理”の要諦とは、古来より、我が国が有していた日本精神の見事な結晶の顕れだろう。


三代目の合気道道主である植芝守央氏は、父が植芝吉祥丸二代道主、祖父が植芝盛平開祖で、現在、合気道、世界95か国150万人の頂点に立つ御方である。今回、来県された機会に、道主のご好意により、インタビューさせていただく事ができた。極めて貴重なお話しをお伺いすることが出来たので、その要点を紹介させていただくこととする。

1)開祖の思い出について、お聞かせいただけませんか?

「物心ついた頃には、開祖が岩間の道場から東京の道場(隣に父の家)に来られ、よくいっしょにご飯を食べたことを覚えています。今でもはっきりと覚えている印象的な出来事は、家族と接する雰囲気とお弟子さんと接する雰囲気が違ったことです。お弟子さんと接する姿には、別人かと思うほどの威厳がありました。特に、日比谷公会堂で行った全日本演武大会で開祖が演武を始めると、神技に聴衆の心を引き込んだかと思うと、笑わせてみたり、間のとり方がすごいので、観衆が一瞬にして一体化する、そういう姿を見て子供心に『すごいなあ』と感動しました」。

2)合気道と開祖の故郷である和歌山県との現在のつながりについて、お聞かせいただけませんか?

「人口の割合からすると、和歌山県は合気道人口が多い方です。開祖の故郷ということもあり、戦後の間もないころから、よく訪れて演武などを行ったからだと思います。和歌山市では、毎年、青少年合気道錬成大会を行い、四年に一度は演武大会を開催しています。生家のある田辺市では、植芝盛平顕彰会が主体となって慰霊祭・講習会・交流会を実施していただいております。また、熊野本宮大社の九鬼宮司(先代)と開祖が親しい交流関係があったことから、現在の九鬼家隆宮司のお計らいで、平成20年大斎原で国際演武大会を実施いたしました。和歌山県とは本当に深い縁を感じており、これからもこの縁を大事にしていきたいと思っています」。

3)開祖の思想の神髄について、教えていただけないでしょうか?

「開祖が求めていた合気の道は、物理的に強いというのではなく、相手と一体となり、相手を善導することだと思います。そして本当の強さとは自分に勝つことだと思います。強弱を争うのではなく、相手と一体となり、相手を善導しながら稽古をする。人と人との良いものを養っていく。合気道には競技試合がありません。そのため、稽古がすべてです。その稽古で相手を善導する稽古方法になっています。これが開祖が唱えた万有愛護の道です」。

(快く質問にお答えして頂きその人柄に深く感銘するとともに、私の心の中には一つの言葉を思い出していた。『一切のものを善用するところに、人の歩むべき誠の道がある』。)

4.結び

平成25年7月末、京都市において「21世紀グローバルリーダー育成講座」があり、哲学者の梅原猛先生がご講演をされた。その講演の中で、梅原猛先生は次のような事を特に強調されていた。

「私は40歳ごろ西洋哲学の限界を知り、東洋思想あるいは日本思想にそのような人間中心主義を超える思想が隠れているのではないかと考え日本研究を志した。・・・・われわれ日本は、西洋が生んだ科学技術文明の恩恵を受けた。しかし西洋人そのものがその科学技術文明の未来に深い憂慮を抱き、その文明を救う思想を模索している。このような問題に対して、非西洋国家として西洋哲学をもっとも深く学んだ日本が答えを出すべきではなかろうか」と。

そして梅原猛先生の講演会には続きがある。

「デカルトは『我思う、ゆえに我あり』といって理性をもつ我を肯定し、それに対立するものとして自然世界を考える、自然はまったく無機的なもので、数学的法則によって解明されるものである。そのように数学的に解明されれば、自然は奴隷の如く人間に従うものになる。これがデカルトの哲学である」と指摘した上で、デカルトを批判したニーチェやハイデッカーも人間中心主義も免れないと述べた。そしていわばこの人間中心主義が問題の核心だというのである。(注2)

数学者でもあったデカルトは、人間の持つ理性を用いて真理を探求していこうとする合理主義的な哲学者であった。そのため、デカルトは「コギト・エルゴ・スム」を始めとした「主観と客観」や「心身二元論」など近代哲学の基礎を形作る命題を確立し“近代哲学の父”と称されるに至った。

ここで拙い私見を述べることを許されるのなら、西洋の思想哲学の基盤(特にデカルトの哲学)には、機械的構成関係が横たわっており、極めて要素還元主義的であると思う。いわば機械論的世界観が支配しているのである。機械的構成関係とは「部分」が「全体」に先立つ構成関係の事をいう。このことから、西洋の思想哲学は、部分真理を追い求めるあまり、全体真理を見失う場合が考えられる。いわゆる『合成の誤謬』である。『合成の誤謬』とは、「一部分について真であることが、そうであることだけのゆえに、全体についても必然的に真であるとみなされる誤謬」(注3)のことである。経済学を例に紐解くと、「一個人にとって分別のある行動と言えることが国民全体にとっては場合によっておろかな行動と言わねばならぬことがありうる」(注4)ということである。そしてこの事を読み替えると、「人間にとって分別ある行動と言えることが地球上の全生命体にとっては場合によっておろかな行動と言わねばならぬことがありうる」ということになる。

一方、東洋の思想哲学の根底には、有機的構成関係が存在しているように思う。有機的構成関係とは、「全体」が「部分」を規定する構成関係の事をいう。従って東洋の思想哲学は、有機的構成関係で世界の様態を捉えるため、部分真理ではなく、まず全体真理を追い求める。このことは、西洋哲学の欠陥を補う役割を担える可能性を秘めていると言える。

そして陽明学者の安岡正篤氏は言う、西洋の哲学者はその思想と行動を分けて思惟しており、その結果、行動と思想の一致が求められていないところがある。それに対し東洋の思想家は、自身の行動から生み出された思想ゆえ、行動と思想が一致していると指摘している。思うに、いわば実証(含む「状況証拠」)を必要としているか、していないかの違いである。実証の伴った思想の方が、思惟だけの哲学より遥かに信頼性が高いと言わなければならない。

合気道の開祖、植芝盛平翁の哲理は、実証が伴っている。実証に次ぐ実証の中から築き上げたものである。ここでいう実証とは「己れの心身をたたき台として打ち砕きつつ探究した命の結晶」(注5)とも言うべきものである。そして「絶対の強さへの感動」(注6)である。高弟が述べている。「一度でよいから先生のおからだに触れてみたかった。触れんとする瞬間、いつも私の五体は宙に飛んでいた。なぜそうなるのかわからない。神技なのだと納得せざるをえなかった」(注7)と。そして、その哲理は宇宙森羅万象の活動との和合・調和であり、「自然・森羅万象への畏敬の念」である。自然との対立ではなく、自然との一体化である(注8)。そして、これがもっとも西洋の二元論に欠けている思想である(注9)

(稿を終えるに当たり、和歌山県合気道連盟冷水照夫副理事長様には、貴重なご教示ご指導を賜り、心から深く感謝申し上げたい。)

出典

  • (注1)
    高橋英雄編著『植芝盛平先生口述武産合気』(白光出版)より引用。

  • (注2)
    梅原猛著『人類哲学序説』(岩波書店)にも同趣旨の事が指摘されている。

  • (注3)(注4)
    P.A.サムエルソン著『経済学』(岩波書店、都留重人訳)より引用。

  • (注5)(注6)(注7)
    植芝吉祥丸編著・植芝守央改訂版監修『合気道開祖植芝盛平伝』(出版芸術社)より引用。

  • (注8)
    佐々木合気道研究所のホームページ『合気道と技』に「取られた手で四方投げなどの技をかけるとき、相手の領域に侵入せず、侵入されず、二者の境界線上で和したうえで、技をかけていかなければ苦労することになる。技をかけるときは、相手と融合しなければ、技はかかりにくい。二つのものが二つのままでは、争いがあるだけである。二つが融合してはじめて一つになり、思うように動けるようになる」と指摘している。

  • (注9)
    NHK取材班編著「日本人は何を考えてきたのか昭和編」(NHK出版)に哲学者の西田幾多郎が取り上げられており、その中に次のような記述がなされている。「東西の思想を学びながら西田が目指したこと、それはそれまでの西洋哲学の主観と客観という認識を乗り越えることだった。たとえば、『リンゴを見る』という行為について考えてみた場合、伝統的な西洋哲学では、あたかも『私』が、この世界の外から『リンゴ』を客観的に観察しているかのように考える。『私』つまり『主観』と、『リンゴ』つまり『客観』を分けて考える。『主客二元論』と言われる考え方である。それはデカルトの語った『我思う故に我あり』に象徴されている。この二元論では、対象と人間を分けて考えるため、どうしても人間中心になり、『すべてが人間のためにある』というドグマに陥りやすい」。

【参考】なお、田辺市教育委員会スポーツ振興課のホームページには「合気道開祖・植芝盛平翁」を紹介する内容が、詳しく掲載されています。

(2013.12)
(執筆者の所属、役職等は発表当時のものです)

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