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地方都市における「都心」変遷の“姿”とはT 〜県庁所在都市の比較研究〜

研究部長  田 朋男

1.プロローグ

和歌山市の都市として成り立ちを調べていると、歴史の重みを感じずにおられない。

紀州徳川家の城下町として栄え、「江戸後期には約9万人の人口を擁する全国8位の近世都市」(注1)だったという。また、城下町の町家の区域であった「ぶらくり丁」も1830年の火災ののち、路幅をひろげて商店街が形成され始め、城下町の繁華街として栄華を誇っていたという。そして「衣類などを軒先につりさげていたのが、このおもしろい名のいわれ」(注2)だと言われている。

本町2丁目周辺 ぶらくり丁

(注)ただし上記の絵はがきの写真は、溝端佳則氏のご協力を得たものである。なお撮影時期は、昭和10年前後と思われる。撮影場所は「本町2丁目周辺」と「ぶらくり丁」である。

我が国の都市の成り立ちの多くは、封建的な社会を経て形成されてきたので、「城郭」が事の始まりである。そして領主の住まいである「城郭」を中心に、武家屋敷(上屋敷町・下屋敷町)、寺町、商人町、大工町、鍛治屋町、紺屋町等が形成される。その後、「都市全体が近代化するにつれて、商業機能を主体とするようになる」(注3)のである。さらに都市が発展するにつれ、都市的な諸機能が一段と集中し、やがて機能分化が始まり、「都心」の多くは機能地域に分化する。すなわち、行政地区、金融・業務地区、小売商業地区(都心商店街)、娯楽地区などがモザイク状に集まって「都心」が形成されていく。都市も生き物のごとく絶えず留まらず動いていくものなのだろう。そして和歌山市も例外ではなく、同じような歴史的な変遷過程を経て現在の都市が形作られている。和歌山市における都市形成の歴史を振り返ると、一時(明治22年頃)5万人近くまで人口が減少し、大正の初めまで人口はほぼ横ばい状態の微増であった。そして大正初期から、綿紡・綿ネルや染料化学などの軽工業が発達しはじめ、労働人口が徐々に増加傾向を示しはじめたと考えられる。和歌山市史第三巻には「和歌山市の会社数は大正3年には20社に過ぎなかったが、大正8年には108社に激増した」と記述されている。その後、戦争を挟みながらも、昭和17年に工場進出していた住友金属工業(現 新日鉄住金和歌山製鉄所)が契機となり昭和30年以降“工業都市”として芽生え、都市が拡大・発展・集中し始めた。換言すると、“企業城下町”としての性格が表面化し、発展に大きな弾みがついてきたと言える。そして昭和45年には住金が最盛期を迎え、年間粗鋼生産量は900万トンを超え、住金の主力製鉄所として全国有数の高炉機能を発揮した。そしてこの時期の住金関連の社員数は約3万人と言われている(注4)。これは当時の人口36万人の約1割に相当する人数であり、世帯数では約3割近くを占めていたと考えられる(注5)

しかし昭和55年頃から平成の初期にかけて、「都心地区」の色模様に変化が生じてきた。いわゆる都心商店街「ぶらくり丁」の凋落の兆しである。そしてこの時期の前史としてのエポックメイキングな出来事がこの色模様に強く影響を及ぼしていると言われている。即ち、昭和46年前後より昭和63年にかけての住友金属工業の鹿島移転、そして昭和46年の市電廃止である。この出来事も大きな影響を及ぼしたと思われるが、それだけではなかったと私は考えている。このレポート&エッセイでは、そのことについても考察を加えていきたい。

和歌山市における「都心」も、他の多くの都市と同様、常に拡大・縮小・集中・拡散・発展・衰退等の変化の過程にあり、時の経過に伴って常に変化していると見なければならない。従って、都心商店街における商業機能も縮小・拡散・衰退する場合があると考えなければならない。

では、この都心商店街を核とした「都心」の色模様の変遷をどのような方法で捉えれば、その姿が浮き彫りになるのだろうか。ここでは、地価というバロメーターを使って、レンズを通して見ているように、「都心」変遷の“姿”を追いたいと考えている。

そして全国の地方都市(=県庁所在都市)の事例も交えながら、都心商店街の変遷の“姿”の共通性についても触れていきたい。

それでは、まず「事のきっかけ」から話を始めよう。

2.新潟市の「都心」変遷について

「事のきっかけ」は、意外なところから出てきた。

平成25年7月初旬、アルビレックス新潟の取材で新潟市に向かうこととなった。大阪空港から新潟空港までは全日空で行き、そこからシャトルバスでJR新潟駅に、そして新潟駅からはタクシーで一路、目的地の新潟総合学園(アルビレックス新潟の取材のため)に向かった。タクシーに乗車して、すぐに中心市街地の話を聞いてみた。というのも、中心市街地の活性化が全国の地方都市で重要な課題となっており、新潟市ではどのような状況なのか、興味があったから聞いてみることにしたのである。

運転手の方から「昔からの繁華街である古町(ふるまち)が寂れて、JR新潟駅前が活気づいている。地価にしても以前は古町が市内で一番高かったが、今は駅前に移っている」と。ちょうど訪問した時点が、全国の路線価が発表されて間もない時だったので、運転手の方もすぐに地価の話題が出てきたのであろう。

新潟市の「古町」と言えば、新潟県下最大の繁華街で、市民の間ではかつては“まちに行く”とは“古町に行く”と同義であったほど、新潟市の顔となっていたところである。古町は、江戸・明治期から繁栄を極めており、当時から商業・業務の集積地であったという。そして現在でも、百貨店などの大型店と老舗小売店が中心となって、市外、県外から買い物客が訪れる商店街であると位置付けられている(注6)

この話を聞いた時、思わず和歌山市とまったく同じ現象が起きていると思った。いわば「都心」変遷の“姿”が、極めて高い相似性を有しているのである。

ここでの相似性とは、新潟市と同様に和歌山市も県下最大の繁華街であった「ぶらくり丁」から「JR和歌山駅前」に最高地価点が移動してしまったことを指している。いわゆる都心商店街から交通の結節点であるJR駅前への最高地価点の移動(あるいは移転)である。

ちなみに新潟市の最高路線価を調査したところ、「古町通七番町 古町通り」が昭和53年(入手可能な資料として最古)から昭和63年まで最高地価点となっていたが、平成元年から現在に至るまで「東大通り1丁目 新潟駅前通り」が最高地価点となっている。確かにタクシーの運転手の方が指摘したとおりである。下図(新潟市中心市街地)で最高地価点を指し示すと、(7)の場所である。「大和」とは“新潟大和”という百貨店で、新潟最大の繁華街を代表する百貨店として、地域の商業や文化の中心的な機能を果たしていたと言われている。しかしながら、平成6年頃のピークを境に有力テナントの撤退や古町地区の地盤沈下を背景とした競合百貨店との競争に敗れ、2010年(平成22年)に閉店した。

古町通七番町 古町通り
(新潟市中心市街地活性化計画より引用)

古町通七番町 古町通り
(古町通7番町商店街。新潟中心商店街協同組合の公式サイトから引用。)

一方、和歌山市はどうであろう。

新潟市と同様に、最高路線価を調査したところ、本町のぶらくり丁通りが平成元年まで最高地価点であったが、平成2年に近鉄百貨店前に追いつかれ、その後平成7年まで同じ評価額であった。そして平成8年に近鉄百貨店前が「最高地価点」となり、現在に至っている。

例えば平成25年の路線価図を見てみよう。もちろん最高地価点は、近鉄百貨店前である。下記に示した平成25年の路線価図のとおり、「ぶらくり丁」が9万7千円/uとなっているのに対し、JR和歌山駅前の「近鉄百貨店」前が36万円/uとなっていることが分かる。

本町2丁目周辺の路線価図
本町2丁目周辺の路線価図

上の相続税の路線価図は、国税庁のホームページより引用。

JR和歌山駅周辺の路線価図
JR和歌山駅周辺の路線価図

上の相続税の路線価図は、国税庁のホームページより引用。

いったいこの現象は、何を意味しているのだろうか。

新潟市と和歌山市の両県庁所在都市が、それぞれ都市そのものが何らかの構造変化が生じていて、それを示す動きなのか。あるいは、都市構造の変化ではなく、単なる局部的な地価上昇なのであろうか。

まず考えられることとしては、(1)JR駅前を中心とした都市核が新たに発生してきて、既存商店街を凌駕し始めたのか、あるいは、(2)都心商店街が衰微しはじめ新興の商店街が相対的に興隆しはじめたのか、(3)そしてそのいずれでもないのか。さらにこのことは、(4)「都心」の色模様をどのように変化させていくのか。この時点では、“謎”であった。

また、この現象は、新潟市と和歌山市の特有のものなのか、あるいは全国の地方都市(県庁所在都市)に共通した現象なのかも不明であった。このレポートでは、これらのことも含めて考察を進めていきたい。

それでは、まずこの現象を解明していくために「地価」とは何かについて考えていくとともに、ここでいう「都心」とはどういうものなのかについても、次に触れていきたい。

3.地価と都心について

地価形成は、基本的には土地の収益性(=生産性)に左右されるものと考えられる。ただし土地の資産的価値から投機対象となったバブル期など、土地の収益性と地価とは一致しない側面も存在するが、最近の経済状態では一致する方向に経済の力が絶えず働いていると見なければならない。特に土地神話を創出した高度成長期(昭和30年〜昭和48年)や投機対象となったバブル期(昭和61年〜平成3年)には資産的価値に着目した地価形成が行われたと考えられるが、近年のデフレ期(平成3年以降の「失われた十年、二十年」)においては主として土地の収益性に基づく地価形成であったとみるべきである(注7)。換言するとデフレ期の地価下落は土地の収益性への回帰現象と捉えられる。例えば、日銀調査月報2000年10月号の『最近の地価形成の特徴について』(植村修一・佐藤嘉子)には、次のような指摘がなされている。「本来、土地の価格や価値は土地が生み出す収益によって決まり、土地の収益は、生産活動全体が生み出す収益の中から分配されるもの」であるとしている。

また、地価という指標の重要性を指摘する研究者の声も多い。

例えば、山田浩久著『地価を用いた都市集約化の計量的把握』(山形大学紀要 人文科学 第17巻第1号)において「地価は土地利用の状況に対する総合的な評価値とされており、郊外開発による中心市街地の相対的地位低下や都市機能の再集積による都心活性化の程度を客観的に示す指標として妥当」と指摘されている。このように、地価と土地利用、あるいは都市構造との密接不可分な関係から、専門的な研究者によっては「地価は都市の言語である」さらには「地価は都市における諸環境・諸機能の総合値である」と定義している(注8)。そしてこの考察においては、これらの指摘を前提に調査を進めていきたい。

「都心」という言葉がある。広辞苑を紐解くと、次のように記述されていた。意味としては「都市の中心部。特に東京都の中心」。しかしながら「都心」とは、単に都市の中心部というだけでなく、都市経済学や都市地理学などでは中心業務地区(central business district,CBD)の事を指すことが多い。例えば、山田浩之編『都市経済学』(有斐閣双書)によると、「都心と名づけられた地域は、通常、そこに都市圏における中心機能や管理機能を果たす行政、金融、商業、サービス業などのビジネスが集中して立地しているため『中心業務地区』(CBD)とよばれる」としている。それゆえ、「都心」とは中心機能や管理的機能が集積している地区と考えられるが、その一方、世界大百科事典(平凡社)によると、その都市における「最高地価点を含む高地価地区で、狭義には最高地価の地点を都心という」との定義が指摘されている。もしこの狭義の定義で、「都心」を考えた場合、行政地区、金融・業務地区、小売商業地区(都心商店街)、娯楽地区のうち、都心商店街が最高地価点になるケースがほとんどであろう。これは土地の収益性の観点から、地価は一般的に土地利用形態順に「商業地」>「業務地」>「住宅地」>「農地」となっている。東京において最高地価点は銀座中央通り(「都心商店街」)であり、霞が関(「行政地区」)や丸の内(「業務地区」)、日本橋兜町(「金融地区」)ではない。これは東京をはじめとした都市全般に当てはまることである。従って、通常、「中心業務地区(CBD)」と考えられる行政地区、金融・業務地区ではなく、都心商店街が狭義の「都心」となるケースがほとんどであると考えられる。そしてここではこの狭義の「都心」を広義の「都心」と区別するため、以後「都芯」(=最高地価点)と表記したい。

つまりここでいう「都心」とは「行政地区」、「金融・業務地区」、「小売商業・娯楽地区」から成る都市の中心部の事である。そして「都芯」とは、この都心の中心点のことを指す。従って、都市経済学や都市地理学などでいうCBDがここでは「都心」となり、最高地価点が「都芯」ということにほかならない。図形化すると次のとおりである。(なお、この図形化の作成においては、アーネスト・バージェス(Ernest W.Burgess)の同心円地帯モデルのCBDを参考にした。)

図1

図1

そして最高地価点の移動(新潟市と和歌山市のケース)ということは、「都芯」が移動したことになる。この移動がどういう意味を持ちうるのだろうか。

思うに、地価勾配曲線から類推して、「最高地価点」=「都芯」は、まさに土地利用というピラミッドの“頂点”に当たる。 地価勾配曲線とは、都心からの距離に応じて、地価が下方に勾配していく現象を表す曲線の事をいう。従って、「都芯」とは、土地の収益性(=生産性)がもっとも高い地点であり、収益性の観点からは、まさに都市全体の中心点になる。そして、土地の収益性が極めて高いということは、「人」の賑わいを呼び込む“集心性”の強さにほかならない。換言すると、土地の収益性の核・中心をとりまく集心的原理が作用しており、「人」の賑わいが渦巻くのである。そしてこの賑わい渦巻く力によって、地価が押し上げられるのである。力とは物体に加速度を生じさせるものである。それゆえ「銀座」と「ぶらくり丁」の地価の違いは、渦巻く力の差が地価に反映されていると言える。「人」が賑わうということは、「人」に付随する「カネ」「モノ」「情報」などが賑わうこととなる。「銀座」では、首都のセレブな「人」が賑わうことで、「人」付随して「カネ」「モノ」「情報」が動き回る。それに連れ需要側と供給側とがそれぞれ螺旋状に働き合い、結果として収益性の高い一流高級店街やそれに似合った洒落た街並みが形成されていく。「人」は「カネ」を所持し「モノ」の購買力を有し「情報」=嗜好・流行を含む消費力を行使する。「人」が賑わうことで、相乗的に土地の収益性が向上していくこととなる。そして収益性が向上するにつれ、それに似合った土地の最適利用が図られていく。さらに土地の最適利用(もっとも収益力のある土地利用)がさらなる“集心性”を高めていくことになる。従って、この「都芯」が移動したということは、もっとも強い集心力を表す「人」の賑わいの頂点が移転したということにほかならない。

図2

図2

以上、述べてきたことは、「人」の賑わいの“量”に着目した考察であったが、一方、賑わいの“質”についても、その重要性を忘れてはならない。 「賑わう人」にも「買い物客」もいれば「通勤客」、「ビジネス客」、「物見遊山」、「観光客」などもあり、極めて多種多様である。さらに言えば「買い物客」でもセレブもいれば一般庶民もいる。その上、“最寄品”を求めているのか、“買回品”を求めているのか、あるいは“専門品”を買い求めに来ているのかによって、購買力に差異が生じてくる。そしてこの差異が、土地の収益性にも大きな影響を及ぼすこととなる。従って「人」の賑わいの質的な差異についても着目しなければならない。いわば、「ハレ」の賑わいか、「ケ」の賑わいかの差異である。

最寄品: 消費者が価格・品質をあまり比較検討せず、最寄の店で買うことが多い日用雑貨品などの商品。
買回品: 消費者が価格・品質・色・デザインなどを比較検討したうえで購入する商品。紳士服・婦人服・呉服・靴や贈答品など。
専門品: 消費者が商品を販売している店まで、時間をかけわざわざ買いに来てくれるような商品。高級ブランドの時計・バックなど
「ハレ」は、一般的には儀式やお祭りなどの“非日常“の出来事。例えば、晴れの日、晴れ着、晴れ舞台など。
「ケ」は、一般的にはふだんの生活の“日常”の出来事。
付 論;「コト消費」について

ここでの考察においては、都市の歴史的な成り立から論を起こした関係で、一昔前の消費形態で論考を進めている。最新の消費動向については、次々号等で触れていきたいと考えているが、ここでは、最近、特に注目を集めている「コト消費」について紹介したい。「コト消費」とは、一般的には消費のモノ離れから、消費活動の目的がサービスや体験を得ることにシフトしていくことをいう。そして“モノからコト”については、SCでの物を売る環境づくりとして意識され、新たな取り組みが行われ始めている。例えば、昨年末(2013年12月20日)に開業した“イオンモール幕張新都心”(=イオンの旗艦SC)である。約350店の専門店の3分の1以上を来店客が実際に様々な体験できる商業施設にしている。いわゆる「コト消費」に対応したコンセプトを導入しているのである。このことから、今後のSC動向として、全国的な拡がりをみせるかどうか注視する必要があるだろう。

ここでの論考としては、専門品や買回品を求めてやってくる買い物客、そして観光客、あるいはその“場”が持つ魅力(含むイベント)にひかれて賑わう場合は、「ハレの賑わい」であり、最寄品の買い物客や通勤客、ビジネス客で賑わう場合は「ケの賑わい」と定義したい。換言すると、「ケの賑わい」は、あくまで「通過型」の賑わいであり、その場所を“目的”とした「賑わい」ではない。全国117市の中心市街地活性化基本計画のほとんどが、何らかの形で都心商店街への「賑わい」の創出について盛り込んでいる。しかしながら、「ハレ」と「ケ」の差異については考慮されていない。この質的な差異は、非常に重要な事柄である。前述したとおり、そもそも通過型の「賑わい」は、通常、単なる“混雑”現象と捉えられる。それゆえ計画策定者も都心商店街に通過型の「賑わい」を望んでいないだろう。一方、滞留型の場合、その“場”が持つ魅力にひかれて集まったものであり、その際の「賑わい」は、本来の言葉が持つ意味での「賑わい」である。従って、基本計画には「ハレの賑わい」の創出を何らかの形で盛り込むべきであろう。(広辞苑を紐解くと「賑わう」とは、「富栄える」、「ゆたかになる」という意となっている)。

代表的な県庁所在都市の中心市街地活性化基本計画
金沢市 基本計画 目標「にぎわいと交流が生まれる中心市街地」
岐阜市 基本計画 基本方針「まちなか居住の推進」、「商業の活性化の増進」、「にぎわいの創出」
高松市 基本計画 コンセプト「にぎわい・回遊性のあるまちづくり」
熊本市 基本計画 基本方針「人々が活発に交流しにぎわうまちづくり」
奈良市 基本計画 基本方針「歩いて楽しく過ごせるにぎわいあふれるまち」
和歌山市 基本計画 基本テーマ「歩いて暮らせる賑わいあふれる城まち」
福井市 基本計画 都市づくり「賑わいのある中心市街地」
鹿児島市 基本計画 コンセプト「観光・商業・交流によるにぎわいあふれるまちづくりの推進」
新潟市 基本計画 目標「たくさんの人で賑わい、交流が生まれる中心市街地」
名古屋市 基本計画 活性化の目標「歩いて楽しめる快適な交流環境の創出による賑わいづくり」

以上のように、何らかの形で「賑わい」というキーワードが用いられているが、前述したとおり、そのいずれも賑わいにおける“質”については問うていないか、又は明確な区別をしていない。これは深刻な問題を孕んでいるとも言える。“質”を問う前に、必要な“量”が確保されていないことを表しているからである。いずれにしても、“量”だけでなく“質”にも着目した賑わいの創出が不可欠である。この“量”と“質”の賑わいについては、再度、後述することになるので、ここではこの事についての考察を終え、「都心」の賑わいと地価の分析に話を戻すこととする。

前述した「人」の賑わいが土地の収益性を向上させ、結果として高地価が形成されていくというメカニズムは、主に「小売商業地区(都心商店街)」を対象とした分析である。一方、「金融・業務地区」における土地需要は、主に三つの利便性に左右されていると考えられる。即ち、ここでいう利便性とは、(1)交通の利便性、(2)ビジネス現場への利便性 、(3)集積の利便性などをいう。オフィスビルの施設具合や賃料などを与件とした場合、これらの利便性の優先順位とその組み合わせの選択によって、オフィス需要が生まれ、オフィスが立地しはじめ、しだいにオフィスビルが集積し、オフィス街が形成されていく。従って「金融・業務地区」には必ずしも「人」の賑わいは必要ではないと推察される。

次章では、新潟市の古町をきっかけに判明した“都芯”の移動について、「和歌山市」の事例を抽出して、この現象について時系列に分析するとともに、その構造的な性格について考察を加えていきたい。

≪ 続きは6月に掲載予定 ≫

出典

  • (注1)
    和歌山市のホームページ「和歌山市の歩み」より引用。

  • (注2)
    和歌山県高等学校社会科研究協会著『和歌山県の歴史散歩』(山川出版社)の95頁より引用。

  • (注3)
    ブリタニカ国際大百科事典(TBSブリタニカ発刊)1993の「都市」より引用。

  • (注4)
    「和歌山市史」第三巻より引用。

  • (注5)
    平成22年版「和歌山市統計資料」より算出し引用。

  • (注6)
    「新潟市中心市街地活性化計画」より引用。

  • (注7)
    山田浩久著『地価を用いた都市集約化の計量的把握』山形大学紀要(人文科学)第17巻第1号より引用。

  • (注8)
    脇田武光著「都市の地価勾配研究の展望とその問題点」(人文地理29-2 1977)より引用。

(2014.3)
(執筆者の所属、役職等は発表当時のものです)

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