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通し矢天下一 和佐大八郎範遠の「惣一物語」

元研究部長  田 朋男

1.通し矢

「はっ」と目が覚めた。ずっと、うなされていたのである。寝汗で敷布団までが人形に濡れていた。大八郎は、夢を見ていたのである。夢の中で、底の見えない暗黒の闇に向かって、只ひたすら弓矢を放っていた。しかしほとんど、途中で棟木に阻まれ、通すことが出来ない。焦れば焦るほど、思うようにいかなくなる。そのうち、腕が上がらないうえ、体が言うことを聞かなくなってきた。一大事であるべき“通し矢”の最中に、なんと気を失ってしまったのである。そして、奈落の底に吸い込まれていく自分の姿を眺めると、なんとしても藩の面目を立てるという強い思いだけが魂魄を覆い尽くしていた。

やっと悪夢から解放された大八郎は、京の紀州藩邸の中座敷に居た。通し矢は、暮れ六つから始めることになっていた。いまは明け六つ。まだ半日ほどあった。しかしこれからが、本当に長い一日の始まりであった。


【国宝三十三間堂は、正式名は、蓮華王院で、その本堂が『三十三間堂』と通称されている。これは、「東面して、南北にのびるお堂内陣の柱間が33あるという建築的な特徴」で、「『三十三』という数は、観音菩薩の変化身三十三身にもとづく数を表している」という。「平安後期、約30年の間、院政を行った後白河上皇が、自身の職住兼備の『法住寺殿』と呼ぶ院御所内に、当時、権勢を誇った平清盛の資財協力によって創建したもの」である。ところが、「そのお堂は建長元年(1249)、市中からの火災により焼失し、鎌倉期・文永3年(1266)に再建されたのが現存のもの」という。(注1)提供:妙法院】

和佐大八郎(和歌山市和佐出身)は、紀州藩の英傑として、名前だけは知っていた。が、どれほどの偉業かは知らなかった。ふとしたきっかけから、その偉大さについて改めて調べてみようと思い立った。そこで、実際に通し矢(大矢数)を行った三十三間堂に行ってみた。このお堂の西縁は幅2.5m、高さ5.5m、長さ120mあり、南側から北側に射通すのである。通常、弓道の競技では遠的で60m。その倍以上あり、しかも矢は弧を描きながら、飛んでいくことから、これほど長いと、堂の庇が邪魔になるのである。筆者自身、高校時代、弓道部に所属していたこともあり、少しは事情が分かる。この長さを射通すのは、並大抵の技量では出来ないと思った。

三十三間堂に「通し矢」についての記述があった。そこには、通し矢とは「的にあたった矢」という意味で、お堂の西縁を南から北へ射通す競技で、大幣束を立てて的ととし、的場の検見所で矢の当否を確認し、扇や燈火で検証人に合図し、それを矢数帳へ記録したという。

具体的には、晩春から初夏の日の長い時期を選び、暮れ六つ(午後6時)から始めて翌日の同時刻までの一昼夜まで射続けるという壮絶な競技である。もちろん、惣一(天下一)になれなかった場合、切腹ということもあった。慶長年間だけで25人が切腹をしているという。(注2)

さらに三十三間堂での“通し矢の歴史”の解説によると「いつの頃、始められたか明確でないが、既に室町期『洛中洛外図』には三十三間堂で矢を射る者が描かれており、かなり古い歴史を持っていると思われる。とくに流行をみるようになったのは、天正年中(1573〜1592)に今熊野観音堂の別当が射芸を好みふとした思い付きで『堂通し』をしたのが契機とされ、試技者としては、尾州の小野小左衛門をはじめ小川甚平、木村伊兵衛、今熊野猪之助等の名がみえ、文禄に入ると関白秀次も試みた。

かわって慶長(1606)一月には、松下野家臣・浅岡平兵衛が51本を通して『天下一』を称して、お堂に掛額したのを機に矢数を争うようになり、諸藩が名誉をかけて競う風習となった。江戸時代になると太平250年間に大いに流行し、大衆にもてはやされて、寛永19年(1642)には、江戸浅草に競射場としての三十三間堂が建つほどだった・・・・・。

寛文・貞亨年間の尾張・紀州両藩の争覇は大いに庶民の評判を呼び、通し矢の黄金期を現出した。一方、巷間では井原西鶴が『通し矢』にヒントをえて俳句の多作を競う『俳諧大矢数』を実演して評判を博した。これほど盛況だった『通し矢』も明治28年(1895)の若林素行・通し矢4,457本の試技を最後に中絶した」と記載されていた。

【参考】以下の資料については(注3)を参照。

大矢数 一昼夜、縁側の端から端まで射通す矢数を競うもの。大矢数で日本一になった者は「惣一」とか「天下一」と言われ非常な誉れであった。日本武道全集第三巻、日本弓術.馬術史よると、延べ823名が挑戦し、延べ41名、実数26名が「惣一」を成し遂げている。
日矢数 半日間に射通した矢数を競うもの。
千 射 矢数を千と定めてそのうち、何本通せるかを競うもの。
百 射 矢数を百と定めてそのうち、何本通せるかを競うもの。
半 堂 少年のために距離を半分に縮めて上の各種の競技を行うもの。
堂 見 審判役で、通し矢の成否を見定めて旗を振る。
検 見 六名の堂見の責任において記帳された矢数帳を確認し、判印を押して証明する役である。
ふとしたきっかけとは

ふとしたきっかけとは、平成25年10月18日付紀伊民報に、和佐大八郎の「弓道具」が田辺市に寄贈されたと書かれていた。そして三十三間堂の通し矢において、実際、使用した弓もあるという。資料(注4)によると、和佐大八郎は銘の入った堂射用の指矢弓(さしやゆみ)を十三本用いている。興味があったので、どの弓だろうと思い、田辺市を訪ねてみることにした。
そしてスポーツ振興課の坪井伸仁主査から遺品を展示してある田辺市立弓道場に案内していただいたところ、控室に見事に飾られていた。飾りケースには、弓が二振りあり、実際に三十三間堂の通し矢で使用したものという。そして説明によれば、元・県弓道連盟名誉会長の鈴木住尚氏(故人)の父、鈴木雄三先生が17代当主の和佐尚寛さんから譲り受けたものを、この弓道場の完成を機に寄贈したものだという。しかし残念ながら、指矢弓の銘については不明であった。

2.和佐大八郎範遠の「惣一物語」

筆力もわきまえず、つい小説仕立てで始めてしまった。そのため、冒頭部だけで終わるわけにはいかなくなってしまった。相変わらず拙い筆運びだが、もうしばらくの間、お付き合い願いたい。

吉見台右衛門も眠れなかった。吉見には二つの気がかりなことがあったので、大一番が始まる大事な夜にもかかわらず眠れなかったのである。吉見は、幼いころより、大八郎に弓の手ほどきをしてきた。それゆえ気性も癖も理解していた。「もろいぃ」と心の中で叫んだ。これが大八郎の欠点であると思った。こうも思った。星野勘左衛門の八千本はとても人間業ではない。師であるがゆえ、これを破るにはどうすれば良いか。常に頭から離れなかった。このため吉見は、一晩中、一つの秘策を思いあぐねていたである。殿にも、周囲の誰にも言えぬ秘策を・・・・・。

一方、大八郎も、あの悪夢を見た後では、もう眠れないと思った。思わず「はぁぁ」とため息を漏らした。これからの通し矢のことを思うと、再び不安が持ち上がってきたのである。不安を振り切るように、大八郎は庭に出た。京の紀州藩邸の庭は、枯山水の回遊式で松と岩の配置に妙味があり、諸藩の間ではつとに知られていた。大声で叫びたい気持ちを抑えながら、その松と岩を眺めていると、出立の朝のことを思い出していた。

奥座敷の正面に父、和佐森右衛門が正座をしていた。その表情は真剣そのもので、奥座敷は凍り付くような張りつめた空気が支配していた。大八郎は、父の異様な風圧を感じながら、父の目の前にやっとの思いで身を置いた。「惣一になれなかったら、分かっているだろうな」父はいきなり、目を見るなり、こう問うた。「承知しております」大八郎はすべてを合点していたので、すぐに答えることができた。そして、数日前に父から授かった切腹用の脇差をあらためてぐっと握りなおした。

藩内では、大八郎の出場に異論がないわけではなかった。藩内の重臣たちは、葛西薗右衛門が第一人者だと思っていた。そして大八郎と薗右衛門、二人とも吉見台右衛門の弟子であった。しかし薗右衛門は三十六歳になっていたが、大八郎はまだ二十四歳。師の吉見は考えた。一昼夜、射通すことの凄味を。確かに、薗右衛門は、今から十八年前、寛文八(1668)年に七千七十七本で“惣一”になった名人である。しかし今回は若い大八郎に賭けてみようと思っていた。そして殿の御前での下問に対して、大八郎を推挙した。殿もまた、吉見の言うことなら間違いがないとなり、大八郎に決まったのである。吉見台右衛門は、藩随一の弓道家としてその名を知らないものはいなかった。吉見もまた、六千三百四十三本も通し矢を行い、紀州藩士として誉れ高い“惣一”となった人物だったからである。いわば、この推挙があったからこそ、大八郎が今ここにいるのである。このことから、この通し矢には、藩の面目は言うに及ばず、師の面目も掛かっていた。

京の卯月は、まだ寒く、桜が散ったとはいえ、まだ朝は冷え込んでいた。やっと手代が竈の準備にかかったようである。大八郎も気を取り直し、はやる気持ちからか、今夜の大一番の支度にかかった。そして緊張感とある種の悲壮感に包まれながら、いよいよ三十三間堂に向けて藩邸を出る時を迎えた。留守居役をはじめ京勤めの藩士のすべてが、表門の玄関まで見送りに来ていた。そして口にこそ出さなかったが、皆の顔には「武運を祈る」と書いてあった。大八郎は、深く会釈をして出立した。

半時ほどで、蓮華王院築地塀、通称“太閤塀”が見えてきた。この太閤塀は、蓮華王院(三十三間堂)の南大門に連なって築造されている。豊臣秀吉が寄進した塀で、桃山時代に造営され、今は重要文化財になっている。そのため、桃山文化の影響をにじませており、何とも言えない優雅さがある。

三十三間堂の南門に到着した。時は、夕七つ半。まだ半時ほどあったが、南門付近には、すでに京の人が大勢集まり始めていた。堂の竹矢来越しに、通し矢を見物できるので、早くから見通しの良い場所を押さえに来ているのである。

しかし京の雀たちは、口さがない。この通し矢が、大げさに諸藩が競うようになったのも、元はと言えば、京雀たちの仕業である。慶長十一(1606)年、浅岡平兵衛重政が五十一本通したのが始まりで、その浅岡が関ヶ原での戦場において強弓で鳴らした強者だったことから、京雀たちが忽ち都中に広めた。やがて江戸までその噂が広まり、武士の面目を賭け諸藩が競うようになったのである。

その京雀たちのひそひそ話が大八郎の耳元まで聞こえてきた。「今度の紀州藩士はどうだい」「まだ二十歳そこそこの若造らしいよ」「それじゃ、星野勘左衛門の八千本は破られっこないなぁ」「江戸の城中じゃ、紀州様と尾張様が角を突き合わせているらしいぜ」この京雀が言った紀州藩と尾張藩のライバル心は本物だった。

当初は、諸藩が競うように、弓道家を立てて、記録が目まぐるしく更新していった。しかし京までの遠征費用だけでなく、三十三間堂でのその他一切の費用すべてを出場する藩が負担せねばならない。そのこともあって、最後には、尾張藩と紀州藩だけが残り、まるで一騎打ちのような様相を帯びていたのである。尾張藩士、杉山三右衛門が寛永十二(1635)年に三千四百七十五本の通し矢を成し遂げ、惣一となり、その年の江戸城での控えの間において、両藩の殿様が顔を突き合わせる機会があった。有体に言えば、両公の間で“火花が散った”のである。惣一の件は、江戸城下に広まっていたので、紀州藩主、徳川頼宜は面白いはずがなかった。徳川家康を父に持つ二人だが、御三家という意地から、兄であっても尾張藩主、徳川義直には負けたくなかった。一方、その思いは義直公とて同じであった。兄である以上、弟には絶対負けられない。この一件があって、尾張藩は一層熱を入れ始めた。一時、杉山の記録が庄内藩士に破られたが、その後、尾張藩士、吉井助之丞が寛永十四(1637)年に三千八百八十三本という記録を打ち立て、同じく尾張藩士、杉山三右衛門が同年に、五千四十四本とさらに記録を伸ばした。この記録を聞いた諸藩の弓道家たちは、とても更新し難いと結論付けた。それ以来、諸藩は潮が引くように手を引いていった。しかし収まらないのが、頼宜公である。紀州藩では、三十三間堂をそっくり摸した紀堂まで建てて、記録更新に躍起に成っていた。そしてやっとの思いで、明暦二(1658)年、吉見台右衛門が六千三百四十三本で惣一となった。しかし、尾張藩士、星野勘左衛門が寛文二(1662)年に六千六百六十六本で天下一となり、又もや、尾張が惣一を握った。紀州藩も負けずに、寛文八(1668)年に、藩士の葛西園右衛門が七千七十七本で天下一となり、惣一を奪い返した。だが、これで終わりではなかった。寛文九(1669)年、星野勘左衛門が又しても八千本という途轍もない記録で惣一になった。しかも余力を残しながら「打ち止め」にしたのである。その後、幾多の紀州藩士が、この記録に挑戦すれども、破れずに今に至っている。

大八郎一行が、南門より三十三間堂に入ると、竹矢来越しに、京雀たちが見て取って、「あぁ、・・・・・もしやあれが紀州藩士!」大八郎がその人であることがわかると、「おぉおぉ」と歓声が起こった。大八郎は六尺を超える大男だったのである。

大八郎が下馬すると、早朝から準備に来ていた京詰めの藩士が駆け寄ってきた。そして堂に着くなり、大八郎は、待ち受けていた介添人から、今日のお役目を司る役人に挨拶するよう促されたのである。堂の南寄りの西側に仮設の屋形が造られており、そこに堂見や検見などが詰めていた。そして一通りの挨拶が済むと、今度は、弓師、矢師、ゆがけ師、弦師などとの対面である。これやあれやで、時が過ぎていった。そろそろ六つ時が近づいてきた。介添人から堂に上がるよう指示があった。

「いよいよだ」と思わず呟いた。師範の吉見に付き添われ、介添人を従えて、階段から堂の縁に上がった。その時を見計らったように、さっそく京雀たちが掛け声をかけてきた。「よぉ・・、紀州の若侍」「待ってました!」「尾張に負けるんじゃないよ」好き勝手な掛け声が飛んだ。まるで歌舞伎の“大向う”である。大八郎は気負っていた。自分では分からないが、同行していた師の吉見はそのことに気づいていた。吉見は、若さゆえ場数を踏んでいないせいだろうと冷静に見ていた。通し矢は一昼夜行う競技である。それゆえ、ペース配分が勝敗の決め手の一つであると言える。大八郎は頭では分かったつもりでいた。しかし人は慣れないところでは、心と体がいうことをきかないことがある。そして、これからそのことを思い知らされることになる。

縁の端から約八尺のところに低い腰掛を置き、大八郎はそこに腰をかけた。そして“射おろし”を始めた。心の中は、藩の面目、師の面目、和佐家の面目、武士の面目――四面面目である。通常は、この射おろしがウォーミングアップになるはずだが、大八郎の場合は違っていた。反って焦りが出てきたのである。

そして、六つ時を知らせる鐘の音がお堂に鳴り響いた。「はじめっ」と役人の声が飛んだ。一矢射った。矢は低い弾道を描きながら、堂の庇をかすめ、堂の北へと消えていった。矢を見失った瞬間、太鼓の音がした。通ったのである。それからというもの、まさに矢継早に射っていった。

四千本まで来た時である。初めから飛ばしすぎたのか、腕と体が思うようにいかなくなってきた。四時(8時間)が過ぎさろうとしていた。徐々に肘木に当たる矢数が増えだしてきた。そして折しも、風とともに雨が降り出したのである。雨で視界が悪くなる上、少しの風でも、堂の庇の下で、空気が舞うことから、矢筋が言う事をきかなくなる。しかも雨の湿気は、矢と弓にまで悪影響を与える。飛ばなくなるのである。焦れば焦るほど、失敗する矢数だけが増えていった。傍で見ているのも辛い状態になってきた。まさに悪夢が正夢になろうとしていた。これを見ていた堂見が、「矢も通らないうえ、雨も強くなる様子である。此のたびは、まずこれまでにて止め、追ってまたかかりては」と申してきた。(注5)大八郎もこの状況では、やむなしと覚悟を決めた。「堂見の言うとおり、一旦止めも致し方なし」(注6)と吉見に同意を求めてきた。

それを聞いた吉見は、心配していた大八郎のもろさが出てきたと思い、「弱きことを言うものかな。諸事気にかけずしてただ射るべし」(注7)と応じた。しかし大八郎は、なおも止めにこだわっていたため、続けて「大八よ、よく合点せよ。殿の御前で、大八と薗右衛門と如何にとのお尋ねがあった。両人互角の力量なれど、初矢数惣一に致したく、大八にすべしと申し上げた。もしここで、矢数射直せば、初矢数とはならない。帰国の上、殿の御前に何と申し訳いたす」(注8)と厳しく叱咤した。吉見は、切腹だけでは済まされないと思っていたのだ。大八郎、これを聞き、「初矢数にて惣一と御請合の儀、只今、承りました。この上は、何分肩骨が続くかぎり射通し致す」(注9)と目覚めた様子で述べたので、吉見も、「暫く休息し気を休むべし」(注10)と述べ、休ませた。

休息後は、しだいに調子を取り戻し、夜明け頃より勢いよく華々しいほど通り出してきた。しかしここで難事が起こった。それは“吉野”の銘を付した名弓が突然、折れてしまったのである。大八郎にとっては、この名弓があればこそ、この通し矢にもそれなりの自信が持てていたのである。大八郎は、思わず「これは神仏の御加護から見放された不仕合せ、この弓がなくては成就し難し」(注11)と叫んだ。今度の落胆は、先ほどの精神的なもろさとは訳が違う。そのことを深く理解していた吉見は、いよいよ秘策を出す機に及んだと思った。

大八郎は、師の吉見が金色の弓袋を伴の者に持たせていたが、その中身までは知らなかった。吉見は、おもむろに金色の布に包まれた弓一振りを出してきた。それは紛れもなく神弓の“茂写”であった。この“茂写”の銘を付した弓は、白髪の老翁が吉見台右衛門の枕元に立ち、この弓にて惣一せよとお告げをした弓である。そしてそのお告げ通り、惣一になったことから、神弓として城の御蔵に納められていたものであった。

「これは神弓の茂写である。我も茂写にて惣一になった。その方も茂写にて惣一せよ」(注12)と述べ、大八郎の前に差し出した。大八郎は生まれ変わったように、射通した。そして、ついに八千本にあと一本と迫った。明け六つには、まだ一刻(約30分)近く残っていた。大八郎は、思い切り弓を弾き、無心で矢を放った。そして見事に通した。星野勘左衛門に並んだ瞬間である。さらにゆっくりと弓構えをし、打起しから引き分けた。会から離れ、残心と絵で描いたような仕草で矢を射った。八千一本。「良しぃ」と吉見の鋭い声が聞こえた。厳しい師から初めて聞いた言葉である。


上の写真は、和佐大八郎範遠の惣一の掲額である。提供:妙法院

あとは残り時間との戦いである。できるだけ記録を伸ばす必要があった。僅かの更新であれば、再度、惣一を奪われかねない。矢継早に、通し矢を行った。そしてついに八千百三十三本を通した時、明け六つの鐘の音とともに、役人の声がかかった。「やめぃ・・」ついに終わったのである。大八郎は気力も体力も使い果たしていた。まるで抜け殻のような自分の姿をそこに見た。しかし大八郎は、面目が立ったことの喜びで、心は満たし尽くされていた。

この惣一物語は、貞亨三(1686)年の出来事である。ちなみに時の将軍は綱吉、紀州藩主は光貞(吉宗の父)である。

【追記】
失敗矢数和佐大八郎四千九百二十本、星野勘左衛門二千五百四十二本、葛西園右衛門千九百二十三本。かつてないほど、失敗矢数が多いことに、大八郎の苦闘の様子が偲ばれる。なお、和歌山文化協会・和歌山県弓道連盟共編『和佐大八郎範遠略伝』によれば、大八郎が使用した弓が、本当に神弓の“茂写”だったかどうか、説が分かれている。

3.田辺市の“浄恩寺”を訪ねて

和佐大八郎範遠の墓
和佐大八郎範遠の墓
堂射用の指矢弓
堂射用の指矢弓

教主山浄恩寺の門に向かって右手奥にある駐車場に私車を止めた。そして門前に立つと、「田辺に過ぎたるものは江川の三ヶ寺」と謳われたことが腑に落ちた。いわゆる名刹である。門をくぐると、すぐ左横に和佐大八郎範遠の墓があった。歴史を感じさせる佇まいをしていた。お参りは後にしようと思っていたので、ここは少し会釈をして、ご住職をまず尋ねることにした。

整然と清められた境内を通り、庫裡の方に向かった。扉が開いていたので、玄関の中に入って来訪を告げると、ご住職の石橋圭示氏が奥から出てこられた。応接間でご住職から丁重な説明を受けたところ、当寺では和佐大八郎の弓がふたつあり、大きい方は練習用で、小さい方は和佐家から寄贈されたもので、実際に、大八郎が三十三間堂の通し矢の際に使用した弓という。奥座敷にて拝見すると、その堂射用の指矢弓には「大八」という文字が彫り込んでおり、暫く手に取っていると大八郎の思いが伝わってきた。ただし指矢弓の銘はなかった。

あまり長居もできないと思い、じっと眺めていたい気持ちを押さえながら、浄恩寺を後にすることにした。最後に、お墓に手を合わせ、心の中でこのエッセイの報告をさせていただいた。(ちなみに和歌山市矢田峠にある和佐家累代の墓所にも、遺骨は葬られているという)

4.結び

和佐大八郎の「惣一物語」を綴りながら、武士の生き方とはなんだろうという思いが頭から離れなかった。言い換えれば、“武士道”ということに要約される。思うに、生か死かを選ぶ二者選択の場合、迷わず死を選ぶのが武士道なのだろう。それゆえ、和佐大八郎をはじめとした武士たちには、ある種の“美学”が存在する。そして武士たちの生き方に魅せられるのだろう。翻って、江戸時代、武士たちもまた、「武士とは何か」、「武士が歩むべき道とは何か」について、常に模索してきたにちがいない。思いつくままに、山鹿素行の『山鹿語類』、室鳩巣の『明君家訓』、山本常朝『葉隠』など。さらに幾多の名もなき武士たちの行動規範も、その背後には厳然と存在するのだろう。江戸時代を通して時とともに武士道という壮大な“美学”のタペストリーを織り上げてきたと言える。

そして明治になり、新渡戸稲造が“武士道”という思想を一つの形のあるものに纏め上げた。いわば武士道を形作る行動規範から抽象化された日本固有の要素を抽出し、それを集めて一つの形あるものにしたである。例えば、武士道の光り輝く最高の支柱である「義」、平静さに裏打ちされた「勇」、人の上に立つための「仁」、他人に対する思いやりの「礼」、武士に二言はないの「誠」、苦痛と試練に耐えるための「名誉」、そして人は何のために死ねるかの「忠義」。

その『武士道』(新渡戸稲造著、三笠書房)の序文には、著名なベルギーの法学者との会話が記述されている。「『あなたがたの学校では宗教教育というものがない、とおっしゃるのですか。』とこの高名な学者がたずねられた。私が、『ありません』という返事をすると。氏は驚きのあまり突然歩みをとめられた。そして容易に忘れがたい声で、『宗教がないとは、いったいあなたがたはどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか』と繰り返された。その時、私はその質問に愕然とした。そして即答できなかった。なぜなら私が幼いころ学んだ人の倫たる教訓は、学校で受けたものではなかったからだ。そこで私に善悪の観念をつくりださせたさまざま要素を分析してみると、そのような観念を吹きこんだものは武士道であったことをようやく思いあたった」と。新渡戸の言説から、明治の日本人には、武士道で育まれた倫理観・道徳的徳目が目には見えない太い血脈となって受け継がれていたのだろう。そして、武士道という壮大な“美学”のタペストリーには、通し矢を競う合うことで切磋琢磨した武士一人ひとりの糸が、間違いなく縦と横に織り込まれていると思う。

出典

  • (注1)
    「 」内の記述は、蓮華王院三十三間堂のホームページより引用記載。

  • (注2)
    切腹者の数は、平田弘史著『弓道士魂』より引用記載。

  • (注3)
    「『通し矢』のスポーツ的性格に関する一考察」(本間周子著)より引用記載。

  • (注4)〜(注12)
    4、5、6、7、8、9、10、11、12は、和歌山文化協会・和歌山県弓道連盟共編『和佐大八郎範遠略伝』より引用記載。

(2015.8)
(執筆者の所属、役職等は発表当時のものです)

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