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「エルトゥールル号の物語」に学ぶ 〜トルコから見た日本人の“姿”〜

研究委員  田 朋男

1.プロローグ

「何だ、これは・・・・・」思わず心が叫んだ。田嶋勝正(現・串本町長)の手が心なしか小刻みに震えていた。そして手には、当時の医師の手紙があった。この手紙は、無量寺の通称“開かずの金庫”から出てきたものである。田嶋は、エルトゥールル号のことは一通り知っているつもりでいた。しかしこんな手紙の事実は聞いたことさえなかった。

当時としては当たり前のように、書かれたその内容は、現在の日本人からすれば驚嘆すべきものであった。何故、こうも自然に惻隠の情が湧いてくるのだろうか。

静かな感動が胸を覆いつくそうとしていた。そして田嶋が、はじめて日本人の本当の姿を垣間見た瞬間であった。同時に、映画化をしようと決心した瞬間でもあった。

エルトゥールル号の美談は山ほどあるが、実は山ではなく“細部にこそ神が宿る”のである。言い換えれば。本筋ではない脇の端の方にこそ、物事の本質が顕現されている。この場合もそうであった。この出来事は、田嶋が串本町長に就任して二年目を迎えたある初夏の日ことである。


串本ロイヤルホテルのロビーにて筆者が写真撮影。
神戸にて治療を受けたエルトゥールル号の負傷者の写真である。

映画「海難1870」が、平成27年12月5日に封切られた。私たち和歌山県民にとっても、エポックメイキングな出来事である。串本町大島の樫野の住民の方々の尊い行いが、日本国民とトルコ国民との友情の絆を育み、テヘランでの日本人救出や東日本大震災の際の救出活動など、他国では考えられないようなエピソードを生んできた。これらの心温まる絆は何処から結ばれ、何故、育まれてきたのだろうか。この謎を解き明かしていくため、トルコ側から見た日本人の姿を追ってみたいと思う。

日本人の姿というものは、意外と日本人側からは見えないものである。我が身を振り返ってみても、自分自身では自分の事をすべて把握していると思っているが、一旦その姿となると、意外と見えていないのである。例えば、自分の顔や容姿なども、何かの助けなしには把握できない。鏡を用いたり、カメラを使ったりしないと、自分自身だけの力では如何ともし難いところがある。自分の顔にほくろがあったとしても、どういう具合についているのか、何かの助けなしには判別できない。要するに、何かに写す以外ないのである。同じように日本人自身が、自分の本当の姿が見えていないのではないか、そういう問題意識が私の根底には存在する。あまりに近きにあり、日本人の姿が見えない。ましてや外国からどう見えているかも分からない。

つまりトルコ側から見た日本人の姿(「明治の心」)はどう映っていたのか。いわば澄み切った鏡のような状態で写っている姿を見たいと思った。そして、串本町の御尽力により、駐日トルコ共和国大使アフメット・ビュレント・メリチ閣下にもインタビューすることが出来た(その内容は前回号に掲載済み)。そしてトルコ共和国から見た日本人の姿が明らかになった。このレポート&エッセイでは、実名小説(実名登場のフィクションを含んだ物語)として映画化のエピソードをまとめるとともに、そのほかの二つのエピソードについても紹介していきたい。さらに物語を生んだ背景に存在すると思われる「明治のこころ」を紹介したい。

2.映画化の「物語」〜静なる山が動きだす〜

今、冒頭部分の続きをどう書き出そうか、考えている。この物語の本質とは異文化の民と民との友情から育まれた絆であろう。つまりエルトゥールル号の物語の核心部分は、エルトゥールル号を介して日本とトルコの立場を超えた熱い「友情物語」であると思った。それでは続きに戻ろう。

田嶋の決意は変わらなかった。医師たちの手紙に綴られたその内容を知ってから、本気になった。何が何でも映画化にこぎ着けよう、そういう思いが日々膨らんできた。

その医師たち三名の手紙には次のような文章が綴られていた。

本日、閣下より薬価・施術料の清算書を調成して進達すべき旨の通牒を本村役場より得たり。然れども 不肖 素より薬価・施術料を請求するの念なく、唯唯 負傷者の惨憺を憫察し、ひたすら救助一途の惻隠心より拮従事せし事 故 其の薬価治術料は 該遭難者へ義損致し度 候間 此の段 宜敷く御取り計らい下されたく候也。

内容を要約すると、次のようなことだろう。負傷者69名の薬代と診察料は請求するまったく気はなく、唯々、負傷者の事が気がかりで、救助したい一念で治療を行った。この人たちが困っているのを見て、我が身のことと同じように心を痛めている。むしろ薬代と診察をこの人たちのための義捐金として取り計らっていただきたい。

いわば貰うのではなく、逆に寄付したいというのである。当時のこの手紙は、普通のこととして扱われたため、今まで埋もれていたと思った。現代社会であれば、美談として注目を集めよう。しかし明治の頃の日本人には、ごく普通の事であったのである。諺の「情けは人のためならず」が生きていた。後年、田嶋はその事を理解した。

一方、町長一期目ということもあり、町行政全般を把握するのが精一杯の状況だった。

それゆえ、思いはあるが、なかなか実行には動き出せなかった。悔しいが、それが現実の姿であった。そして瞬く間に一期目が終了し、二期目を目指す町長選を迎えた。

2005年の町長選には、有力候補者が立候補してきた。当初の前評判では、現職ということもあり、鼻の差でリードしていると思われたが、選挙戦が始まる頃には、逆転されている状況に変わっていた。内心では焦りが生じてきたが、周囲には悟られぬよう、極力、顔や態度には出さないよう心掛けた。そして家族にも、明るく振る舞った。

政治家にとって、選挙とは“生きるか死ぬかの戦い”である。落選すれば、その時から「只の人」になってしまう。その落差の大きさは、成ったものでしか分からない味わえない経験である。そして田嶋は、味わいたくない経験をすることになる。激しい選挙の結果、落選したのである。

落選後、しばらく何も手が付けられない状態を過ごしていたが、一か月が過ぎようとしていた頃、やっと気持ちを切り替えることにした。浪人生活を送る以上、この期間しかできない事柄をしようと思ったのである。ちょうどその時、思い浮かんだのが、エルトゥールル号の事だった。そういえば、手つかずのまま放置していたことに気づいた。「よし、これをやろう」と、そう心に決めた。それからの動きは早かった。どうしたら映画化できるのだろう。

田嶋には、一つのアイデアがあった。それは大学時代の友人である田中光敏である。大学時代、友人の一人として飲みながら、夜遅くまで、学生談義をやっていた仲である。その田中も大学卒業後、映画の道に進みつつあった。田中はすでに「化粧師」(東映)を製作して、新進気鋭の映画監督として、注目を集めていた。そして「精霊流し」では2003年度日本映画復興賞・奨励賞を受賞しており、着実に名監督としての地歩を固めつつあった。その田中にエルトゥールル号の資料を集めて手紙を出した。

そして田中のもとに手紙が届いた。田中は差出人を見て、「何だろう」という驚きと懐かしさを覚えた。というのも、大学時代はよく顔を合わせ、学生らしく和気藹々と付き合っていたが、卒業後は忙しく中々会う機会がなかった。そんな田嶋から、分厚い手紙が届いたのである。手紙を開けてみると、資料とともに、長文の手紙が綴られていた。樫野の人たちの献身的な救出活動とイラン・イラク戦争においてのトルコ側の対応について、びっしりと書いてあった。読み進むうちに、田嶋の熱い思いが伝わってきた。そして手紙の最後に、まちの誇りである物語を映画化させてほしい、そう結ばれていた。言外には、この映画化は田中にしかできないという思いが伝わってきた。うっすらと涙目になりながら、その手紙を書斎の机の上に置いた。確かに〈いい話である〉。しかし映画化には、単に〈いい話〉だけでは難しい。そのことを一番理解していたのが田中であった。田中は友からの依頼だが、今は心の隅に置いておこうと思った。

田嶋も考えていた。手紙だけで事がなるはずがない。田中を現地に呼んで、生の現場を体験させ、そこから聞こえる声なき声を届けようと思った。田中の心を動かすのである。田嶋は頃合いを見計らって、電話をかけた。「串本町に映画の宣伝にこないか」と。田中が断れないことを知って、そう誘ったのである。当時の田中は、映画「火天の城」が封切られようとしており、映画の宣伝なら何処にでも行こうと考えていた。そして〈この誘いに乗っていってみよう〉と思った。

串本駅を降り立つと、田嶋が待ち構えていた。「ひさしぶりだなぁ」と田中が声をかけると、田嶋は、挨拶もそこそこに「行ってほしいところがある」と顔を合わすなり真顔で言った。車に同乗し、お互い久しぶりに会ったこともあって、学生時代の昔話や映画の仕事の話に花が咲いた。しかし肝心の映画の宣伝の話は何処かに消えていた。そうこうしているうちに、樫野にやってきた。田嶋と田中は早速、トルコ軍艦エルトゥールル号殉難将士慰霊碑へと向かった。そして、長年に渡り、地元の人たちや大島小学校の生徒達の手で、この慰霊碑は通年、清掃されており、いつも綺麗に手入れされていることを話した。

田中は〈明治のまごころが現在にも受け継がれている〉と思った。そしてトルコ軍艦エルトゥールル号殉難将士慰霊碑の前まで来ると、新聞社やテレビ局などのマスコミが待ち構えていたのである。

平成21年10月28日 読売新聞 和歌山版
平成21年10月28日 読売新聞 和歌山版
平成21年10月28日 毎日新聞 和歌山版
平成21年10月28日 毎日新聞 和歌山版

「いつ映画をつくるのですか」と一斉に訊ねてきた。田中は内心〈う〜ん、困ったなぁ〉と思ったが、地元がここまで既成事実化しているのなら、〈やるしかないかなぁ〉と思った。そして、何も決まっていないにもかかわらず、映画化に向けての話を披露した。この時が、まさに映画化に向けて“静かなる山が少しずつ動き始めた時”であった。田嶋は〈俺の気持ちが分かる田中で良かった〉〈田中ならやってくれる〉〈持つべきは友である〉と思った。

一方、田中は〈やられた、しかし田嶋らしいなぁ〉〈よぅし、やってやろう〉と思った。田中はこの物語に秘められた“まごころ”に内心打たれていた。映画化は難しいけれど、何故か、頭の片隅にはいつもこの物語が存在していた。そのこともあって、一肌脱ごうと心に決めた。決めた以上は、〈何が何でも映画化をする〉と心に誓った。そしてこの時、二人の間で会話こそなかったが、目を見ればお互いの心と心が通じ合った。日本とトルコがエルトゥールル号を介して固い友情を育んだように、この二人の間にも固い絆がしっかりと結ばれた瞬間でもあった。いわばもう一つの「友情物語」がここにもあった。

【追記】
このエッセイを書き記すに当たり、田嶋町長にインタビューをさせていただいた(平成26年10月15日)。その中で、町長は「月命日には必ず花を手向けに言っていますが、最近、誰とはなしに花が生けられていることが多くなりました。この物語の地域への広がりを感じています」と述べられた。印象的な言葉であった。

そして映画化については、田中監督の友情に深く感謝するとともに、NPO法人「エルトゥールルが世界を救う」の関係者の方々に対して心からの感謝の言葉があった。さらに、駐トルコ大使の横井裕氏がいなければ、映画化がここまで盛り上がることはなかったと断言された。横井氏は、駐トルコ大使の内示が出るや否や、串本町の慰霊碑にお参りに来た。かつてそこまで行った駐トルコ大使は、いないと思われる。そして、町長のお話から、横井氏の並々ならぬ熱い思いが伝わってきた。

インタビューの締めくくりに、今後の取り組むべき方向について尋ねさせていただいたところ、次のような返事が戻ってきた。「この物語にある当時の人たちの心をしっかりと子供たちに伝えることが大事だと思います。そしてその上で、この物語を活かして、町の活性化も見据えていきたいと考えています」と。私はこの言葉を聞いた時、二宮尊徳の名言を思い浮かべた。「経済を忘れた道徳は寝言である。道徳を忘れた経済は罪悪である」一見相矛盾すると思われる“道徳”と“経済”。その二つを活かし、揚棄・調和させ、町の活性化へと、是非導いていただきたい。

(筆力も顧みず、実名小説スタイルで冒頭部分から書き始めたので、関係者の方々にはご迷惑をかけるとともに、敬称は省略させていただいた。ここで、登場人物である串本町長の田嶋勝正氏並びに映画監督の田中光敏氏に重ねてお詫び申し上げたい。)

3.二つの“エピソード”

エピソードVol.1 NPO法人「エルトゥールルが世界を救う」

2010年の出来事である。「エルトゥールル号の事を知っていますか?」トルコのJC幹部は、突然、会うなり訊ねてきた。地元の人なら誰でも知っていると思ったのだろう。そして「もちろん知っているとも!」こういう返事が返ってくるものと期待していた。しかし事実はまったくの真逆であった。理事長の西廣真治をはじめ和歌山JCのメンバーのほとんどが、エルトゥールル号の物語を知らなかったのである。何のことかわからず、一瞬、メンバー同士が顔を眺め合った。 怪訝な顔をし、戸惑う和歌山JCのメンバーを前に、トルコ側は「えぇ・・」という言葉を顔に浮かべていた。その当時のことを西廣は「地元の歴史を知らないことに恥を感じた」と述懐している。

世の中の出来事には、不可思議なことがある。例えば、かえって知らない方が、幸いすることがある。この場合もそうであろう。いわば返って興味が湧いてきたのである。このことがきっかけで「エルトゥールル号」に興味を抱き、串本にあるトルコ記念館や慰霊碑などを見学しようと冨田博文に声をかけ出掛けることにした。そして串本の知人から、「エルトゥールル号の物語」を詳しく聞きながら、通称「船の墓場」と呼ばれている樫野灯台の難破した現場などを見て回った。

夜、夕食の席に串本JCにも所属していた田嶋がやってきた。そこで田嶋から映画化に対する熱い思いを聞いた。西廣たちの胸には、田嶋の熱いものが伝わってきた。〈よぅし、俺たちもやってやろう〉ここでも友情の絆が太く結ばれようとしていた。そして、このことをきっかけに、浦聖治(串本町和深出身)とこの件に関して、さらに意気投合しNPO法人「エルトゥールルが世界を救う」が立ち上がることとなったのである。

(ノンフィクションスタイルにしたため、本来なら西廣真治氏、富田博文氏、浦聖治氏と書くべきところ、敬称を省略させていただいた。なお理事の西廣氏は「ちひろ」の代表取締役社長として、理事長の浦氏は「エスアールアイ」の代表取締役社長として、理事の富田氏は「マルトミレンタ」の代表取締役社長としても現在、ご活躍されている。)

エピソードVol.2 高星輝次氏の体験談

【高星氏は、実際に、テヘランからトルコの飛行機で脱出された方】


私は、自動車関係の仕事で、イラン・イラク戦争時に赴任しました。赴任時(1984年10月)テヘランにいる限りは、戦争をしているとは思えないような状態だったのですが、明けて1985年3月に入って、戦争が拡大され、イラン南部の石油の町が壊滅的な攻撃を受けました。国境近くの局地戦だったのが拡大され、全国的な広がりを見せてきたのです。そしてテヘランが空襲され、ホテルの地下室で避難生活をするはめになりました。そうこうしているうちに、大使館から日本人会を通じて、トルコの飛行機が飛んでくるので、乗ってくれと言われました。空港に向かうと、爆弾の音があちこちからしていました。空港の中も騒然とした雰囲気で、ロシア人が出発カウンターを占拠して身動きが取れない状態でした。ロシア人に話を聞くと、「あなた方と違い、うちの国はあぶなくなったら、置いて行かれる」と述べ、我先に飛行機にとのことだったのです。やっとの思いで、トルコの飛行機に乗り、飛び立って、暫くすると、すぐ横に戦闘機二機がピタリとついているのです。戦闘機には国旗のマークが入っていない。敵なのか味方なのかわからず大変不安な思いをしました。2010年になって、このときの機長と会うことができた時、初めて分かったことですが、トルコの空軍が、イランの領空を侵犯して護衛に来てくれたのです。イラン在住のたくさんのトルコ人は、陸路でイランから逃げました。国境近くにはゲリラがたくさん潜んでおり、決して安全な避難ではないのです。日本人だけのために飛行機を出したのです。そしてその飛行機のパイロットや乗務員はすべて志願された方ばかりと聞きました。トルコの自国民より日本人を優先して救助したこのオザル首相の英断について、トルコ国民は誰一人問題にしなかったといいます。多くの日本人はこの事を知らないのではないでしょうか?今回の映画化でこの美しい二つの歴史的な出来事が多くの日本人そして世界の人に知っていただきたいと思っています。(平成26年2月の和歌山市内の講演会にて)

4.明治のこころ(結び)

今、私の手元には、「明治のこころ〜モースが見た庶民のくらし〜」(青幻舎)がある。そこには、明治の庶民を写した一見何気ない写真が表紙を飾っている。一見何気ないと言ったが、実は何気があるのだ。それは笑顔である。子供たちを中心に十三人の庶民がこんな素直に笑っている写真を見たことがない。いわばここにいることの嬉しさが、表情を埋め尽くしている。現代の日本でこれほど美しい笑顔のある写真が、撮影されるだろうか。私には疑問である。そしてこの本のあちこちには、そんな笑顔が溢れていた。明治の日本人の心の在り様がこの笑顔に間違いなく顕現されていると思った。何故、明治の日本人は、このような自然な笑顔が表情に出るのだろうか。不思議である。

この本の主人公であるエドワード・モースは米国の生物学者で大森貝塚の発見者として有名である。そして滞在日記の『日本その日その日』(Japan Day by Day 1917)の著者としても知られている。

この滞在日記は、西洋の科学者らしく極めて客観的に明治初期の日本の“姿”を描写した資料として高く評価されている。(そしてこの滞在日記をもとに「明治のこころ 〜 モースが見た庶民のくらし〜」が江戸東京博物館の手によって編集され著された)

そこに描かれている明治の日本は、老いも若きも富める者も貧しき者も、等しくきれい好きで、ものを大切にし、自然を愛し、礼儀正しく正直であることを繰り返し述べている。いわば他者への思いやりに溢れているというのである。例えば次のような記述である。

人々が正直である国にいることは実に気持がよい。私は決して札入れや懐中時計の見張りをしようとしない。錠をかけぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使いは一日に数十回出入りしても、触ってならぬ物には決して手を触れぬ。」

「外国人は日本に数ヵ月いた上で、徐々に次のようなことに気がつき始める。即ち彼は日本人にすべてを教える気でいたのであるが、驚くことには、また残念ながら、自分の国で人道の名に於いて道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を、日本人は生まれながらに持っているらしいことである。」

「衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正さ、他人の感情についての思いやり・・・・これ等は恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である。」(注1)

この本を読んだほとんどの日本人が、例外なく「現代の日本が忘れ、失いつつある、何か大切なもの」(注2)を感じるだろう。おそらくそれは、日本人が古くから宿していた“日本らしい心”ではないかと思う。本居宣長の「やまと心」(注3)である。いわば、それが生活の中で自然な笑顔を生み出していただろう。そして連綿と明治の頃までその姿をとどめていたに違いない。モースは、明治の日本人に“明治のこころ”を見出した。この“明治のこころ”は、まさに日本人の本然の姿でもあったのである。そして、この本来の日本人らしい“やまと心”こそが、エルトゥールル号の物語を生んだと思う。

【追記】
当研究所の谷奈々研究委員が、「エルトゥールル号事件にはじまるトルコと串本町の友好」について詳細に調査したレポートを平成22年7月発行の機関誌62号に掲載しています。

出典

  • (注1)、(注2)
    エドワーズ・モース著石川欣一訳『日本その日その日』(講談社学術文庫)の解説より引用。

  • (注3)
    本居宣長「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」より引用。

(2015.12)
(執筆者の所属、役職等は発表当時のものです)

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