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和歌山の歴史・文化の豊潤さ

研究員  谷 奈々

1.IT時代における文化の重要性

20世紀の工業社会は、大量生産・大量消費の時代で、「早く、安く、効率よく」を追求してきましたが、その結果、もたらされたものは、繁栄の影の環境破壊であったり、様々なストレスや社会のひずみ、人間性喪失でした。

和歌山県で、1999年に開催された南紀熊野体験博では、キーワードの一つであった「癒し」という言葉が流行語大賞(トップテン)を受賞するなど、全国に先駆けてそのブームを形成し、「癒し系」や「癒しグッズ」なる造語も現われました。また同時に、地域の文化や自然環境、歴史、伝統を再確認し、地域内だけでなく、都市住民との交流も活発になってきました。

そのような潮流の中、情報化のめざましい進展をささえる魅力あるコンテンツとしての文化の多様性が、これからさらに重みをもってきます。なぜなら、この21世紀は、「文化とか、アート、遊び心とか、ゆとり、こだわり」というものが、人が快適に生活するための不可欠な要素となると思われるからです。ここでは、いかに和歌山の文化が贅沢なものであるか、熊野、高野、根来、世界遺産のことなど、おもに歴史資源について述べたいと思います。

2.資源の活用・認識

和歌山には、国宝や重要文化財をはじめ、歴史遺産が多くあります。たとえば、国宝の数では全国で6位です。これは特筆すべきことです。1位はもちろん京都で、2位は東京。(東京には、工芸作品や書が多い。)3位は奈良。この3都府県で、国宝全体の7割近くにのぼります。ついで、4位が大阪、5位が滋賀で、6位が和歌山です。35の国宝があります。(ちなみに、日光東照宮のある栃木県は10位で、国宝の数は和歌山よりはるかに少なくて、16です。)

これは、ほんの一例で、和歌山は歴史遺産だけでなく、自然環境も豊かで、農林水産資源にも実に恵まれています。見方を変えると、切迫感がない。さらに、醤油や鰹節など、和歌山が発祥地であるのに、地元で大きな産業に育てたり、プレゼンテーションが苦手です。そのためのノウハウやマネジメントが、益々重要になってくると思います。

よく「ブランドづくり」ということが言われますが、ブランドが認知されるためには、その国や地域の、歴史や伝統、固有の文化とそれに対する誇りがもとめられます。IT社会が進めば進むほど、いわゆる「ブランド」を形成する文化の中身の重さが問われます。

3.古代の和歌山は「国際都市」・朝鮮半島との関わり

和歌山市の大谷古墳から、「馬冑」という、馬の顔をおおう、フルフェイス・ヘルメットのような武具が出土しています(重要文化財)。博物館にあるのは、レプリカで、本物は文化庁に保管されています。ほぼ完全な形で発掘されたのは、日本で唯一、和歌山だけです。

このことは、紀元5世紀か6世紀、大和朝廷が朝鮮半島に進出した時代、先進地であった大陸の文化が、日本に至る道の入口が和歌山であったということで、その頃の和歌山は、今、私たちが想像する以上に、はるかに国際都市であり、国内外に開かれた地域であったのです。

和歌山市岩橋にある「岩橋千塚古墳群」は、600基以上の古墳で、古代の豪族として、朝鮮半島に進出して大活躍した、紀氏のお墓です。その埋葬品には、弓をもった武人や相撲の力士、入れ墨をした顔の埴輪もみられます。紀氏の一族の中には、大将軍として軍船や軍隊を率いて、朝鮮半島に赴いたり、都で政治に関わり、壬申の乱などにも関与しましたが、やがて政治から遠ざかり、後に紀貫之らの文人を輩出しました。

また、紀ノ川河口一帯の海岸沿いや泉南地方で巨大な勢力をもっていた紀氏の一族は、紀伊国造として、氏神である日前と国懸宮(日前宮)の祭祀者になりました。日前宮は、伊勢神宮と同格の、最も古い歴史をもつ神社です。

4.都から経済と文化をもたらした「熊野詣」

那智山の青岸渡寺は、西国33ヶ所の第1番札所ですが、元は、大和の長谷寺が出発点で、京都が終点でした。それが、那智山がスタート点に変わったのは、背景に、熊野信仰という精神文化が広まり、流行したからです。

熊野の修験者が、熊野三山で体験した不思議なエピソード、霊験あらたかな印象が、都や各地に口伝で伝えられ、平安時代、僧侶や貴族、法皇や上皇も参詣しました。

熊野三山で74里(300キロ)を約1ヶ月かけて歩き、お付きの従者を従え、800人〜2000人という大きな団体もありました。蜿蜒と続く「蟻の熊野詣」の列です。彼らの食糧は、荘園から調達したという記録もあります。

道中に九十九王子が設営され、休憩や水垢離等の儀式、お神楽や歌会、色々なゲームも行われました。熊野詣は、参詣回数を競うスタンプラリー的な面もあり、先達が、ツァーコンダクターとして道案内する今で言うパッケージツァーであり、まさに和歌山は、観光産業の発祥地、リゾートの先進地でした。

5.高野山と南龍公・初代紀州藩主徳川頼宣

高野山は、空海が816年に、嵯峨天皇の勅許をえて、丹生都比売神社の神領の地に修行道場をひらいたものです。(国宝23点・重要文化財177点)

空海入定後に完成した伽藍も、994年の大火で炎上し、その後、5度も大火に遭いましたが、11世紀に入り、藤原道長や藤原頼通の参詣により、本格的に復興しました。

元々、日本人は「山中他界」という、山には死者の魂が寄り集まる、という信仰をもっていて、8月のお盆の「万灯供養会」では、10万本ものろうそくが参道の両側を埋めます。

高野山が「天下一の菩提所」といわれ、高野山への納骨信仰が盛んなのは、空海の入定信仰と、高野聖の活躍、さらに300年間支配した徳川幕府の絶大な権力が背景にあり、中世から現代に至るまで、宗派を超えた信仰の地、聖なる場所です。

最も古い供養塔は、源氏の祖先、多田満仲(源満仲)のもので、鎌倉時代のものといわれます。

ここに、江戸時代の初代紀州藩主である徳川頼宣(南龍公)のお墓もあるのですが、とてもこじんまりした質素なもので、「墓は小さいものでよい。無駄な金を使うな」と言い残したと言われています。(それに比べて、伊達政宗のお墓は、2階建てほどの大きさの巨大な五輪塔と、その周囲を20基位の小さな五輪塔が取り囲んだ壮観なもので、対照的です。)

南龍公は、父家康を祀る廟所として和歌浦に東照宮を、また、母お万を弔う養珠寺を造営しました。経済政策として新田開発し、米の収穫量の拡大をはかる一方、特に名勝地和歌浦の自然景観を重視し、名所旧跡を保存し、開発との調和を図りました。また、文化面でも、京都から茶人千宗左を迎え、茶道・表千家が広まりました。幕府の御用絵師を迎え、絵画普及の素地をつくり、儒学者を招いたり、城下では、歌舞伎や「紀伊続風土記」「紀伊名所図会」等の出版も盛んに行われました。文人画の祇園南海や儒者仁井田好古、茶人川上不白らを輩出、人が育ち、文化が栄え、町に活気がみなぎっていました。

6.大宗教都市・根来寺

根来寺は、中世の遺跡としては、日本三大遺跡の一つとされ、他の2つは、武家屋敷跡の福井・朝倉遺跡、民家跡の広島・草戸千軒遺跡です。

昭和51年の発掘調査で、450をこえる中世の坊院跡がみつかり、そこから、坊院名の記された根来塗りの器や、2石、3石入りの備前焼の大がめが100個以上も出土する等、この一帯が、いかに豊かな経済的拠点であり、かつ大宗教都市を形成していたかが想像されます。

また、根来系の大工は各地で大活躍し、その高度な技は、桃山町の三船神社や、さらに京都や仙台でも棟梁として伊達家に招請されたり、江戸幕府の大棟梁として日光東照宮の建造にも関わり、全国に匠の足跡をのこしています。

7.和歌山の地理的・文化的位置

和歌山は、古墳時代、大谷古墳や岩橋千塚古墳の出土品にみられるように、大陸文化と密接に関わり、影響を強く受けた大豪族がいました。奈良・平安時代は、高野山や熊野三山に、貴族から庶民まで多くの参詣者を迎え、山岳宗教の中心地でもありました。これらのことは、和歌山が国内で特出した魅力的な位置を占めていたことを示しています。

視点を外に向ければ、新宮の徐福伝説など海外文化の伝来・交流の地であり、紀州漁法等の技術が和歌山から他の地方へ伝えられました。回船による交通路が瀬戸内海から九州、東北へも及び、明治以降は移民等、海外移住も盛んです。海に突き出た半島である和歌山は、外へも大きく開かれた地域でした。

また、日本の時間の標準となる東経135度の経線が明石市をへて、友ヶ島を通り、日本列島の地理的中心に位置しています。

内陸的、外洋的な2つの性格を併せもつ和歌山は、その地理的位置を恵まれたものとすべく、新しい未来展望を描くことがもとめられています。

8.世界遺産の最大の保全方法は、活用すること

高野・熊野には、第一級の文化遺産が、時代を超えて大切に保管されてきました。これは、世界に誇りうることです。文化財は、それらを保存し、次世代に継承されることは当然のことですが、ただそれだけでは無意味です。「遺産の最大の保全方法は、活用すること」と考え、積極的に利活用しながら、修復・保全をすすめねばなりません。

世界遺産は、保護・保全すべき対象として一元的にとらえるのではなく、様々な新しい価値を引き出すものとして、システマティックな関係を構築する必要があります。

「世界遺産の価値の高まり」と「観光客・交流人口の増加」は、リンクしていて、相乗効果がある。つまり、保全活動と観光振興などの経済活動は、循環構造であり、住民が、自分達が住む地域への共感や帰属意識を高めることにもつながります。

一面では、危険で困難な行為ともなりかねない遺産の活用について、私たちが、自身の生き方の問題として、真剣に向かい合い、「遺産とともに歩む」ことによって、より豊かな知的・文化的生活をおくることこそがめざすべきものであり、保護のための法的な規制等は、遺産を保護するための方策であると同時に、地域の住民がそのような共通の認識を形成するためのプロセス、手段でもあります。

※本稿は、平成14年10月17日、和歌山県民文化会館大ホールにて開催された「木村知事を囲む“わきあい愛フォーラム”」における筆者の発言内容を基にしたものである。

(2002.12)
(執筆者の所属、役職等は発表当時のものです)

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