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泉州・繊維産業の歴史を伝える――旧・中林綿布工場における産業遺産の活用

主任研究員  谷 奈々

1.近代化遺産・産業遺産

近代化遺産とは、概ね江戸末期から昭和20年の第二次世界大戦終了時までの間に、わが国の近代化を支えた、欧米の先進的な手法を用いて建造された産業・交通・土木等に関わる種々の建築物、工作物等の建造物である。そして、産業活動に関する歴史的な意義のある物的資料を産業遺産と総称し、具体的には、近現代産業の形成と発展に重要な役割を果した建築構築物・橋梁・鉄道・鉱山等の施設・設備、さらに機械類・道具・製品・材料・写真・図面等が含まれる。

わが国は従来、古い伝統的な文化の面に重点をおいて、埋蔵文化財や寺社等の古い建築物の保護につとめてきた。しかし、比較的新しい時代に造られた日本の近代化・工業化の足跡ともいえる上記の建造物等は、技術革新や産業構造の変化、経済効率の優先等により、地価の高騰した都市部を中心に、猛烈な勢いで取り壊しや改変が進み、高層ビルやマンションに姿を変えている。このままでは、わが国の科学技術の基礎を築き、工業化を牽引してきた近代の記憶は、具体的な形のない文字や写真にとどまるのみで、その時代の歴史の証人としての文化的価値を失うことともなる。

これに対処するため、各地で行政、関係機関等を中心に、所在調査や文化財としての保存対策策定のための活動がなされ、地域の発展を担った産業の記録や、現在も残る遺産・遺構から読み解く技術発展の歴史等、多角的な観点から調査がおこなわれている。

平成17年6月に発足した近畿産業考古学会(事務局:京都大学 総合博物館内)は、このようなまだ一般には余り認知されていない産業遺産としての価値を科学的に評価し、広く周知をはかり、結果として遺産・遺跡の滅失を阻止し、後世へ引き継いでいくことを活動の一つの目的として組織された。会員自らが産業遺産・遺跡の調査を行い、学会誌や研究会で発表するとともに、その対策・保存のための方法を考えるものである。

平成18年6月、本年度総会及び見学会が大阪府泉南郡熊取町で開かれ、私も会員として参加した。見学会では、昭和初期に建設され、この地域の繊維産業の歴史を語る上で重要な産業遺産であり、特に汽罐室・受電室等は町の指定文化財となっている旧中林綿布工場を訪ね、煉瓦造りの外観を活かし、現在は町の交流センターとして整備し、活用されている「煉瓦館」について、熊取町教育委員会教育次長田中豊一氏による説明をうけた。

「煉瓦館」全景
「煉瓦館」全景

2.旧・中林綿布工場の盛衰

旧汽罐室(ボイラー室)
旧汽罐室(ボイラー室)
ボイラー室にあった煙突は失われている
旧受電室
旧受電室。中林綿布工場創業当時の建物。
煉瓦はオランダ積み(イギリス積みの変形)

ランカシャーボイラーの缶板の保存。
設置されていたボイラーの規模が分かる。
煙突は失われている。

中林綿布工場は、熊取町紺屋・五門に所在する。総面積約2万uの敷地に建てられた煉瓦造工場である。住吉川をはさんで、明治・大正に建設された紺屋工場と、昭和2年に建設された五門工場が存在したが、現在、紺屋工場で現存するのは、受電室のみである。

その創設は、明治30年、中林孫次郎(9世)が、工場を設立して綿布製織を開始したことによる。その後、分工場を建設するなど経営の拡大発展を図り、大正9年に合資会社を設立した。

昭和3年頃には、現存する工場群を建設し、同10年に株式会社設立。この隆盛期、工場周辺にはダンスホールや劇場、飲食店が軒をつらねる熊取銀座と呼ばれ、熊取の人口の15%が中林綿布工場に何らかの形で関わっていたという。

第2次世界大戦中の大恐慌には、社会的な激変の中、技術革新及び経営の改善・合理化をすすめたが、昭和20〜30年代を境に、産業構造の変化や中国等外国からの急激な輸入製品の流れに抗しきれず、縮小を余儀なくされ、遂に平成4年、操業を停止した。

現在、敷地内には、事務所棟、倉庫2棟、汽罐室等を連結した形で4,931uを有する工場群(西棟・東棟)や旧工場当時の受電室、従業員食堂兼休憩室等が存在する。

現存する工場等の建設年代については、『建築認可申請書』によると昭和3年4月に大阪府知事宛に申請、竣工期日は同年11月30日となっている。また、建設時の様子を彷彿させる貴重な資料である『諸経費支払簿』によれば、大阪窯業株式会社への煉瓦の支払は、昭和3年1月から同4年3月の間に11回に及んでいる。また、現在も使用されている中谷源重商店窯業部への泉州瓦の支払は昭和3年3月から6月の4ヶ月間の支払が最も多い。その間、「煉瓦屋・屋根葺屋・大工・左官・棟瓦上ゲ賃・屋根土運ビ賃・砂利・砂代」等の文字が多数みられる。

昭和3年7月には、「硝子上ゲ賃」が多額に上り、おそらく特徴ある鋸屋根北面の嵌め殺し窓のガラスをさすと思われ、棟上が完了したと思われる。それ以降は、内装工事が並行して行われたようで、建具代・塗装工賃・電気工事費等が各業者に支払われ、昭和3年9月から年末にかけて、設計手数料・謝礼が支払われている。昭和3年12月31日の記録簿には、「新工場」と明確に記載され、ほぼ完成したものと思われる。

この工場の設計者は、泉佐野市出身の池田谷久吉氏で、池田谷氏は大阪府に奉職した後、建築設計事務所を開業した。主に木造建築の学校・病院・社寺・工場建築を手がけた。

明治の創設以来、幾多の試練を越え、また全国的に明治・大正期の近代的工場の多くが失われている今、熊取町は、残存状況が良好な「汽罐室・受電室・事務所棟」を文化財に指定し、保存を図るとともに、その歴史的価値や文化的意義を、この地域における新たな魅力の発信基地として活用したいとしている。

【指定文化財の概要】   平成15年3月3日指定
  • T 種別  有形文化財(建造物)
  • U 名称  旧中林綿布工場
  •    (1)汽罐室(109.41u) 一棟
  •        煉瓦造(オランダ積み)平屋建
  •        屋根切妻造、桟瓦葺
  •    (2)受電室(30.34u)  一棟
  •        煉瓦造(オランダ積み)平屋建
  •        屋根切妻造、桟瓦葺
  •        四方の突出部付き
  •    (3)事務所棟(143.29u) 一棟
  •        木造平屋建
  •        小屋組(洋小屋・梁行に桁行一間毎に真束小屋組を組む)
  •        屋根寄棟造、桟瓦葺
  •        下屋庇
  •    附 ランカシャーボイラー 一基
  •       広幅綿織機      一機
  •       乾板写真       三枚
  • V 所有者  熊取町

3.旧・中林綿布工場の活用とまちづくり

平成4年に中林綿布工場が操業を停止した後、その跡地にマンション建設計画が持ち上がったことが、この活用計画の発端である。

町では、隣接する国指定重要文化財の「中家住宅」(※中家は、平安時代、後白河法皇が熊野行幸の折に立ち寄り、仮設の御所である行宮とした由緒ある旧家。昭和39年5月29日指定)の活用保全と併せて、総合計画の中で「歴史とふれあいの拠点」と位置付け、関係する用地の買収を決めた。

平成7年に工場敷地・建物の所有権を熊取町に移転、整備を進めることとなった。並行して、住民参加によるワークショップで基本的な整備の考え方を2年間検討した。

平成10年4月、(財)日本ナショナルトラストによる観光資源保護調査を実施、11年に同トラスト助成の保存活用調査で、整備プランをまとめた。さらに平成13年には、具体的な「旧中林綿布工場保存活用基本計画」を策定、整備手法を国土交通省のまちづくり総合整備事業「公園整備・道路整備・地域交流センター」として、国の補助事業の採択をうけることとなった。(センター整備費:11億7千万円)

平成15年3月、町文化財保護審議会の意見により、中心施設「汽罐室・受電室・事務所棟」を指定文化財、「ランカシャー(2炉筒横型丸)ボイラー・広幅綿織機・乾板写真3点」を附として保存展示した。

当時、事務所棟は、一部壊されて他の建物が建っていたため、建設当初の設計図を入手し、既存部分を解体修理し、なくなっていた部分を復元した。しかし、この建物は木造のために、現在の建築基準法・防火基準に適合せず、大阪府の建築審査会に適応除外申請を行い、認可された。このようにして、建築当初の様式を復元することができた。

4.煉瓦館の誕生

平成16年9月、(仮称)地域交流センターは、町民に愛称を募集し、「煉瓦館」に決定した。17年2月に建設工事終了、同年11月3日、旧中林綿布工場は、町民に愛される交流と新しいコミュニティづくりの中核施設としてオープンした。

施設内には、地場産品の紹介・販売の場や、レストラン、「紺屋」の地名に名残をとどめる藍染め工房、ギャラリー、種々のホール等、新しい機能や楽しみの場もあり、また、隣接する重文・中家住宅との連携活用の可能性や相乗効果は大きい。

昨年11月の開館以来、半年間の利用者数は、当初、予測した4万人を遥かに上回る7万人。説得力ある数字である。

煉瓦館
煉瓦館

参考資料

  • 「町指定文化財」 熊取町教育委員会 h17.3
  • 「大阪府熊取町の中林綿布工場のランカシャ・ボイラ及び広幅綿織機の調査報告書」
         関西大学 下間 頼一、他 h15.3
  • 「近畿産業考古学会」設立趣旨 h17.6
  • 「中部産遺研会報」 h18.4

(2006.8)
(執筆者の所属、役職等は発表当時のものです)

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