ホーム | サイトマップ | リンク

ホーム > レポート > 産業 > 鉄砲+鉄道+黒壁――長浜市における産業資源の活用

鉄砲+鉄道+黒壁――長浜市における産業資源の活用

主任研究員  谷 奈々

1.はじめに――長浜モデル

一度行ってみたいと思いつつ、今まで機会がなかった滋賀県長浜市に、先日、休日を利用して、黒壁街区や市内のいくつかの施設を訪れた。生き生きした老若男女が行き交う街の賑わいに驚くとともに、多様な地域資源――歴史・文化・産業・経済・住民力の実に巧みなブレンドとそれに伴う相乗効果に首肯した。

地域経済の活性化について語る際、雇用創出につながる地域再生のメカニズムを2つに大別することができる。その1つが「長浜モデル」と呼ばれるものである。

1980年代半ばから、長浜市では住民参加型のまちづくりが展開され、際立った成功事例としてしばしば表彰されるほどの成果をあげた。その中心的な担い手は、昭和63(1988)年に第三セクターとして設立された株式会社黒壁であり、また、同年、株式会社西友を核店舗とする新商業集積「長浜楽市」が国道8号線沿いに出店して話題を呼んだ。このような流れの中で、長浜の歴史、文化遺産を活用した整備や事業展開が行われ、全国的な注目を集めた。

長浜モデルとは、一言で言えば、「第三次産業の革新を起点」とする地域経済の活性化が雇用の創出をもたらすというものである。ちなみに、もう1つのメカニズム――「製造産業集積の活力維持、健闘」が地域経済の活性化、雇用確保に連関する――を「滋賀モデル」と言うが、長浜市が滋賀県に所在するのは、偶然の所産とのことである。

2.黒壁とフィギュアの海洋堂

【黒壁スクエア】

長浜市は、豊臣秀吉が城下町をひらき、楽市楽座により町衆を軸とした経済的発展をとげた歴史のある街である。市を南北に貫く北国街道は、かつて江戸日本橋を起点とした五街道に次ぐ重要な道で、多くの武将や旅人の往来、物資の運搬で賑わった。中でも、岐阜に通じる谷汲街道と北国街道が交差するところ(スクエア)は、その中心地であった。

ここに、明治33(1900)年、旧国立第百三十銀行長浜支店が建造され、洋風土蔵造りに黒漆喰の壁という和洋折衷のデザインから「黒壁銀行」の愛称で親しまれた。その後、建物の使用者は変わり、昭和29年からは長浜キリスト教会となっていたが、昭和62年、教会の移転により、建物が売却解体の危機に瀕することとなった。

【黒壁を愛する市民】

明治から昭和、90年もの長い間、街のシンボルとして愛された建物を惜しむ声が高まり、市民主導で、この地に息づく歴史と文化遺産を未来へ守り生かそうという気運が生まれた。その保存と中心市街地活性化の拠点としての活用を目的に、昭和63年、第三セクターで株式会社黒壁が誕生、江戸、明治の面影を残す古い街並みを生かしたまちづくりが始まった。

黒壁の創立時資本金は1億3000万円で、1000万円ずつを民間人9人が出資、残りの4000万円は長浜市が出資した。これにみられる地場の豊富な資金力、平成3年にJR新快速が長浜まで延伸し、大阪・神戸・京都という大都市からの集客にも幸いした。また、商店街再開発への大きな遂行エネルギーとなった市民ボランティア活動は、平成15年にNPO法人に認定された「まちづくり役場」(旧商家を改造)に結集されている。

【「ガラス文化の街」として再生】

黒壁銀行は、平成元年から原形復旧が行われ、世界中のガラス作品を集めた殿堂「黒壁ガラス館」として蘇った。黒壁がその看板となる「もの」として、「ガラス」に着目した理由は、理念として掲げた「歴史性・文化芸術性・国際性」という3つのコンセプトに合致し、加えて、地元企業と住み分けが可能で、当時未だ日本のどこにもなかった本物のガラス工芸文化を確立し、事業化をはかる、という国内初のガラスの本場となることを目指しての選択であった。

この「黒壁ガラス館」を黒壁1號館としてオープンした後、周囲の古建築を次々と美術館、工房、ギャラリー、カフェ、レストラン、郷土料理店等に再生した。その数は30號館に至り、ノスタルジックな趣が漂うガラスの街を演出している。400年の伝統をもつ、しかし一度は寂れかけた商店街が、今や湖北最大の観光集客地として変貌した。黒壁の年商は平成10年のピーク時で約9億円、その経済効果は約30億円と試算され、現在でも年間約200万人の来街者を迎えている。

【海洋堂の食玩、フィギュア】

黒壁スクエアで、一際、異彩を放っているのが、「海洋堂フィギュアミュージアム黒壁 龍遊館」であろう。日本で最初、世界でも初めてのフィギュアによるミュージアムである。

造形集団「海洋堂」は、平成11(1999)年、「チョコエッグ」という卵の形をしたチョコレートの中に動物の精巧な模型を入れた菓子が大流行し、子供だけでなく、どちらかと言えば大人のマニアを夢中にさせた。本来、おまけであるはずの食玩(食品玩具の略。戦前から続くグリコのおまけ等も)を収集することが唯一の購入動機(しかも大量に)となり、小山のようなチョコレートが捨てられる映像が、当時のテレビでも報じられた。

わが国の「食玩」文化のレベルは高く、怪獣・戦車・飛行機・鉄道・歴史上の人物、動植物等、あらゆる模型が精巧な職人技と細密な彩色でファンを魅了し、世界市場からも熱い視線を集めている。海洋堂で製作された古代エジプトの出土品の再現模型が、大英博物館のショップで売られているという。

【魔法の箱――ジオラマ展示】

「海洋堂フィギュアミュージアム」の玄関には、巨大なティラノザウルスの大きな口を開けた頭部があり、その奥には等身大のドン・キホーテが右手を上げて、来館者を歓迎する。館内には、スタッフが「魔法の箱」と呼ぶ250セットの箱型の「ジオラマ」(立体情景模型)がディスプレイされ、それぞれがフィギュアの舞台となり、恐竜と自然、ロボットやアニメヒーロー、映画や美少女…とカテゴリー別に演出され、地球の歴史をタイムスリップしたり、物語のシーンを形成している。

「フィギュアは、地球の遺産の再現である」という考えのもと、大型ネイチャーのジオラマでは、5億年前のカンブリア紀の海底の様子から、ベルム紀、白亜紀を経て現代の地球の生物の様子を覗くことができる。図鑑等の平面でなく立体でみる恐竜世界は、照明の劇的効果も手伝い、臨場感に満ちたものである。

「箱の中には、驚きや夢や楽しみ、感動までもが詰まっている」と館長は語る。そして、「どこにもない世界」すら、魔法の箱は私達に現出してくれるように思われる。

3.長浜鉄道スクエア

【3施設から成る鉄道博物館】

昨秋、改装されたJR長浜駅は、現存する日本で最古の駅舎として、昭和33(1958)年に鉄道記念物に指定された旧長浜駅舎をモデルにしている。この「旧長浜駅舎」と隣接して、「ヘリテイジセンター 長浜鉄道文化館」、D51形蒸気機関車および日本で唯一現存するED70形交流電気機関車の実物を並べ、運転士席に座ることもできる「北陸線電化記念館」が建てられ、3館を合わせて「長浜鉄道スクエア」と名づけている。これらは、明治の鉄道の姿を今に伝える歴史遺産として大切に保存展示され、訪れる鉄道ファンや観光客も多い(近くの慶雲館と合わせて年間約20万人)。JR新駅の隣地という交通の便もよく、長浜を代表する人気スポットの一つである。

【長浜人の先見の明と恵まれた立地】

長浜〜敦賀間の鉄道は、新橋〜横浜間、神戸〜大津間に次ぐ日本で3番目の官営鉄道路線として、明治15(1882)年に開通した。当時、明治維新政府は国策として鉄道敷設を進めていたが、庶民は陸蒸気を「煙を吐く化け物」として敬遠しがちであった。しかし、生糸や絹織物の外国貿易等で、江戸へ頻繁に行き来していた長浜商人達は、「鉄道」に将来性と有効性を確信した。全国でもいち早く誘致に動き、政府に「ステーション設置願」を出し、町の発展を期した。

政府が国運をかけて進めた鉄道敷設は、東京〜京都間を結ぶこと、太平洋と日本海を連結することが最重要課題であった。この施策の中で、水陸の要衝であった長浜が日本海方面への起点駅として地理的に重要な位置にあったことも建設を促すものであった。

【近代化遺産――旧長浜駅舎】

明治13年着工、15年に鉄道開通と同時に完成した旧長浜駅舎は、英国人技師ホルサムが設計し、彼の監督のもと、神戸の稲葉弥助が工事を請け負った。石灰コンクリート造2階建て、キングポストトラストという洋風の骨組で、壁の厚さは50pという分厚さである。四隅の角は花崗岩の切石を積み、窓枠等は煉瓦、両階に暖炉、彫刻入りの欄干、回り階段等、鹿鳴館調の建築様式で、当時の日本には斬新なデザインの洋館であり、また、「駅」という新しい機能をもった公共建築は珍しいものであった。

【鉄道がもたらしたもの】

明治22(1889)年、ようやく東海道線新橋〜神戸間が全通し、長浜の鉄道基地としての時代は去ったが、鉄道は人々に進取の気性を培い、街の産業と文化を育んだ。この地を走った機関車は、急勾配線用として特別に英国のキットソン社で製造されたもので牽引力が強く、長浜〜敦賀間、長浜〜関ヶ原間を力強く走り続けた。

陸蒸気の運転は1日2往復、客車と貨車の混結で8両編成。客車はマッチ箱と言われた30人乗りであったが、運びきれないほどの乗客があったという。長浜〜敦賀間の運賃は40銭で、当時の日本酒1升瓶が5銭の時代、かなり高額であった。

駅付近には、28軒の宿が軒を連ね、運送店は15店、飛脚業は4軒、人力車は72両を数え、仲仕という人夫も大勢いた。陸蒸気を見物に来る人もいて、カフェや料理屋等も大いに繁昌し、長浜に一大経済圏が確立された。鉄道敷設が長浜の交流人口の増加と第三次産業の躍進にはたした役割は大きい。

4.国友鉄砲の里資料館

【鉄砲造りの地、国友】

JR長浜駅から東北に約5km、長浜市国友町にこの資料館をはじめ、国友鉄砲試射場跡、国友一貫斎らの生家、顕彰碑、鉄砲鍛冶の守護神・伊都伎島神社、司馬遼太郎や吉川英治の文学碑等がある。この集落一帯は、鉄砲鍛冶師国友一族が大規模な鉄砲製作を行ったところである。

資料館には、多くの鉄砲(火縄銃)が展示されている。館員が鉄砲の構造や撃ち方の解説をし、実際に鉄砲を手に持たせてくれる。まさに鉄の塊、ずしりと食い込み、沈むような重さであった。「戦いや物事を開始する」ことを「火蓋を切る」と言うが、火蓋とは、鉄砲の発火装置である火皿を覆う蓋のことで、リアルな戦闘の情景が浮かぶ。

【新兵器「鉄砲」伝来】

1543年、中国の帆船(ジャンク)が暴風雨のため、種子島南端の門倉岬に漂着した。この船には、中国人のほかに3人のポルトガル人商人が乗っていた。島の領主、種子島時尭に引き会わせられた際、彼らは長さ3尺程の鉄砲を持参し、試射を披露した。

時尭は15歳という若さであったが、初めて目の当たりにした鉄砲の威力に驚くとともに、これからの時代の兵器となることを直感し、2挺の鉄砲を大金を投じて購入した。時尭はこの鉄砲をもとに、領内で火薬の調合法や鉄砲の造り方を研究させた。当時の日本では、銃身の底をふさぐネジの造り方が知られていなかったが、翌年、訪れた外国船に乗っていた鉄工から技術を学び、鉄砲を製作することができたという。

【近江・国友へのルート】

種子島時尭は、2挺の鉄砲のうち1挺を、薩摩の島津義久に献上した(義久は時尭より5歳年少)。義久は、それをさらに将軍足利義晴に献上した。

義晴の子、足利義輝は鉄砲に大変興味をもち、管領の細川晴元を通じて、近江の坂田郡国友村の鍛冶、善兵衛、藤九左衛門らに鉄砲を貸し渡してその製造を命じた。彼らは、6ヵ月後に6匁玉筒2挺を完成させたことが、鉄砲鍛冶が自ら著したという「国友鉄砲記」に記されている。これが国友鉄砲鍛冶の始まりとされる。

湖北地方には、古代製鉄遺跡や鉄に関係する古い地名(金居原やタタラなど)も多く、古くから製鉄技術をもち、良質の鉄材を入手できたことも要因である。

【紀州・根来、堺、伊豆への伝播】

「種子島に鉄砲伝来」の報に、根来寺の命をうけた津田監物は種子島に渡った。戦国乱世の不安の中で、根来寺自衛のための鉄砲買い付けが任務であった。購入とともに、製造の方法も監物から紀州にもたらされた。根来寺杉之坊明算が、堺出身の芝辻清右衛門に製造させたといわれる。

また、堺の商人、橘屋又三郎が種子島に渡り、技術を習得して帰り、堺で鉄砲製造を広めたとされる。さらに、種子島から出航した船が伊豆に漂着し、乗船していた種子島時尭の家臣、松下五郎三郎によって、鉄砲が関東へ伝えられた。

鉄砲伝来後、またたく間に根来寺、摂津の堺、伊豆などの各地にその製造技術が伝わり、かつてない大きな威力をもつ、新戦法に必須の兵器として、国内で大量に製造されるようになった。

【近代的歩兵戦術の開祖、信長】

鉄砲が伝来してしばらくすると、鉄砲は各地の戦いで使われ始めた。最も古い鉄砲による戦死の記録は、1550年、京都での三好・細川の戦いで、「三好方の家来が細川方の鉄砲隊に撃たれて死んだ」というものである。しかし、当時はまだ、多くの戦国大名は、鉄砲を武器として重要視していなかった。鉄砲は、弾込めして射撃するまで約15秒を要し、一撃で相手を倒せない場合、逆襲されるためである。

戦国武将の中で、鉄砲を最も大胆かつ有効に使ったのが織田信長である。1575年の長篠合戦では、信長が組織した3000人から成る足軽鉄砲隊を3隊に分け、1000挺ずつ交代に一斉射撃をするという「三段連撃ち」を行い、当時、無敵といわれた武田騎馬軍団を撃破した(西洋での一斉射撃の記録は、300余年後の1899年の南ア戦争といわれる)。

当時、信長は、経済的にも豊かで高度な鉄砲の生産技術をもっていた畿内先進地域を勢力圏に組み入れていた。中でも1568年に直轄地とした商業都市、堺は、鉄砲製造の中心地であり、火薬原料の硝石の輸入港でもあった。また堺と肩を並べる鉄砲生産地の根来寺や、1573年、浅井氏を滅ぼした後、秀吉に治めさせた近江国友村の存在が大きい。

【戦国時代を変貌させた鉄砲による合戦】

インカ帝国は、スペイン歩兵のわずか500挺の鉄砲により、滅亡したといわれる。

多くの鉄砲が戦闘の場で使われるようになると、それまでの主力部隊であった騎馬武者は、狙撃の標的になりやすく、戦いの主力は徐々に、鉄砲隊による集団戦法に変化した。

鉄砲を構える足軽鉄砲隊の多くは、領地の農民である。武士の数はごくわずかであり、半ば強制的に農民を集め、訓練し、合戦に送った。働き盛りの農民が死傷し、農村は困窮、農地は荒れ果て、食料不足からくる社会不安や混乱から、戦乱の終結を望む声が、信長の天下統一を促したともいえよう。

【信長・秀吉・三成軍をささえた国友鍛冶師】

信長、秀吉と国友鉄砲鍛冶との深い結びつきは、小谷城を攻めて、浅井長政を滅ぼした1573年であった。その後、湖北12万石を治めることになった秀吉は、国友藤太郎に知行100石を与え、河原方代官職(姉川の河川修復や堤防工事を支配する代官)を命じ、特に鉄砲の管理のために統制を厳しくし、国友鍛冶を配下に治めた。

1579年の秀吉の三木城攻撃では、国友で造られた1貫目玉筒が用いられた。1592年の朝鮮の役に、野村肥後守が鉄砲組頭として250名を率いて出陣した。国友の有力者が秀吉の家臣に重用された。

1590年に佐和山城主となり湖北を治めた石田三成は、秀吉と同様、国友鉄砲鍛冶に対して、国友藤二郎に100石を与えて鉄砲の製作をすすめた。1600年の関ヶ原の戦で、三成軍では国友鉄砲鍛冶が製作した多くの鉄砲が使われたと思われる。

【徳川家康は、国友を「天領」として統治】

1603年、江戸に幕府を開いた家康は、諸大名への戦力の優位を示すため、あるいは、大坂城攻撃も目的に、国友に大量の鉄砲を注文した。国友鍛冶惣代を江戸に呼び、砲術家稲富一夢を仲介して、800匁玉筒、50匁玉筒等を発注した。1605年には、国友を天領(幕府が直接治める土地)として、初代の代官として窪嶋孫兵衛が任命され、以後、国友は幕府の統制下に置かれた。250年にわたる国友と徳川幕府との関係の始まりである。

国友鍛冶は、1貫目玉の大筒(大砲)に及ぶ11種類の各種鉄砲を製作し、最盛期には70軒余りの鍛冶屋と500人を越す職人の大組織となった。同業者組合を作り、専門分業化され、効率よく生産が行われる鉄砲工業地として栄えた。

【大坂の陣での活躍】

1614年の大坂冬の陣、翌年の大坂夏の陣で、家康は国友などの大筒300挺を並べて、昼夜なく大坂城を攻撃した。その砲声は、遠く京都や摂津まで響きわたったという。

大坂落城後、豊臣秀頼と淀君を自害に追い遣ったのは、国友製の鉄砲であったとして、家康は鍛冶達に自身が身に付けていた辻が花小袖などを与え、また国友村内に174石余を与えてその功績に報いた。特に働きのあった鍛冶には、永代「重當」の銘も与えた。

【鉄砲時代の終焉、平和産業と科学】

江戸幕府に重用された国友鍛冶の最盛期は江戸時代初期であった。だんだん世の中が安定して平和になると、鉄砲の受注は急速に減少し、鍛冶師達は、その卓越した技術を金工彫刻や花火の火薬調合等に応用し、活路を見出していった。

中でも、国友臨川堂充昌らによる象嵌等の金工彫刻は目を瞠る見事さで、「長浜曳山」の錺(かざり)金具、香炉、仏壇仏具、刀の鍔(つば)、蔵の錠前等に今もその技と美の真髄を見ることができる。

また、江戸時代後期には、「東洋のエジソン」とも称される国友藤兵衛一貫斎を輩出した。一貫斎は自作の望遠鏡で、日本で初めて天体観測をした科学者である。彼は、現在の万年筆や水揚げポンプ等を考案し、飛行機の構想も抱いていたが、これは実現に至らなかった。

【鉄砲から自転車へ】

明治時代になると、より性能の高い西洋式銃が使われるようになり、また軍用銃の製造は禁止された。この頃、製銃所に持ち込まれた外国製自転車の修理などをきっかけに、製銃機械をそのまま利用した自転車製作に乗り出したのが、宮田製作所の宮田政治郎らである。

堺の自転車産業が有名であるが、古くから伝わる堺鉄砲鍛冶の精密な機械工作技術がそのベースとなっている。

【国友文化村構想】

国友の鉄砲製造は、明治以降ほぼ途絶えてしまい、昭和初期には、その伝統は完全に失われた。

昭和55年、最後の鉄砲鍛冶師、国友覚治郎の孫である国友昌三氏が、家に伝わる各種鉄砲や鍛冶道具(日本で唯一、国友村に残されていた)、古文書等を集めて、私設の「国友鉄砲鍛冶資料館」を開いた。これら歴史的産業遺産の保存と顕彰、さらに鉄砲を通じたまちづくりを願ったものであるが、当時、建設中の長浜城歴史博物館に国友鉄砲が展示されるということで、地域の人々に国友鉄砲への注目、再発見の気運が高まっていた。このような地元からの盛り上がりにこたえるかたちで、昭和62年、長浜市と国友町により、「国友鉄砲の里資料館」が建設された。

【ひるがえって、和歌山の場合】

わが和歌山では、根来の歴史資料館、県、市の博物館に「鉄砲」が収蔵されているが、その数はわずかであり、鉄砲専門の常設資料館はない。江戸期の鉄砲に関する資料は若干あるものの戦国期の状況を知る材料は少ない。

種子島への鉄砲伝来後、紀州根来と堺は最も鉄砲と関わりの深いところであった。奇しくも、本年7月から8月にかけて、和歌山市立博物館で、過去最大の鉄砲展とも思われる国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉)の特別巡回展「歴史のなかの鉄炮伝来」が開催される。長浜市国友における鉄砲への愛着と誇りをよき参考に、郷土和歌山の歴史産業遺産としての「鉄砲」の価値に目を向けたい。

参考資料

  • 「地域からの経済再生」(東京大学 橘川武郎)
  • 「国友鉄砲鍛冶――その世界」(長浜城歴史博物館)
  • 長浜市・鉄道スクエア・鉄砲の里資料館 観光資料
  • (株)黒壁 会社概要・HP

(2007.7)
(執筆者の所属、役職等は発表当時のものです)

このページのトップへ