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海防先進地・和歌山のお台場

主任研究員  谷 奈々

1.はじめに

友ヶ島灯台
友ヶ島灯台
【友ヶ島灯台135周年】

瀬戸内海国立公園の紀淡海峡に位置する友ヶ島は、沖ノ島、地ノ島、虎島、神島の4つの島の総称である。島は照葉樹林が繁り、昆虫・植物・めずらしい岩石や地層等がみられる自然の宝庫である。

友ヶ島には、明治政府により設けられた6つの砲台群があり、淡路島(洲本市由良)〜和歌山市加太・深山に至る「由良要塞」の一部として、第二次世界大戦終戦まで、日本軍の重要な軍事要塞として使用された。

沖ノ島の西端に立つ友ヶ島灯台(初代)は、1872(明治5)年、日本で8番目に建てられた洋風建築の灯台で、設計は、英国のリチャード・H・ブライトンによる。ほぼ東経135度の日本標準時子午線上に位置する(友ヶ島第2砲台建設の際、隣接地に形状を若干変更し、移設された)。本年で丁度135周年となり、和歌山市主催の記念行事も行われた。

友ヶ島第三砲台跡
友ヶ島第三砲台跡

友ヶ島は、島自体が開発の影響を受けずに自然環境が維持され、要塞の砲座跡や兵器庫等が、豊かな自然の中でひっそりと佇んでいる。近年、自然愛好に加えて、エキゾチックな赤煉瓦の洋風建築物等、創建時の古い遺構や廃墟探索等の静かな人気を呼んでいる。

友ヶ島に砲台が築かれるに至った経緯、鎖国から開国という激動の幕末、国際社会における日本の状況、特にその海防態勢について、主に『幕末海防史の研究』(原剛著、名著出版)をテキストに、和歌山を中心にたどってみたい。

(※砲台・お台場)

  • 砲台場(転じて、お台場)とは、元々、土塁や石垣を積み、大砲を据え付けた場所のことで、幕末、ペリー艦隊等外国船が来航し、江戸のみならず全国各地に沿海防備と警備の徹底のために設置された砲台施設である。台場には、大砲だけでなく、火薬庫等、付随する軍事施設を備えていた。

2.国家プロジェクト――砲台・要塞

【歴史的概略@―江戸時代】

1771(明和8)年、ロシアの軍艦が玄海灘を航行中、暴風雨で舵機を損傷して漂流し、阿波藩領に漂着した。これは、当時の日本にとって衝撃的な事件で、異国船が、日本の近海に出没していることの証左であった。

江戸期、鎖国令を厳守する幕府は、国防・海防意識が低かったが、寛政期(1789〜)に入ってからの紀州・筑前・長門・石見等への異国船の出現や、林子平の『三国通覧図説』(「三国」とは、朝鮮・琉球・蝦夷。これに日本と小笠原群島を加え、説明をつけた地図。1786年)や1791(寛政3)年に14年の歳月をかけて著された子平のライフワーク、『海国兵談』(全16巻の防衛戦略論。日本中の海岸の要所に砲台を築き、列島の要塞化によって国の安全を確保する、専守防衛主義)等により、ようやく海岸をもつ諸藩に海防対策を命じるようになった。

1792年、ロシアの使節ラクスマンが根室に渡来し、通商をもとめた。幕府は「海防掛」を設置し、これに老中松平定信を任じ、海防態勢の整備にとりかかった。鎖国以来、初めて海防対策が講じられることとなったのである。

大坂では、1808年のフェートン号事件を機に海防対策がとられるようになったが、緊迫感は乏しかった。

1846年、江戸湾に米国のビッドルが率いるコロンバス号等2艦が来航、そして、1853(嘉永6)年にはペリー艦隊、翌1854(安政元)年には大坂湾に、(先に長崎に来航し、開港要求に失敗した)ロシアのプチャーチン率いるディアナ号が現われ、衝撃を与えた。このような一連の外国船到来に、全国各地で台場の建造が急速に進んだ。

ペリー来航後、関西の諸藩により築かれた台場は86ヶ所で、そのうち1/3強の37ヶ所が和歌山藩により設けられたが、その多くは当時の姿をとどめていない。

(因みに、嘉永6年のペリー来航以前に設けられた関西の台場は、和歌山藩の周参見、串本等の7ヶ所、明石藩の舞子浜等の3ヶ所、姫路藩の家島天神鼻等の3ヶ所の計13ヶ所であるが、これらの殆どは遺構も残っておらず、正確な位置すら確認できないものもあるという。当時の海防意識の低さによる極めて不十分な施設であったと思われる。

翌年のプチャーチン来航後、和歌山藩は、紀淡海峡の中央に位置する友ヶ島に6ヶ所の砲台を築いたが、土俵を積み上げた程度のものであったとされ、現在みられる遺構は、軍事上重要な地域において、明治中期以降、軍により転用されたものである。)

【概略A―明治時代】
海軍聴音所
海軍聴音所

1890年代、帝国主義の動きが高まり、日本の海外進出が激しくなり、国防に備え、各地に砲台・要塞が配された。友ヶ島砲台は、淡路島の由良地区、和歌山市加太の深山地区等と一体となる「由良要塞」の一部で、その中央に位置する。

同要塞は、大阪湾への敵国海軍の進入を防衛するため、1889(明治22)年から16年間かけて建設され、東京湾、山口・下関の要塞と並ぶ一等要塞に指定された。仏スナイドル社製のカノン砲(射程14km)と榴弾砲がそれぞれ射界(カノン砲は270度)を重ねて死角をなくすように配備され、紀淡海峡はもとより、南方の紀伊水道、北方の大阪湾内までの広大な海面を射程内に収めていた。ここには将校官舎や附属建物、火薬庫等がアーチ構造の煉瓦造や高度な石積みの技術により建設された。

1899(明治32)年7月から第二次世界大戦終戦までの約半世紀、友ヶ島の由良要塞地帯への編入以降、戦略上の要地として一般の立入は禁止され、終戦後、GHQの命令により爆破されたが、砲台・厨房やトイレ跡も残る将校宿舎・発電所・旧海軍の聴音所(敵艦のスクリュー音の観測施設)跡等、多くの遺構が残されている。

3.鎖国政策の終焉、国際社会へ

【江戸湾への黒船到来】

時代を幕末に戻す。再訪を約束していた米国東インド艦隊司令長官ペリー代将は、1854(安政元)年1月、再び、江戸湾に大艦隊を率いて来航した。前年は軍艦4艦(サスケハンナ・ミシシッピ・プリマス・サラトガ)であったが、今回は7艦(2月に2艦が加わり、9艦)で、その威容は、幕府を威嚇するものであった。

江戸湾の防備は、前回のペリー来航以後、浦賀港に新たに大砲20門を増強する等の改善がされたが、築造を急いでいた品川台場は、未だ完成していなかった。諸大名の江戸藩邸の軍備増強も軍艦に対抗できるものではなかった。ついに幕府は、ペリー艦隊の強硬な態度に圧倒され、同年3月3日に日米和親条約を、同年8月に日英和親条約、12月に日露和親条約、翌安政2年には日蘭和親条約が次々と締結され、寛永以来200年以上続いた鎖国政策は終焉した。

【ディアナ号大坂湾進入の衝撃】

1854(安政元)年9月16日、紀州沖に異国船を発見した和歌山藩は、直ちに藩兵及び浦組(後述)の出動を命じ、藩領沿岸一帯に、藩兵6,264人、浦組15,946人を配備した。翌17日、ロシア使節プチャーチン海軍中将率いるディアナ号が大坂湾に現われ、天保山沖に停泊した。異国船の大坂湾進入の報を受けた大坂城代土屋采女正寅直(土浦藩主)は、近隣諸藩等に出兵を命じ、自らも自藩兵を率いて天保山に出陣した。

プチャーチンの意図は、「帝の住む京都」に近い場所に進入し、畏怖させることにより、ロシアの要求に応じさせようというものであった。

この大坂湾進入は、幕府、そして朝廷に大きな衝撃を与えた。これまで、江戸や長崎等の防備は進められていたが、大坂湾は内海であるため、異国船の進入する恐れはないという考えもあり、あまり重視されていなかった。

初めての異国船到来に動揺する大坂・京都の町には、「騒ぐことなく安心するように」との町触れが連日出され、パニックの防止に努めた。翌10月、「大坂は応接の地でなく、下田へ廻航するよう」との幕府の通達により、ロシア艦は大坂を出帆、一応危難は去った。

4.大坂湾の海岸防衛計画

【和歌山藩、友ヶ島等の防備】

ディアナ号の大坂湾進入は、この地域の無防備を露わにした。

翌11月、幕府は、和歌山・徳島・明石藩に大坂湾口の警衛を、彦根藩等3藩に京都警衛、篠山藩等4藩に京都七口の警衛、宮津藩等に北海岸の警衛を命じ、勘定奉行石河土佐守政平らに大坂、伊勢(伊勢神宮)近海の巡視を命じた。

ペリー渡来後の1853(嘉永6)年、海士郡代官仁井田源一郎は、「海防議」を提出し、海防態勢の改革を建議した。ここで仁井田は、和歌山の防備のため海岸に砲台を築き、さらに大坂湾に入らせないために加太浦・友ヶ島にも砲台を築くべしと主張した。

これに基づき、和歌山藩は、幕命が下る以前の1854(安政元)年1月に海岸防禦持場を達し、加太から大崎までの海岸を7地区に分け、大坂湾入口の加太辺を水野丹後守に担当させ、5ヶ所の台場を築いた。和歌辺を三浦長門守、日方辺を加納平次右衛門‥とそれぞれの持場を命じ、台場を築かせた。

ディアナ号渡来後の安政元年11月、初めて友ヶ島備として奉行等を任命し、番士2組、同心2組の合計150人を島へ移住させ、守備にあたらせた。翌2年5月、友ヶ島に台場(6ヶ所)の築造を命じた。(しかし、これらは土俵を積み上げた程度で、後にその不備が問題となった。)

【萩藩の建白書】

安政2年、勘定奉行川路左衛門により大坂湾防禦計画が立案され、その中で、大坂湾入口の防禦については、「紀州加太浦〜友ヶ島、友ヶ島〜淡路由良、淡路岩屋〜明石の3ヶ所の入口に台場を築く。友ヶ島〜由良は1里余あり、砲弾も届きかねるので、両所にバッテラー(御備船)20艘ずつを配備する」とし(友ヶ島には、6斤砲を積んだ6挺艪の砲台船が6艘備えられ、各船には砲手の他に銃をもった兵士が乗り組んだ)、ここに初めて、大坂湾内の防備が具体化されることとなったが、実際は小規模で軽易なものであった。

文久期(1861〜64)に入り、攘夷論の高まりと、朝廷の発言力の増大に伴い、大坂湾の防備強化が再び重要問題となった。諸藩の中にも、独自の調査を行い、防禦策を建白するものもあった。その中で最も特異で大規模なものは、文久3年の萩藩の「摂海戦守御備」と称する12ヶ条の建白書で、「大坂城、尼崎城、岸和田城を大改修して砲台、堀等を増設し、和田岬、堺には200〜300門の砲台を築き、更に淀川筋には八幡、山崎まで連続して堡塞を築き、畿内を総動員してこれらの城堡に詰めさせ、将軍が滞京して指揮する」という、幕府に責任と圧力を与え、戦時体制の確立を促すものであった。

【海軍奉行、勝麟太郎】

1862(文久2)年、12月、朝廷より和歌山藩に対し、友ヶ島の防禦の状況を報告するよう達しがあり、和歌山藩は家老を派遣し、「何分手広にて行届兼候場所も有之‥‥尚以防禦厳重に可仕」との答書を提出した。

幕府は、1863(文久3)年2月、老中格小笠原長行を摂海台場築立用掛に任命した。また、小笠原の巡視に同行し、専門的立場で補佐していた勝麟太郎(海舟は号。1823〜99)に、台場築造の命が下り、本格的な台場が築造されることなった。

同年3月、(後に薩英戦争に発展した)生麦事件処理をめぐり、対英情勢が切迫した折、朝廷は鳥取藩主池田慶徳に摂海守備総督を命じ、防禦の指揮をとるよう達した。

同年4月、将軍家茂は、兵庫・西宮・堺・明石・由良・加太浦等湾内を巡視し、翌月、その摂海防禦策を、参内して奏上した。その大要は「紀淡海峡、明石海峡の両門戸に厳重な砲台を設け、内海の要地にも砲台を築き、近隣諸藩等の兵力を配備する」というもので、従前と特に異同はない。幕府は、将軍の奏上と相前後して、大坂湾内の防備担当を大幅に変更し、鳥取藩担当の天保山付近を柳河藩に、岡山藩担当の伝法川口一帯を和歌山藩の担当とした。同年9月には幕府が和歌山藩主徳川茂承に、大坂守衛及び摂海防禦の指揮を命じた。

【和歌山・徳島・明石の3藩】

大坂湾入口の防備は、和歌山・徳島・明石の3藩により、文久〜元治期に整えられた。

湾入口の明石海峡、紀淡海峡(共に幅が約4kmであり、江戸湾入口(8km)に比べて防禦し易い利点あり)について砲台の改築強化が命じられ、両地に勝麟太郎が指導に赴いた。徳島藩は、和歌山藩、明石藩に比べて台場の築造に熱心で、由良や岩屋に西洋式の堅固な台場を築造し、大坂湾入口を守護する中核台場とした。労力と費用をかけた淡路島の砲台は、将軍巡視の際、誉められるほどであったという。

和歌山藩、明石藩の防備はやや貧弱で、和歌山藩には勅書をもって、防備充実に尽力するよう達せられ、明石藩には幕命をもって、台場改築が達せられた。

和歌山藩も勝の指導を受け、友ヶ島砲台を改築し、後に80ポンド砲を据えた。(明石藩では、幕府から1万両の貸与を受け、勝の指導により舞子浜台場の改築にあたった。この砲台は、稜堡式の石砲台で、15の砲門を備えていたが、藩の砲術師範荻野六兵衛が「荻野流に適せず」と砲の設置を拒み、維新に入り廃止された。)

5.和歌山藩の防備組織

【和歌山独自の海防システム――浦組】

紀伊水道から伊勢に至る長大な海岸線をもつ和歌山藩には、農漁民を動員して海岸防備にあてる「浦組」という特殊な組織があった。この浦組は、吉宗の代に整備・配備が強化され、維新まで、藩の伝統的海防組織として維持されてきた。

浦組は、和歌山本城の西から、「いろは」順の記号がつけられ(い‥貴志、ろ‥雑賀、は‥吉原、に‥日方、ほ‥加茂、へ‥宮原、と‥湯浅、約30組)、その村内に住む15〜60歳迄の男子全員で構成されていた。半数ずつに分け、一方を「出人」と称して、非常時に出動し、もう片方は「在浦」と称して、村内に残り、婦女子を守り、出人のための炊出し等を行った。これは1年毎の交代である。「貴志組」等の各組は、人数や船、馬、弓や鉄砲の数を毎年申告し、浦組帳に記入、提出した。ロシアのプチャーチンの軍艦が大坂湾に渡来し、下田に向かうまで、各組は、加太から熊野に至るそれぞれの持ち場海岸を出張兵士と共に守備した。非常時の情報連絡には、狼煙が用いられた。また、通札を用い、村継ぎで注進された。奥熊野では鳩を使い、伝書鳩として活用したこともあった。

【動員態勢】

和歌山藩の西洋式訓練は、主に付家老新宮城主・水野土佐守忠央によって進められ、1855(安政2)年に西洋式訓練修業の厳命が達せられたが、水野退任後は旧来に戻り、長州征伐には和流陣立で臨んだ。しかし、1866(慶應2)年6月の安芸国での戦いで苦杯をなめ、7月、急遽、銃隊を編成し、現地で訓練、12月に銃隊10ヶ大隊を編成する等、紛糾した。

農兵では、1863(文久3)年に津田出(1868(明治元)年に和歌山藩執政大夫。日本初の徴兵制実施。軍事指導にドイツよりカール・カッペンを招く。1832〜1905)が農兵惣裁となり、慶應2年、農兵にも銃隊訓練を命じ、各郡の代表者を和歌山に集めて教育し、藩内全域への普及に努めた。

6.現代との類似――外圧・外交への対処

外からの脅威がない鎖国という泰平の世では、「国家」という存在への関心や危惧は希薄なものとなる。人々の意識は、個人が属するごく狭い領域での事象や繁栄に限られ、社会や国家、世界という存在は忘れがちである。

江戸幕府は、異国船の漂着等、重要な事件に際し、適切な素早い対応がとれなかったり、国民の耳目から逸らせようとした。

『海国兵談』を著した林子平が生きた江戸中期は、幕藩体制の転換期であったが、21世紀のわれわれが生活する平成の時代と、何か似た空気を感じる。危機管理、情報の秘匿と公開、意思決定、外圧との戦い‥、これらはまさに連日、ニュースで繰り広げられる政治経済や社会問題と同様である。子平は、英米露蘭等の外夷がいかに大きな問題であるかを説き、国を守ることの重要さを警告した(しかし、違法出版物として発行禁止処分をうけ、版木も没収され、幽禁・蟄居を命じられたまま亡くなった)。

本の発行から実に60年を経た幕末安政年間、『海国兵談』はわずかに残されていた手写本を原本として大々的に刊行され、攘夷志士たちから「聖書」のごとく崇められたという。

参考文献

  • 「幕末海防史の研究」(原 剛   名著出版 1988)
  • 「海の長城」    (中村整史朗 評伝社  1981)
  • 和歌山県観光資料・HP

(2007.12)
(執筆者の所属、役職等は発表当時のものです)

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