ホーム | サイトマップ | リンク

ホーム > レポート > 歴史・文化 > 和歌山の「アメリカ村」とカナダ移民

和歌山の「アメリカ村」とカナダ移民

主任研究員  谷 奈々

1.「アメリカ村」

【漁業から移民に活路をひらく】

和歌山県は、険しい山々と広大な海に囲まれた地理的条件もあり、進取の気性に富む人々を輩出した。明治期、半農半漁の寒村であった日高郡美浜町三尾村の工野儀兵衛が、カナダに渡ったのが本県における北米本土への移民の始まりである。

和歌山県は広島県等と並んで移民の多い県で、移民先は、主にアメリカ、カナダ、ブラジル、オーストラリア等。中でも、カナダへの移民は、この日高地方からの出身者が際立って多く、人々は連れ立ってバンクーバー等へ赴いた。カナダからの送金で洋風家屋が建てられ、帰郷した人々は、服装や生活洋式も洋風であった。彼等によってもたらされたお金で改修された地区の竜王神社には、「一金五ドル也」と書かれた寄進札が掛けられた。三尾村は、大正時代から「アメリカ村」と呼ばれるようになった。

日の岬を望む入り江にあるこの地区は万葉の昔から、「風速(かざはや)の三穂」と呼ばれる風の強い所でもあるが、日高郡内でも最も早くから開けた所で、今の日高平野辺りがまだ海であった頃から、人が住み、生活していた。(※「日の岬、三穂」という地名と同じ音の「日ノ御崎、美保」という地名が、中国地方の出雲大社の近くにある。和歌山・日高と出雲との何らかの繋がり・交流が考えられる。)

【関東進出】

三尾地区は半農半漁の村であるが、農作では、山が多くて耕作面積が少ない。また、だんだん漁獲量が少なくなると、活路を村外に求める必要に迫られた。

日高地区は海に面した地形で、人々は古くから海に馴れ、太平洋に乗り出して活動した進取の気性に富む人々である。三尾村の漁師達は安土桃山時代の終わり頃から、関東・九十九里浜に進出した。江戸初期の元和元年(1616)頃が最も多く、寛永年間(1624〜44)には、紀州の漁師達が大掛かりな地引網で鰯漁業を営んだ。春に出かけ、秋に帰るが、中には、関東に留まり、干鰯の製造に従事する者もいた。

関東・九十九里浜の漁場開発は、漁業に長じ、航海に秀でた和歌山県出身の漁師達によって大きく発展したともいえる。千葉・房総半島、九十九里浜に出て大いに働き、郷里の竜王神社や光明寺等をその浄財で建立したと伝えられる。また、今も日高地方の夏の盆踊りに伝わる「房州音頭」は、漁師達の関東での生活と活躍を垣間見せる、往来の名残りである。

【熾烈な漁場争い】

三尾村の漁師は、夏から初秋は、地元の海上で操業し、春、秋は東牟婁・西牟婁郡の沖合、三重県沖まで出漁した。冬期は専ら手繰り網を操業し、手繰り網船は、一時期、50数艘に及んだ。

彼等は、色々な網漁業を開発して各地で漁をしたため、周辺漁村との漁場争いが頻発した。明治に入り、漁法・漁具が改良され、三尾の漁民は、大阪湾から室戸岬・伊勢湾辺りまで網船を出して操業、各地の漁船と激しく争った。

しかし、その頃から、大阪泉南郡、岸和田、貝塚、佐野等の漁業者が、手繰り網をウタセ網に転業(現在のトロール式)、夜中に紀淡海峡から和歌山の領海に侵入して操業したため、魚群はだんだん乏しくなって行った。相互の漁業者間では常にトラブルが絶えず、日の岬沖合で竹槍で争い、この時、相手方に負傷者を多数出し、刑事事件に至ることもあった。

【不漁・飢饉…、社会の混乱】

明治中期、大阪南部の漁民達との壮烈な争いに敗れた三尾村の漁業は急速に衰退して行った。さらに不漁に加え、当時、米の凶作が続き、米や諸物価が高騰した。幕末から「黒船到来」等の恐怖や社会情勢の不安もあり、米価は混乱状態に陥り、米相場は激しく上下し、飢饉で何倍にも跳ね上がった。

不作・不漁によって、多くの村人はたちまち飢餓に直面した。疾病、はしか等が流行し、村人の命や労働力を奪って行った。経済の混乱の中で、人々は生活の見通しを失って行った。

2.「カナダ移民の父」、工野儀兵衛

【“フレーザー川に鮭が湧く”】

1888(明治21)年、三尾村の工野儀兵衛は、単身、カナダに渡航し、バンクーバーの南方にあるフレーザー川河口にあるスティーブストンの鮭漁に着眼した。(ちなみに、カナダ移住の記録に残る最初の日本人は、1877年にバンクーバーに隣接したニューウェストミンスターに上陸した長崎県出身の永野萬蔵で、フレーザー川で日本式の投網を駆使して鮭漁を行い、日本向けに塩鮭の輸出を手掛けて成功を収め、「塩鮭キング」の異名をとった。)

加奈陀三尾村人会(明治33年)
加奈陀三尾村人会(明治33年)

当時、既にかなりの数の日本人が在留し、鮭漁に従事していた。産卵をひかえた鮭が川を上ってくる場面に遭遇した工野は、郷里への手紙に「川に鮭の大群が押し寄せ、ひしめいている。鮭が湧いている。魚は面白いほど獲れる…」と興奮した趣で現地の様子を伝え、兄弟や村の青年達、その家族を呼び寄せた。

初めは短期の出稼ぎであったが、次第に長期の移民へと変わっていき、村人は続々とバンクーバーへ移住した。1900(明治33)年には、現地に150名から成る「加奈陀三尾村人会」が結成された。三尾村からの移民者は最盛期には2千数百人に達し、三尾村は、和歌山県随一の移民の村となり、現地では邦字新聞も発刊された。戦前、カナダへの移民が最も多かったのは、滋賀県彦根市(湖東移民村)で、三尾村は二番目である。

【大工の棟梁、工野儀兵衛の悲願】

工野儀兵衛は、1854(安政元)年、「大七」という屋号をもつ大工、工野喜市(通称七兵衛)の長男として生まれた。三尾は漁業の村であったが、漁師は危険で収入も不安定であったため、父親は職人の道を選んだらしい。儀兵衛は、15歳で京都の宮大工に見込まれて弟子入りするなど、早くから頭角を現わし、19歳で京都での修業を終え、帰郷し、棟梁となった。技術も優れ、よく働く儀兵衛は、村の内外で多くの家屋を普請した。

儀兵衛が29歳の頃、三尾浦に防潮堤を建設する計画が持ち上がった。外海に面している三尾村にとって、漁業基地を整備し、湾内で魚の養殖を行うことは、安定した漁業収入を得る上で大きな意義をもつ事業であった。儀兵衛は、故郷三尾村の将来を考え、この防潮堤建設工事を是非、請け負いたいと考えたが、落札は出来ず、工事自体も昭和の初めまで実現しなかった。

防潮堤工事の建設に関われなかったということが、儀兵衛のカナダ渡航の大きな動機となった。生前、儀兵衛は弟に、「わしが向こうに渡ったのは、中出から磯の鼻へ堤防を作り、養魚場を作るための資金が欲しかったからだ。志が思うように遂げられなかったが、お前は、わしの志を継いでくれ…」と語っていたという。

【単身、カナダへ】

儀兵衛の親類にあたる山下政吉は、英国汽船アビシニア号の船員として外国航路で働いていた。カナダへ行かないか…という政吉からの誘いに、儀兵衛は、海外雄飛の夢をかき立てられた。

1886(明治19)年、渡航を決意した儀兵衛はその準備のため、横浜で働きながら、旅券等の手続きをし、渡航先について外国航路の船員達から情報を集めた。そして、漁業や農業の将来性があるという、カナダのスティーブストンという町の話を聞いた。

1888年8月、儀兵衛は単身(郷里で弟や知人に同行を勧めたが、皆が躊躇した)、アビシニア号で横浜を出帆した。儀兵衛は船内でコックの手伝いをし、また、大工の腕をいかし、船の補修作業にも労を惜しまなかった。

翌9月、カナダのビクトリアを経て、スティーブストンに到着した。日本人は、夏季は鮭漁業、冬季は農業や製材所で働いていた。そして、フレーザー川の鮭の大群を見て心躍らせた儀兵衛は、弟や親類、三尾村の人々を呼び寄せ、彼等のために宿舎(ボーディグハウス)や食料品店を経営した。現地で初めての日本旅館といわれる。

【アメリカ村の誕生】

三尾村からの出稼ぎ移民は、漁業(鯨の解体も)、伐木・製材、鉄道敷設、鉱山、広大な農園での作業等、あらゆる仕事に従事した。労働は過酷であったが、日雇いの賃金は、当時の日本の4倍程あり、その殆どは故郷へ送金され、三尾村に多額の現金とカナダの文化がもたらされた。

その多くは、家屋の建て替えにあてられ、カナダの洋館に倣ったモダンな家屋が次々と建てられ、村外の人々は、三尾村をアメリカ村と呼んだ(食事はパンにバター、コーヒーで、レコードを聴き、ベッドで寝る。外出時の服装はコートと帽子を着用し、会話には英語も混じっていた)。

移住者が稼いだお金は、村の財政を潤し、地元の三尾小学校の改築(1908)や校舎移転(1923)は、その寄付金でまかなわれた。

【第二次世界大戦――苦難の時代を超えて】

1941年に第二次世界大戦が勃発し、時代が戦争へ傾斜していく中、カナダでの反日感情が高まり、移民の数は制限された。三尾村へのカナダからの送金は途絶え、カナダ等に在住の日系人は、敵性外国人とみなされ、1942年には、バンクーバーの港から100マイル奥地へ立ち退く「強制移動命令」が発令された。カナダ政府の措置は厳しく(1949年まで解除されず)、彼等の財産も没収され、ヘスティング臨時強制収容所には、3900名近い日系人が収容されていたという。

戦後の三尾村は、カナダからの400人を超える引揚者、戦地からの復員者も加わり、食糧難やインフレ等、不安定な社会情勢の中で翻弄された。耕地の少ない村は、人口急増と食糧難に苦慮した。バンクーバーには、戦時中も日本に帰らず、居留まった人や、一旦、日本に帰国したが、またカナダに戻った人も多かった。

その後、カナダからの送金も徐々に復活し、1950年に結成された「三尾加奈陀連絡協議会」等の尽力によって、再渡航が始まった。1960年頃には、引揚者の大半が再びカナダに帰っていった。現在、三尾村にゆかりのある日系人は、ブリティシュ・コロンビア(BC)州に約2300人、東部トロントに約2700人が在住し、その職種は、実業界、公務員、教師、医師、弁護士等、様々な分野に広がっている。

3.現在につながる三尾村移民の独自性

【三尾村の移民の特徴・意義】

子弟の教育について、三尾村の出身者は、カナダで子供が生まれても、(尋常)小学校に入る時は帰国させ、祖父母の元で日本での教育を受けさせた。三尾村には、「二世の学齢期を日本ですごす」という教育慣習が存在し、日本人、和歌山県人としてのアイデンティティの形成に大きな働きをしたといえる。

工野儀兵衛に始まる美浜町三尾村の人々の移民・カナダ渡航の特徴は、政府等の援助や奨励を受けないで、自らの意思で新天地に出て行ったことにある。そして、彼等はカナダ西海岸の鮭漁業の発展に大きな貢献をした。

現在のカナダ在住の日系人は、かつての「出稼ぎ移民」から、「永久移住の日系カナダ人」となり、三尾村は、「日系人のルーツ」として、カナダでも知られている。

【現在のカナダとの交流】

工野儀兵衛は、1911年に帰国し、1917年に63歳で亡くなった。没後、1931年にカナダ在住の三尾村出身者と和歌山の三尾村の有志により、顕彰碑(「発祥致福」と大きく刻まれている)が建てられ、1977年建立の「カナダ移民百年記念碑」と並んでいる。

BC州和歌山県人会
BC州和歌山県人会

1988年には、カナダのスティーブストンで、「工野儀兵衛翁渡加100周年記念並びに和歌山県人先亡者追悼法要」が営まれ、1989年には、県人会により、翁の事業の原点となったフレーザー河畔に工野の名を冠した日本庭園“Kuno Garden”が造園され、リッチモンド市に寄贈された。

1990年以降、BC州和歌山県人会と美浜町国際交流協会との間で、青少年をホームステイ方式で派遣する交流事業が続いている。カナダ在住の三尾村出身者は、既に三世、四世の代になっている。

【時代の流れ――小学校閉校】

「アメリカ村の学校」と呼ばれた美浜町立三尾小学校が、今年(2008)の春、132年の歴史に幕を下ろし、町立和田小学校に統合された。

三尾小学校は、1876年に神社の社務所からスタートし、出稼ぎ者の貴重な送金で改築され、最も多いときには児童数が180人以上もあり、子供達の声でにぎわった。しかし、1970年代以降は少子化と過疎化のため、その数は激減し、昨年は僅か22人であった。3月の閉校式には、地域住民ら150人が愛着ある村の小学校との別れをなごり惜しんだ。

参考文献

  • 美浜町史(美浜町 1991)
  • 和歌山県の百年 県民百年史(高嶋雅明 山川出版社 1985)
  • わがルーツ・アメリカ村(小山茂春 ミネルヴァ書房 1984)
  • 和歌山市民図書館移民資料室資料・HP

(2008.12)
(執筆者の所属、役職等は発表当時のものです)

このページのトップへ