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デンマークの貨客船機関長クヌッセンと和歌山

主任研究員  谷 奈々

1.デンマーク船エレン・マースク号

【日ノ岬】
胸像
胸像
顕彰碑
顕彰碑

和歌山県日高郡美浜町は、人口約8,400人、面積12.8平方q。昭和29年、日高郡の松原・和田・三尾の3村が合併し、美浜町として発足した。県下第2の面積である御坊平野の一部を占め、町域の大部分が煙樹海岸県立自然公園に含まれている。

日ノ岬は、紀伊水道に突き出した標高200mの岬で、丁度、紀伊水道の南の入り口にあたる。岬は眺望絶佳の観光地として開発され、日ノ岬パークと呼ばれている。園内には、日ノ御崎灯台、日ノ山御崎神社、大賀池、クヌッセン胸像、高浜虚子の句碑等がある。頂上からは、雄大な景観を望むことができる。四周に遮るものがなく、西に四国の山々を、北西には、淡路島から六甲山を遠望することができる。

【火災事故の船に遭遇し、救助を試みるが…】

1957(昭和32)年2月10日、神戸港へ向けて航海中であったデンマーク・コペンハーゲンの貨物船エレン・マースク号(4,903t)は、日ノ御崎灯台西の沖合で火災を起こしている船を発見した。船は、徳島県の機帆船 高砂丸で、風速20mを越す風が吹く大荒れの天気の中、炎に包まれた高砂丸の乗組員が、助けをもとめながら船上を逃げ惑っていた。

マースク号から救命艇が下ろされ、救助に向かったが、強風のため救命艇ばかりか、マースク号さえも暗礁の方向へ吹き流され、非常に危険な状態となった。そのため、マースク号は救命艇を回収し、高砂丸の風上に寄り、縄はしごを投下、高砂丸の船長らしき乗組員は、何とかこの縄はしごにたどり着いたものの、あと少しというところで、力尽き、海に転落した。

これを見たマースク号のヨハネス・クヌッセン機関長(当時40歳)は、救命ベルトを締め、敢然と海に飛び込んだ。彼は、2週間前、同船の機関長となり、その処女航海の途上であった。そして、救命ブイを高砂丸の船長に渡そうとしたが、荒れ狂う海の中でうまくいかず、ついに2人の姿は波間に消えた。マースク号は再度、救命艇を出動させたが、激しい波がボートを襲い、エンジンが壊れてしまい、救命艇も流されてしまった。

翌朝、日高町の田杭港周辺で、クヌッセン機関長の遺体とマースク号の救命艇が発見された。激浪との闘いを物語る機関長のライフジャケットや、胴体部分に大きな裂け目のあるボートを見て、近隣の人々は大騒ぎした。かけつけた御坊警察署長は、昨夜の高砂丸の火災事故と、嵐の中、高砂丸の乗組員を助けようとして海に飛び込み、殉死したクヌッセン機関長のことを話した。人々は、彼の勇気ある行動に驚き、「あの嵐の中で、日本の船員さんを助けるために海に飛び込んだ方なのか、そんなことは人間のできることではない。この人は神様だ…」と感動し、跪き、合掌した、と伝えられている。

【クヌッセンの丘】
胸像・顕彰碑が建つクヌッセンの丘
胸像・顕彰碑が建つクヌッセンの丘

その後、クヌッセン機関長の遺体が漂着した日高町の田杭地区では、勇敢な彼の行為をたたえ、彼の魂を弔いたいと、その地に供養塔を建て、住民が常に清掃し、生花を供え、慰霊の気持ちを今も絶えることなく捧げ続けている。

また、現場を一望する美浜町日ノ岬の高台には、国境を越えた「海の男の友情、勇気ある行動」をたたえた顕彰碑と胸像が、関係町村と関西デンマーク協会によって建てられた。胸像は、デンマークの著名な彫刻家であるグームンセン・ホルムグリーン氏の制作で、1962(昭和37)年6月5日、デンマーク駐日大使ブヌク・ニールセン氏によって、除幕された。以降毎年、命日に献花式が行われている。

一帯は「クヌッセンの丘」と名づけられ、異国の海に消えた勇者の冥福と航海の安全が静かに祈り続けられている。

【徳島県海南町の顕彰碑】

火災遭難事故をおこした高砂丸の故郷、徳島県海南町(現在は、徳島県海部郡海陽町。2006年3月、海南町ら3町による新設合併)にも、役場等関係者によって、1959(昭和34)年、顕彰碑が建てられた。碑には、以下の文面が刻まれている。

「1957年2月10日夜半、当町船高砂丸和歌山港を帰港中阿尾沖にて火災を発して沈没、折しも故国デンマークを後に横浜に向け航行中のエレンマースク号、之を発見直ちに救助せんと船を接近、激浪の間に最期の助けを求める人影、機関長ヨハネス・クヌッセン氏単身海中に飛込み全力を尽し鬼神も哭しむ働きも自然の暴威勝てず遂に乗組員と共に尊い海の犠牲となられる。故国デンマークの遺族の哀愁も偲ばれて涙禁じ得ず。然れ共その壮絶なる行為、国境を越えた人類愛の崇高なる精神は七ツの海に生る船員の亀鑑として海国日本人民の胸に永へに刻まれん。茲に碑を建て氏の霊を慰め、遺徳を後世に伝えんとす。 昭和34年2月建立 海南町」

2.和歌山とデンマーク、サッカーを介した交流

【サッカー・2010年南アフリカW杯】

4年に1度のサッカーの祭典、ワールドカップ(以下、W杯)。「人類最大の祭典」と称されるように、その熱狂ぶりは、オリンピックを上回るかと思われる。第1回大会は、1930年にウルグアイで開催され、地元ウルグアイが優勝した。

第19回となる2010年南アフリカ大会の1次リーグ組み合わせ抽選会が、2009年12月4日、開催国のケープタウンで行われ、その映像は全世界に生中継された。時差により、未明となった日本でも、多くのファンが期待と不安の交錯した高揚した面持ちで、「日本は何組に入り、どの国と対戦するのか」と、その瞬間を見守った。

4大会連続4度目の出場となる日本は、オランダ(FIFA=国際サッカー連盟による世界ランキングは3位)、カメルーン(同11位)、そしてデンマーク(同26位)と共にE組に入った(日本は同43位と、やや苦しい組み合わせである)。

抽選会は、出場32チームを4チームずつ、AからHまでの8組に振り分ける。日本の初戦は、6月14日、カメルーンと、国の中央部のブルームフォンテーンで、第2戦は、オランダと東海岸のダーバン(海抜0m)で、第3戦は、6月24日、標高1500mと高低差の大きいルステンブルクでデンマークと対戦することとなった。

南アW杯大会は、2010年6月11日、ヨハネスブルグでの南アフリカ―メキシコ戦でキックオフ、9都市10会場で64試合を行う。1次リーグで各組2位までが、16強による決勝トーナメントに進み、決勝は7月11日。世界の頂点に立つのは、はたしてどのチームであろうか。

【2002年W杯キャンプ地地元の複雑な思い】

今から7年前、2002年の日韓共催W杯大会の際、カメルーンの事前キャンプ地となり、代表選手らの到着が遅れる等で、関係者をやきもきさせたり、小さな村を挙げての親身な歓迎ぶりがマスコミを賑わせた大分県中津江村(現・大分県日田市中津江村)の元村長、坂本休氏の談話記事が紹介されていたが(「まさか、カメルーンと対戦するとは…! これは運命のいたずらですかね」と複雑な表情で語った、とのこと)、全く同じことが、和歌山にもいえる。

後述のように、2002年W杯で、デンマークは、和歌山市内で大会前の事前キャンプを行った。この時に結成された私設応援団、「和歌山ローリガンズ」は、翌年から、アマチュアサッカーチームの「デンマーク・カップ」を、和歌山市内で毎年開催する等、デンマークとの民間交流を続けている。この応援団の団長は、この度の日本とデンマークとの対戦について、新聞のインタビューに「複雑な心境。日本も応援したいが、デンマークファン代表として、デンマークを応援せなあかん。“コムサ(頑張れ)・デンマーク!”」と語った。

【デンマークの爆弾!?】

世界のサッカーファンが「デニッシュ・ダイナマイト」と呼ぶ攻撃的なデンマークのサッカー。その歴史は古いが、他のヨーロッパ各国にやや遅れをとり、世界に名を知られ、躍進したのは比較的最近で、1980年代からのことである。ヨーロッパ選手権には1984年に初出場、W杯初出場は86年である。

デンマークは、2010年南ア大会には、2大会ぶり4回目のW杯出場である。特筆すべきは、過去3大会全てで、1次リーグを突破し、決勝リーグに進んでいる。2002年W杯日韓大会でも4ゴールをあげ、大会得点ランキング4位と大活躍したベテランFW、33歳のヨン・ダール・トマソンや、身長193pの大型FW、21歳のニクラス・ベントナーらが注目される。

デンマークは1992年の欧州選手権で優勝するなど、元々強豪であるが、今回のW杯出場に際し、欧州予選1組で、強国ポルトガル(FIFA世界ランキング5位)、スウェーデン(同42位)を抑えて首位通過、しかも予選の10試合でわずか5失点と固い守備を誇る。日本とは、1971年に対戦したことがあり、その時は2−3で日本が敗れている。それ以来の対戦となるが、日本にとって難敵であることに違いはない。

【2002年日韓W杯で、和歌山にキャンプ地誘致】

2002年、日本と韓国で開催されたW杯に、デンマークチームが2大会連続、3回目の出場を決めた。そして、そのキャンプ地に和歌山県が選ばれ、市民・県民との大きな交流を果たすこととなった。

当時、日本の各都道府県は、出場国のキャンプ地誘致にしのぎを削った。ベッカムを擁するイングランド、ジダンのフランス、ロナウドらのブラジル等、人気チームの争奪戦はすさまじいものであった。和歌山でも、関係者らが何度もデンマークを訪ねるなど、誘致に懸命であった。デンマーク・チームがキャンプ地を和歌山に決めた理由は、「日本のほぼ中心に近く、関西国際空港に近いから」というが、結果として、彼らは、和歌山の人々の誠意、献身、友情に感激し、「自然も人もすばらしく、リラックスできる環境…」と絶賛した。

そのことは、同時に、和歌山の人々に、デンマーク・チームのすばらしさ、「ダイナマイト」と怖れられるフィジカル面の強さだけでなく、人間的な魅力、誠実さに敬意を抱かせることとなった。

【キャンプ地での地元の人々との交流】

デンマークのモーテン・オルセン監督は、練習初日から全ての練習を公開した。W杯出場国のキャンプ地での練習は通例、非公式・非公開が多く、当然、イングランドやイタリア、ブラジル等の強豪国は殆ど非公開で、このことは極めて異例であった。初めの頃の見学者は数百人程度であったが、翌日には2000人、その翌日には2500人、3000人と見学者は日増しに増えていった。

さらに、練習後には、見学に来ていた地元のサッカー少年達を招き入れ、デンマークの大男達は少年達と一緒にミニサッカーを行ったりした。サインにも気軽に応じた。それまで、デンマークという国に特になじみがなかった人々にも、デンマークの選手達はとても気さくで親切で、親しみやすい…という評判が口コミで広がって行った。

ある記者がオルセン監督に尋ねた。「他の国のチームは練習を公開しないで試合に備えていますが、貴国は公開していのですか?」監督は、「我々の強さは、練習を秘密にしたところで変わらない。絶対的な自信をもって試合に臨むだけだ。何よりも、キャンプ地を提供してくれた和歌山の人達が喜んでくれることをしたい。試合も大事だが、このような交流も大切にしたいと、選手全員が思っている」と答えたという。

【コック長を感激させた言葉】

また、次のようなエピソードも伝えられる。デンマーク・チームが来日し、宿舎のホテルに入った初日のことである。歓迎セレモニーを終え、ホテルの支配人と料理担当のコック長が通訳を伴い、監督の部屋に挨拶に訪れた。選手たちに供する「食事内容や食材」についての要望を確認するためである。他国の宿泊先ホテルでは、「食事が口に合わない、母国の材料で調理してほしい」と訴えるケースもあったらしい。

オルセン監督は、支配人とコック長の不安を払拭するように、「一切、お任せします。そちらが用意される料理を我々は喜んで頂きます」と答えた。そして、「和歌山をキャンプ地に決めた時から、食事も全てお任せしようと我々は考えていた。和歌山で有名な食材は何ですか」と尋ねた。コック長が「魚、特に鰹が有名です」と答えると、監督は「では、そのおいしい鰹を、貴方が腕を振るって、我々に食べさせて下さい」と言い、コック長を感激させたという。

和歌山のファンを大切にした監督は、メンバーを乗せたチーム・バスを自転車で追いかけてきた少年のために、ホテルの中に入ってしまった選手達を呼び戻してサインをプレゼントする等、スポーツを介した交流・親善の範を示した。

3.日本とデンマークとの友情と交流へ

【W杯をきっかけに、心の交流が生まれた】

和歌山県では、半世紀前の国境を越えた海の男、エレン・マースク号機関長、ヨハネス・クヌッセンの物語を今も語りついでいる。2002年のW杯・キャンプ時には、彼の遺族達をデンマークから招待し、美浜町と日高町の協力で、日ノ岬パークにある「クヌッセンの丘」で慰霊のための献花式が行われた。美浜町の小学校の児童らは、デンマークの赤地に白十字の国旗(「ダンネブロー(赤い布の意味)」と呼ばれ、現存する国旗の中では世界最古といわれる)を持って彼らを出迎え、クヌッセンの偉業を伝える心温まる紙芝居を披露するなど、交流を深めた。

丁度、世界少年野球大会に出場したデンマークチームの選手も、ここを訪れて献花を行った。また、体操競技の発祥の地ともいわれるデンマークの体操チームが、やはり和歌山を訪れ、伝統ある演技を披露した。さらに、和歌山観光ミッション団が、デンマークを視察訪問先に選定する等、W杯開催を機縁に、様々な活発な交流がなされた。

【クヌッセンの故郷に記念コーナー】

2006年夏、地元選出の二階衆議院議員は、翌年がその50周年となるのを機会に、クヌッセンの故郷、デンマークのフレデリクスハウン市に彼の記念館をつくろうと提案した。

2006年10月、岡田駐デンマーク大使は、同市のセレンセン市長に面会し、同市内にある著名な博物館であるバングスポー博物館にある海軍博物館に、クヌッセンを顕彰するコーナーを設けることとなった。観光名所でもあるバングスポー博物館にクヌッセンの記念コーナーが出来れば、フレデリクスハウン市民だけでなく、ここを訪れる多くのデンマークの人々や近隣のヨーロッパ諸国の人々が、彼の英雄的行為と50年後の今も感謝と哀悼の念をもち続けている日本人の心にふれることができる、と考えたのである。

この合意を受け、クヌッセンの甥や姪ら親族から、遺品や資料が続々と集まった。エレン・マースク号の船主である海運会社マースク社も、50年前に遡って、会社の記録を徹底的に調べ上げ、クヌッセンに関する情報を集めた。展示の場となったバングスポー博物館はこれらの資料を整理し、また、和歌山県は日ノ岬に建つクヌッセンの胸像のレプリカをつくり、記念コーナーの中心に飾った。

【日本文化の紹介、新たな交流の始まりへ】

これと同時に、フレデリクスハウン市は、クヌッセン機関長が子供の頃、住んでいた家にそのことを刻した金属のプレートを付けた。さらに、セレンセン市長は、「またとない機会であるから、記念コーナーの開設に合わせて、同市で日本文化祭を開いてくれないか」と日本大使館に要請した。

市長の提案は、クヌッセン記念コーナーの開設を彼の遺徳を顕彰することのみならず、未来永劫に和歌山とデンマーク・フレデリクスハウンとの交流をすすめる貴重な出発点となるものであり、日本側も全面的に協力することとなった。

2007年8月17日、バングスポー博物館で「クヌッセン機関長記念コーナー」が除幕され、和歌山県、日高町、美浜町等から代表者が参加し、日高町からやって来た「獅子舞」が華やかにオープニングを飾った。一行は、クヌッセンの墓所に参り、幼少時代を過ごした家の記念プレートの除幕式も行った。

「日本文化祭」は、市の音楽ホールを主会場に開かれ、日本の華道や料理、和太鼓や武道の演武等、多彩なプログラムが組まれ、多くのフレデリクスハウン市民が、生の日本文化に触れることができた。そのほとんどは、デンマークの人々が初めて目にし、体験する日本の文化で、和歌山、日本とデンマークの新たな友好、交流のきっかけとなるものであろう。

美浜町、日高町等で絶えることなく受けつがれているクヌッセン機関長への追悼と敬意、そして、2002年日韓W杯大会の際、多くの関係者による熱心な招致活動により、和歌山市の県営(当時)紀三井寺競技場がデンマークチームの事前キャンプ地に選ばれたご縁という不思議なめぐり合わせを貴重なものとしたい。

この大会によって盛り上がったサッカーをはじめとするスポーツ熱や、住民のボランティア意識の高まりとネットワーク、それらが広く県民全体のもてなしの心を育て、国際社会における真の交流につながるものと信じる。

(参考資料)

  • 優しさをありがとう  ヨハネス・クヌッセン遺徳顕彰会 美浜町役場
  • わがルーツ・アメリカ村 小山茂春 ミネルヴァ書房 1984
  • 読売新聞夕刊 1957.2.11
  • 日高新報 2002.5.12
  • 日経新聞夕刊 2009.12.5

(2010.1)
(執筆者の所属、役職等は発表当時のものです)

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