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エルトゥールル号事件にはじまるトルコと串本町の友好

主任研究員  谷 奈々

1.エルトゥールル号引揚げの目的

【トルコ国民が歴史と出会うためのプロジェクト】

2006(平成18)年、米国に本部を置く海洋考古学研究所が、今も紀伊半島南端の串本町紀伊大島沖に沈むエルトゥールル号の発掘調査を開始した。全長46m、656名の大使節団を乗せたオスマン帝国海軍巡洋艦は、1890(明治23)年9月、台風に遭遇して沈没、全権特使ら587名が亡くなった。

この発掘調査団は、トルコ人考古学者・トゥランル団長以下、トルコ・スペイン・日本の混成部隊で、2006年度から調査を開始し、遭難120周年式典が開かれる2010年までの5ヵ年計画で進められている。

プロジェクトの代表者の一人、ビュレント・エリシュ博士は、この国際協力に基づく事業を「トルコ国民が歴史と出会うためのプロジェクト」と表明する。また、トゥランル団長は、「この事業の目的は、祖国から1万km離れた遠方に眠るエルトゥールル号の英雄達に関する記憶を蘇らせることです。艦は、弾薬等とともに引揚げられ、殉教記念碑の傍にある博物館に展示される予定です」と語った。

【ユネスコの保護条約】

沈没船調査等、海中に浸かった遺物を発掘する水中考古学が、国際的な関心を集めている。ユネスコは、2001年、「水中文化遺産保護条約」を採択、2009年1月に発効した。同条約は、「水中文化遺産は、商業目的に利用してはならない」と明記し、「宝探し」的な活動を規制する原則を打ち出している。(ただし、日本はこれに批准していない。「同条約の存在が、日本の海洋政策に影響を及ぼす可能性があるため、慎重に検討する必要がある」としている。)

海水に浸かった遺物は、そのまま乾燥させると、元の形を失い、崩壊の可能性があるため、時間をかけて脱塩処理と保存処理を行う必要がある。しかし、陸上と異なり、水中に保存されていたメリットも大きく、木製品は陸上では風化が進み、原形をとどめないものも、水中では残っていることが多いという。沈没船等は、沈んだ当時の生活空間がそのまま保存された「タイムカプセル」状態にあるともいわれ、未知の発見が期待されている。

【「調理鍋」等の保存と国内外での巡回展示】

今回の海底調査では、船上からの水中音波探知機と磁気探知機による調査に加え、ダイバーが潜水し、遺品を確認した。直径75cmもある調理鍋や陶器片類、オスマン帝国時代の刻印が入った薬きょう、金銀等の貨幣…。さらに、明治天皇からの御下賜の品であることを示す「菊の紋章入りの陶器片」も引揚げられた。「これらによって、オスマン帝国末期の軍の実態が明らかになる意義は大きい」と団長は述べた。

2010(平成22)年1月迄に、合同発掘調査団が引揚げた遺品は4,595点。中でも、乗組員の食事を調理したと思われる「巨大な寸胴の鍋」は、テレビ等の映像でもよく紹介され、発掘品のシンボル的な存在である。

この鍋は、同年1月末まで、串本海中公園センター水族館で真水に漬けて脱塩処理をしながら、一般に公開展示され、その後、遺品保存処理所(ERC)に移された。ここでは、トルコの保存処理の専門家が、鍋に付着している物質を調べたり、塩分の残留濃度を調べ、保存のための化学処理を施す。そして、町立トルコ記念館で展示されるが、同年9月、他の様々なエルトゥールル号関係の遺品を乗せた帆船で、串本町の姉妹都市であるメルシン市はじめ、イスタンブール、イズミール等、地中海沿岸の都市を巡回する予定である。

トゥランル団長は、この巡回展示について「この貴重な機会を通じて、トルコの人々に串本や和歌山のすばらしさを伝え、いつか串本を訪ねてもらいたい」と期待する。また、団長の出身地であるトルコのボドルム市から市長と市議一行が来町、市長自ら、エルトゥールル号が座礁・沈没した同町樫野埼灯台南西の岩礁(通称「船甲羅」)周辺の海に潜水し、発掘調査の様子を視察した。

国際的なチームによる5年間の発掘プロジェクトの成果は、2011年に、和歌山・大阪・横浜・東京での展示が計画されている。

2.エルトゥールル号遭難事件

【オスマン帝国からの大使節団】

樫野埼灯台近くの丘に、高さ3.5mの方尖塔、オベリスク型の「トルコ軍艦遭難碑」が建っている。これは、1890(明治23)年、9月16日、大島樫野崎の沖合で、トルコ軍艦エルトゥールル号が嵐の中で遭難、異国の海に散った将士達の霊を慰めるために建てられたものである。串本町では、今も5年毎に追悼式典が行われ、姉妹都市であるトルコのメルシン市にも、同様の碑が建てられている(このことについては後述する)。

1871(明治4)年、明治新政府の岩倉具視率いる西欧視察団に加わった福地源一郎(後の東京日日新聞社主)は、同年、イスタンブールで、オスマン帝国のスルタン、アブドゥル・ハミト二世に会見の栄をえた。1875(明治8)年には日本との間で通商条約締結への交渉が開始されている。

1887(明治20)年に日本の小松宮彰仁親王の訪問を受けたアブドゥル・ハミト二世はその返礼として、1889年7月15日、オスマン・パシャ海軍少将を全権特使とする大使節団を日本に送った。使節以下656名の将兵を乗せたオスマン帝国海軍の巡洋艦「エルトゥールル号」は、2,344t・全長46m・600馬力・速力10ノット・木造の機帆船で、13の砲門を擁する大艇であったが、建造後30年を経て、船体の老朽化が出航前から懸念されていたという。

【不帰の航海】

エルトゥールル号はイスタンブールを出航、スエズ、ボンベイを経てシンガポールで越年、香港、長崎と北上し、1890年6月7日、横浜港に接岸した。11ヶ月にわたる航海は、故障や資金不足とたたかう苦しい旅であったという。

明治天皇に謁見し、トルコ最高の名誉勲章を奉呈した使節団一行は、3ヶ月間、日本に滞在し、各地で盛大なもてなしを受けた。そして、9月14日、横浜港から帰国の途についた。日本政府は、台風を懸念し、老朽艦の修復と出航の延期を勧めたが、一行は、「本国からの通達」として、出航した。当時、横浜でコレラが流行し、罹患した十数名の将兵が亡くなったことや、修復等にかかる経済的理由によるものと思われる。

【オスマン・パシャら587名が亡くなる】

エルトゥールル号は、横浜から太平洋岸を南下し、神戸港に入るコースをとったが、熊野灘にさしかかった出航2日目の夜、北上中の台風の暴風雨に遭遇し、串本・樫野崎付近の岩礁に衝突した。船底からの浸水、エンジンが爆発を起こすなど、船体は割れ、海中に沈んでいった。

樫野埼灯台
樫野埼灯台

その嵐の夜、大島東端の樫野埼灯台の明かりを頼りに、難破したエルトゥールル号の乗組員の将兵の数人が灯台下の鷹浦に這い上がった。そして、絶壁のような岸をよじ登り、灯台の官舎の戸を叩き、助けを求めた。衣服はずたずたで、半死半生の者もあったという。灯台の技師や宿直者は、驚き、急いで樫野区長に知らせるとともに、介抱にあたった。

この遭難で、オスマン・パシャ全権特使ら587名が亡くなったが、村人の手厚い救護により、69名が助かった(うち、健全な者は6名で、63名は軽傷)。大島の沖村長は、直ちに和歌山県庁に打電、樫野、須江の両区長と協力して生存者を急造の担架で、大島区の蓮生寺に運んだ。蓮生寺では、村の医師、小林建斉、伊達一郎、松下秀らが献身的な治療に当たった。

【救助活動・友好の緒】

村では、台風による不漁で住民達の食料も十分ではない中、蓄えている甘藷等の食料や、非常時のための貴重な鶏も将兵達に提供した。村人達は遭難者の亡骸を引きあげ、樫野崎の丘に丁重に葬った。これらのことは、県知事を通じて明治天皇に伝えられた。

その後、助かった将兵達は、明治天皇の命により、日本の軍艦「比叡」「金剛」の2隻で丁重にトルコ・イスタンブールに送り届けられた。

翌1891(明治24)年、和歌山県知事ほか有志により義捐金があつめられ、墓碑と遭難追悼碑が建てられた。同年3月7日、追悼祭が行われた。

3.トルコとの架け橋、山田寅次郎

【熱血漢の茶道家元】

エルトゥールル号遭難の悲劇と串本町の人々の献身的な対処の様子は、当時の日本国中に衝撃を与えた。山田寅次郎はこの惨劇に最も深い同情の念を抱いた一人といえよう。彼は和歌山県の出身者ではないが、エルトゥールル号に端を発した日本とトルコの関係を考える際、民間大使的な柔軟な役割を果たした山田の業績は大きい。

山田寅次郎(茶道宗へん流第八世家元、山田宗有)は、1866(慶応2)年、沼田藩(群馬県)江戸詰家老中村雄左衛門(莞爾)の次男として、江戸上屋敷(現在の港区虎ノ門)に生まれた。1881年、父方の祖母にあたる茶道宗へん流家元山田宗寿に養子として迎えられた。宗流は、千利休の孫、千宗旦の高弟、山田宗へんを流祖とする茶道界の名門である。寅次郎は文才にも優れ、尾崎紅葉や幸田露伴、陸羯南ら、当時の一流の作家やジャーナリストと親しく交わり、新聞等に才筆をふるった。茶道家元として、また、出版社や製紙会社を起こす等、実業家としても活躍した。

【トルコに義捐金を届ける】

遭難事件の際、24歳の山田は、「アジア大陸の西端よりはるばる一年もかけて来日し、誼を結びながら、不運にも熊野灘の暴風雨にのまれし心情を思えば、胸張り裂ける思いなり。同じアジアの民として、犠牲者たりし人々の心情、いかばかりなりや」と訴えた。彼は全国各地で講演会を開き、新聞等に募金記事を載せ、一年で約5,000円(現在の約1億円相当)の寄付金を集めた。そして、外務大臣青木周蔵を訪ね、「これをトルコに送り、遭難者遺族への慰霊金にしてほしい」と相談、依頼した。

青木大臣は熟考の上、意気盛んな青年の申し出に対して、意外にも「これは君の義心に出でしものなれば、君自ら携え、トルコに赴きては如何。近く海軍省よりフランスのツーロン港にて我が新鋭艦 松島が竣工せしため、海軍将兵三百余名、英国船をチャーターして松島を回航すべく出発の準備中と聞く。ついては、海軍省へ貴下の便乗を許可ありたく本職よりも申し述べる」と答え、両国の国交樹立の日のため、国情をよく見聞して来てほしいと助言した。

1892年1月、山田は、海軍大佐田中綱常(エルトゥールル号遭難時の生存者をトルコ本国に送還した軍艦「比叡」艦長)らの協力を得て、海軍がチャーターした英国船パサン号に乗船を許され、横浜港から出航した。遭難から1年4ヶ月後のことであった。

【日本人初のイスラム教徒、野田正太郎】

トルコ・イスタンブールを目指し、山田はエジプトのポートサイドで海軍将兵らと別れ、パサン号を下船した。カイロでイスタンブール行きの船を待ち、4月に目的地に到着した。税関検査の後、馬車で外相サイード・パシャの官邸を訪ねたが、英語も通じない。官邸から、日本の「時事新報」の海外特派記者で、後に日本人初のイスラム教徒となった野田正太郎が呼ばれた。野田は、軍艦「比叡」「金剛」に同乗した記者で、トルコから送還の歓待を受けた後も、アブデュル・ハミト二世からの要望に応えて、オスマン朝に残り、陸軍少佐相当官としての待遇をえていた。日本−トルコの交渉史に残る人物である。

野田の手配により、山田は外務省でサイード・パシャ外相と面会した。外相は、寅次郎を歓迎し、盛大な晩餐会を催した。そして、海軍省内に設けられていた「エルトゥールル号遺族救済委員会」宛に義捐金をおさめる手続きをとった。

【山田家伝来の兜を献上】

数日後、山田は、念願のアブデュル・ハミト二世に拝謁する機会をえた。彼は持参した山田家伝来の特徴ある大きな桔梗の紋飾りの「明珍の兜と甲冑、陣太刀」を献上した。これらは現在も、イスタンブールのトプカプ宮殿博物館に陳列されているという。アブデュル・ハミト二世からは、メジディエ勲章が授けられた。

そして、アブデュル・ハミト二世から、外務省を通じて山田に次のような依頼があった。「わが国は日本との修好及び通商をかねてより希望しているが、まず言葉を理解することが必要だ。しばらく当地に留まり、これからのトルコを背負って立つ数名の士官に日本語と日本の精神や文化を教えてもらいたい。」山田は快諾した。

【近代トルコの父、ケマル・アタチュルク】

山田にはトルコ語の教師が付き、陸軍士官学校の一室が与えられ、野田正太郎と共に、陸軍士官6人、海軍将校1人に日本語を教えた。その「教え子」の一人が、1923(大正12)年にトルコ共和国を誕生させ、「近代トルコの父」と呼ばれるケマル・アタチュルクである。

後年、トルコ共和国建国記念行事に招待された山田は、アンカラで接見にあずかったアタチュルク本人から、「私のことを覚えていますか? あなたに日本語を習った士官です」と丁寧な言葉をかけられ、驚いたという。

【山田の八面六臂の活躍】

山田寅次郎は、トルコに通算18年間滞在した。士官学校の教師を辞した後も、イスタンブールの中心、ガラタ橋近くに日本の工芸品を扱う店を構え、日本−トルコ貿易の出発点となった。これを発展させたものが後の「大阪日土貿易協会」である。

この間、東伏見宮殿下、近衛篤磨、徳川頼倫、乃木希典、徳富蘇峰らトルコを訪れた皇室・軍・官・財・文化界等々ほとんどの日本人の通訳等の世話をした。ハミト二世も「アブデュル・ハリル」というムスリム名を山田に授け、謝意を表している。

【日露戦争勃発・黒海艦隊】

1904(明治37)年、日露戦争が始まり、その翌年、日本は日本海海戦において、「バルチック艦隊」(バルト海に配置されたロシアの主力艦隊)を撃破したが、これとは別にロシアには、「黒海艦隊」があった。ロシア艦隊との海戦が不可避という状況下にあり、日本の連合艦隊の最大の関心事はバルチック艦隊の動向であり、それに加えて、黒海艦隊がバルチック艦隊と「合流」するか否かが、重大な機密情報であった。

【牧野伸顕への暗号電報】

山田は、日本とトルコとの通商の基礎を築くと共に、両国の共通の敵であるロシアの動きを探り、本国へ伝える諜報活動にも関わった。

日露戦争の際、牧野伸顕(明治の元勲大久保利通の次男。当時、オーストリア公使)からの依頼で、ロシア帝国の黒海艦隊の動静を、東西の要衝であるトルコのボスポラス海峡を見下ろす場所で連日、監視し、暗号電報で逐一、牧野に伝えたという(このことは公式には伝えられていないが、山田によるものとされる)。バルチック艦隊と合流するには、ボスポラス海峡を通って地中海に出ることが不可欠であることを山田は熟知していた。

山田から送信された情報が、わが国の連合艦隊にいかに有益であったか。バルチック艦隊がボスポラス海峡を抜けて日本へ向かうであろうことや、商船に偽装した義勇艦隊の軍艦を発見したこともあったという。

【帰国、慰霊碑建立にも尽力】

しかし、1914(大正3)年、第一次世界大戦が始まると、トルコはドイツ側に、日本はフランスとロシア側についたため、両国は準交戦国となり、山田は帰国した。そして紙巻煙草の洋紙等を製造する製紙会社を経営し、実業家として活躍した。

第一次大戦終結後、1924年5月、日本は正式にトルコ共和国と国交を結び、翌年、両国に大使館が開設された。山田は大阪日土貿易協会を立ち上げ、理事長に就き、また、串本町樫野の「エルトゥールル号」遭難の地に新しい慰霊碑建立のため、奔走した。

1929(昭和4)年、昭和天皇は、串本を行幸され、この慰霊碑をお訪ねになった。

トルコ軍艦遭難慰霊碑
トルコ軍艦遭難慰霊碑

4.「イラン・イラク戦争」時の緊急脱出

【サダム・フセインの暴挙】

イラン・イラク戦争は、1980(昭和55)年秋、イラク軍が南部の国境を越えてイランの油田地帯を攻撃したことに始まった。戦闘は「イラク機が建設中のイラン原発を爆撃」、「イラン、バスラ砲撃。イラク爆撃の報復」「イラク、イラン31都市への攻撃」、と激しさを増し、1985(昭和60)年3月12日には、イラク軍機がイランの首都テヘランの住宅街にロケット弾攻撃をするまでエスカレートした。

この住宅街には、日本の商社員や銀行員、建設関係者、技術者とその家族ら約500名が暮らしていた。テヘランはもはや安全ではなく、人々は日に日に危険度の増す首都からの脱出を図りはじめた。

他の外国人も同様で、イギリス人やドイツ人、イタリア人らは自国から乗り入れている航空機で次々に出国し、韓国人は、自国からの軍用機で帰国した。日本航空はこの戦争が始まる前に、政情不安を理由にフライトが打ち切られていた。民間航空機への搭乗は、自国民優先で、日本人は外国機の便から締め出され、空席を待つしかなかった。

日本大使館の野村大使は、外務省を通じ、日本航空に救援機派遣の交渉を依頼したが、「イラクとイラン両国が飛行の安全を保証しない限り、派遣には応じられない」との返答は変わらなかった。

【一縷の望みをトルコに】

トルコに直接依頼をしたのは、主に2つのルートであるとされる。一つは、伊藤忠商事イスタンブール支店長の森永氏がトルコのオザル首相に依頼したルート。森永支店長はトルコ駐在16年で、オザル首相とは親しく相談できる間柄にあった。もう一つは、駐イランの野村大使が駐イランのトルコ大使、ビルセル氏に依頼したルートである。

1985年3月17日、イラク軍は「48時間後以降、イラン上空を戦争空域とし、全ての飛行を禁止し、民間航空機であっても攻撃する」との驚くべき通告を発表した。

日付が19日に変わろうとした時、「最大限の努力をする」と野村大使に約束したビルセル大使からの電話が鳴った。「トルコ航空が215人乗りのDC10と臨時便1機を用意します。」タイムリミットの実に3時間半前、タラップに「三日月と星」のトルコ航空機が横付けされ、乗客の殆どを占める198人の日本人が乗り込んだ。

当時、イランには約6,000人のトルコ人が住んでいたという。彼らの殆どは陸路を数日かけて脱出し、救援機は日本人を優先的に乗せたが、誰もこのことを咎めなかった。

【親日国家の流儀】

トルコ記念館
トルコ記念館

この時、ビルセル大使は、「トルコと日本は、エルトゥールル号の時から、友好の絆で結ばれています。私たちは、あの時、日本の人々から受けた真心を皆が胸に刻んでいます。子供たちは学校でそのことを教えられています」と語った。その2時間後、タイムアウト寸前に、臨時便も離陸した。機体がイラン国境を越えた瞬間、機内では、離陸した時以上の拍手とどよめきがおこったという。

当時の日本の新聞各紙は、「なぜ来ぬ日航機、怒りの邦人、トルコ機でやっと脱出。“最終便”で」等と報じた。現在は、法律が改正され、海外で生活している日本人に戦争等の危険が切迫した場合、自衛隊機や政府専用機による救出ができるようになった。テヘランでの緊急事態がきっかけとなった。

5.串本町とトルコの交流の進展

【トルコ共和国大統領の初来日】

2008(平成20)年6月7日、トルコ共和国のアブドゥラ・ギュル大統領の一行約200名が、串本町を訪れ、トルコ軍艦エルトゥールル号遭難慰霊碑で追悼、関係者や町民らと交流した。トルコ共和国大統領の来日は初めてで、5月23日に閣議決定され、外務省、串本町、トルコで同時発表された。両国の経済・文化交流の振興をはかること、そして、艦と将兵らが静かに眠る「串本町」を訪れることが大きな目的である。

トゥランル団長らによる数年にわたる発掘調査の様子は、トルコ国内にも報道され、大きな話題となっているという。今回の大統領の来日は、「ぜひ現地に行き、エルトゥールル号救難のお礼をしたい」との心意から発したという。大統領らは6月4日に東京に到着、5日に天皇陛下に拝謁、6日に当時の福田首相と会談した。

【樫野埼灯台旧官舎の改修】

2010(平成22)年3月、わが国最古の石造り灯台である串本町樫野の樫野埼灯台の旧官舎(国の登録有形文化財)を、所有者である串本町が改修することがきまった(改修費用約6,000万円)。

この灯台と旧官舎は、イギリス人技師R・H・ブライトンが1870(明治3)年に建設したもので、1890年のエルトゥールル号遭難の際、乗組員が崖を登り、救助を求めて駆け込んできた場所である。旧官舎は老朽化で屋根が破損、雨漏りのため木材や石材の傷みが進んでいる。2009年、来町したトルコのギュナイ文化観光大臣も資金援助を申し出ていた。本年、「日本トルコ友好120周年」を迎えるにふさわしい事業といえよう。

【メルシン市の碑建立の経緯】

トルコのメルシン市に、串本町樫野にある「エルトゥールル号遭難慰霊碑」と同じ碑が建てられている。これは、第二次世界大戦中に、メルシン市沖の地中海で、トルコの軍艦が国籍不明の潜水艦によって沈没し、乗組員のほとんどが死亡した事件の慰霊碑と合わせて建てられたものである。

慰霊碑建立の発案者ともいえる駐日トルコ大使、ジェラール・エイジオウル氏は、海軍総司令官であった1971(昭和46)年、串本町でのエルトゥールル号追悼祭に列席、慰霊碑に参拝して感動したという。そして、「他国にトルコ軍艦の慰霊碑が建立されているのに、自国トルコに慰霊碑がない」ことに心を痛め、トルコ軍艦が沈められた地中海沿岸のメルシン市に串本の碑と同様のものを建設すべく尽力した。

【アジア大陸の東と西】

このことがご縁となり、串本町とメルシン市が姉妹都市として提携、交流を深めることとなった。両市町の交流の特徴は、若い中高生等を中心とした交流事業で、ホームステイによる相互の受け入れが活発に行われている。また、文化交流の一環として、串本町民から成る「串本町トルコ民族舞踊団」が結成され、美しいエキゾチックな衣裳をまとった異国の舞踊が、はるかアジア大陸の東端の国で受け入れられ、地域に定着している。

(参考資料)

  • 「救出」 木暮正夫 アリス館 2004
  • 「東の太陽、西の新月」 山田邦紀・坂本俊夫 現代書館 2007
  • 朝日新聞 2009.4.6
  • 毎日新聞 2010.1.17、2010.2.21
  • 写真は、串本町HPによる。

(2010.7)
(執筆者の所属、役職等は発表当時のものです)

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