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東京オリンピック開催を実現させた日系実業家、フレッド・和田 勇

主任研究員  谷 奈々

1.アジア初の東京オリンピック

【ヘーシンクと神永昭夫:五輪初の柔道】

2010(平成22)年8月27日、「1964年の東京五輪の柔道無差別級の金メダリスト、アントン・ヘーシンク氏(オランダ)が76歳で死去」というニュースが報道された。テレビでは、今から46年前の東京五輪の映像――開会式の映像はカラーであったが、柔道はモノクロ映像で、決勝戦でヘーシンクが日本の神永昭夫選手をけさ固めで破った様子が映された。

日本のお家芸、柔道は、この東京五輪で初めて採用された。技も精神力も優れた198cm・120kgのオランダの巨人の圧倒的な強さは、日本中に衝撃を与えた(神永氏は平成5年、56歳で死去)。ヘーシンクは引退後も柔道の普及に尽力し、1987年、IOC委員に就任した。日本でも人気者で、一時、プロレスラーとして日本のプロレスのリングに上がった。1997年には、勲三等瑞宝章が授章された。

当時、「オリンピックを見るため」、カラーテレビが爆発的な売れ行きを示した。女子体操の名花、チャスラフスカ(チェコスロバキア)やマラソンのアベベ(エチオピア)らに多くの日本人が魅了され、熱い声援を送った。

【体育の日の変遷】

アジアで初めてのオリンピックが東京で開催されたのは、今から46年前、1964(昭和39)年10月10日(土)からの2週間である。参加国94ヶ国、参加選手5,541人、国立競技場での開会式に73,000人。この大会での日本のメダル獲得数は、金16、銀5、銅8。金メダルの数は、米国、ソ連に次いで3位というすばらしい成果をあげた。

そして、この開催を記念して、開会式の10月10日を祝日「体育の日」と制定した。爾来、半世紀近くが経ち、当時の高度経済成長時代の熱気と希望にみちた日本で、国民の歓声に包まれ、国家的行事として華やかに挙行された「東京オリンピック」を知らない世代も増えているかもしれない。

2000年から、国民の祝日に関する法律の改正(いわゆる「ハッピーマンデー制度」・目的は3連休を増やすこと)により、10月10日ではなく、「10月第2月曜日」が体育の日と定められた。法律に記された「体育の日」の意味は、「スポーツに親しみ、健康な心身をつちかう」というもので、「オリンピック」にはふれていない。

【4都市による誘致合戦】

1964年大会の開催候補地として、東京の他に、米国のデトロイト、オーストリアのウィーン、ベルギーのブリュッセルも名乗りをあげた。開催地が決定された1959(昭和34)年当時、太平洋戦争での日本の敗戦から十数年を経ていたが、敵対国であった日本という「遠い極東の国」に対する国際的な評価は、殊に欧米で低かった。まだ、東京―新大阪間の東海道新幹線も開業していない時代、道路や空港等の交通面、宿泊施設等、日本のインフラは未整備で、不安視された。デトロイトやウィーンの方が既に都市としての体裁を整え、各国からの選手達の移動も便利で、有力視されていた。

そのような極めて不利な状況を、「東京」はどのようにして挽回し、開催を勝ち得たのか。国際五輪委員による開催地投票結果(計58票)は、東京34票、デトロイト10票、ウィーン9票、ブリュッセル5票。他を大きく退けた東京の圧倒的勝利であった。

【和田勇の偉大な業績(概略)】

東京開催への大きな推進力の役割を果たしたのが、ロサンゼルス在住の日系二世、自称「八百屋の親父」と語るフレッド・イサム・ワダ(和田勇)である。和歌山県日高地方出身の貧しい出稼ぎ移民の子として、米国ワシントン州ベリングハムで生まれた和田氏は、刻苦勉励して一代で青果商として成功、30代前半の若さで日系食料品店70店の協同組合の理事長に就任する等、リーダーシップを発揮した。

戦中戦後の苦闘の時代を乗り越え、1949(昭和24)年の全米水泳選手権に、古橋廣之進(この大会での優勝で、「フジヤマのトビウオ」と呼ばれることになった)や橋爪四郎らが出場した際、自邸を日本選手の宿舎として提供し、献身的に彼らを支えた。

これらのことがきっかけとなり、和田は昭和34年、在米日系米国人として唯一人、「東京オリンピック準備招致委員会委員」に選ばれた。そして、日本政府の依頼により、中南米諸国の国際オリンピック委員を訪問し、「東京開催」への協力を要請、その実現に大きく貢献した。和田夫妻が訪れた国は10ヵ国、全て自費であった。

彼はその思いを、「日本、東京でオリンピックを開けば、日本は大きくジャンプできる。日本人に勇気と自信を持たせることができる。僕はそのことが、僕に与えられた使命、責務だと思う」と語り、また、「僕はほめられたくて、やったのではない。日本人が好きなんだ。日本人は優秀な民族。その日本人のために何か、お役に立ちたいと思っただけ」と控えめに話したという。

【オリンピック開催の経済効果】

和田が予想した通り、オリンピックを機に、日本は大きく飛躍し、国際舞台に躍り出た。東海道新幹線「ひかり」や「こだま」もオリンピックの年に開通した。「0系」と呼ばれる初代新幹線車両は、丸みのある先頭形状が「団子鼻」と呼ばれ、長く愛された。

北京五輪や南アフリカでのW杯の例でも顕著であるが、オリンピックがもたらす経済的社会的効果は大きい。移動手段(空港・モノレール・高速道路・自動車産業の進展等)、外国人も宿泊できるホテル、様々な案内表示、食事、世界各国からの選手・役員らを迎えるため、地元開催国が用意する様々なサービス、ホスピタリティの芽生え――それまであまり外国人と接する機会のなかった日本人にとって、全ての経験が新奇で、わくわくさせるものであった。

【佐藤春夫作詞「オリンピック賛歌」】

昭和38年、和歌山県出身の詩人で作家の佐藤春夫は、オリンピック東京大会の開会式で斉唱される「賛歌」の作詞をNHKから委嘱された。壮大なスケールとロマン、愛国の誇りを謳いあげた詞は次の通りである(下記は1番のみ)。

「オリンポス遠きギリシャの いにしえの神々の火は 海を越え荒野をよぎり はるばると渡り来て 今ここに燃えにぞ燃ゆる 青春の命のかぎり 若人ら力つくして この國の世界の祭り 喜ばん富士も筑波も はためきて五輪の旗や 翩翻(へんぽん)と翻る 日本の秋さわやかに」

2.オリンピックの変容

【男爵と大司教】

現在も、「五輪誘致」は過熱を極め、各国が知恵と費用をかけて凌ぎを削っている。スポーツは巨大なビジネスとなり、競技は全世界に生中継され、途方もないビッグ・マネーが動く。W杯サッカーがその典型的なものであろう。

近代オリンピックの開催を提唱したクーベルタン男爵は、スポーツを通じて平和と国際親善を目的とする広大な視野をもち、創設の当初から、「スポーツと政治の分離」を掲げ、その自立独立性を運営の基本方針とした。(ちなみに「オリンピックは参加することに意義がある」いう名句が、クーベルタン男爵が最初に語った言葉として、人口に膾炙しているが、これは、1908年のロンドンオリンピックの際、アメリカ選手団に聖公会のタルボット大司教がかけた言葉である。アメリカの選手達はこの言葉に勇気づけられ、感銘を受けた男爵もスピーチに引用し、広まった。)

【アベリー・ブランデージ】

近代オリンピックを主催するIOC(国際オリンピック委員会・本部はスイスのローザンヌ)の第5代会長ブランデージ氏は、「Mr.アマチュア」と呼ばれ、「純粋アマチュアリズムのオリンピック」を唱え、「商業主義はオリンピックを害する」という信念をもっていた。1972年の札幌冬季大会で、有名な「シュランツ選手追放事件」が起こった。動く広告塔といわれ、スキーメーカーから多額の報酬を得ていたアルペンスキーの第一人者は、アマチュア規定に違反しているということで、失格処分となった。

その後、テニス競技にアガシやサンチェスが登場したり、米国プロバスケット所属選手によるドリームチームが出場し、勝って当然のパフォーマンスを期待される。オリンピックの出場規定から、徐々にアマチュア規定は骨抜きとなり、現在では全くの死語となった。

【アントニオ・サマランチ】

1980年から2001年まで、IOC第7代会長として君臨し、その後も絶大な影響力を維持したサマランチ氏は、先のブランデージ氏とは対照的で「オリンピックは時代と共に変わる」「オリンピックは世界最大のスポーツイベントであり、プロアマ関係なく最高レベルのアスリートが戦う場」という信念で、オリンピックは、豪華で華やかなショーの側面も持つ、グローバルなビジネスに姿を変えていった。

メダル獲得を絶対的な目標とする風潮の中、もはや「参加することに意義」という言葉に首肯する競技者や観客は少ないであろうが、今一度、スポーツやオリンピックの本来の姿に立ち戻って考えてみるべき時かもしれない。

ともあれ、昔も今も、そして未来においても、スポーツには人々を熱狂させる何かがあることに相違はない。それは、人間の本能から生まれるものであろう。

3.和歌山県出身日系二世、フレッド・和田 勇

【苦難の軌跡】

和田勇の父、善兵衛は、1892(明治25)年、当時、多くの住民が移民として渡米した和歌山県日高郡からカナダのバンクーバーへ出稼ぎ漁師として移住、はじめは、鮭漁に従事した。しかし、日本人は、次第に漁業権の剥奪等の圧迫を受けるようになり、他の仕事に転出する人も多かった。父、善兵衛は同郷の女性と写真結婚、1907(明治40)年に勇が生まれた頃は、カナダ国境に近い米国ワシントン州ベリングハムで小さな食堂を経営していた。

生活苦等のため、4歳から、和歌山の祖父母の家に預けられ、数年後、米国に戻った。実母が亡くなり、父は再婚し、農産物や小荷物運搬業等、様々な仕事をした。幼い兄弟も多く、勇は父親の仕事を手伝いながら、12歳の頃から、農園に住み込んで働いたという。勇が17歳の時、農産物小売店での勇の働きぶりをみた経営者が、勇をチェーン店のマネージャー(店長)に抜擢した。21歳で勇は独立し、オークランドで農産物店を開店、アメリカ社会に溶け込んでいった。1941年、34歳の勇は3軒の店をもち、協同組合の理事長も務めた。

【日系人追放令、ユタ州へ疎開】

しかし、1941年12月、日本軍がハワイ真珠湾を攻撃、翌42年2月、ルーズベルト大統領により、太平洋沿岸部からの日系人強制立退きが発令された。選択肢は2つ、内陸部に立退くか、強制収容所に入るかである。

勇は日本人への反感が少なく、縁故もある内陸のユタ州に移ることを決め、周囲の日系人に声を掛けて、130人の大集団を率いて入植した。ユタ州キートレイで4,000エーカー近い土地を借りて、雪の中の過酷な開墾、農耕、養豚等、辛酸をなめたが、勇は、強制収容所管理者(米国人)の薦めにより、アメリカ各地の強制収容所を回った。彼は、「日本人の孤立化を防ぎ、アメリカ人コミュニティと同化することで、豊かな生活ができる」と説いた。農場の近くには、星条旗とともに“Food for Freedom”と書かれた大看板を立て、日系人の作る作物と近隣農家への協力は、地元住民にも受け入れられた。

1945年8月、太平洋戦争が終わり、和田一家は温暖なロサンゼルスへ移り、ハンティントンパークで青果業を始めた。ここでも、初めは「ジャップ、出て行け」と書かれるような多難なスタートであったが、アイディアに富んだ陳列、新鮮な農産物、きめ細かいサービス…、彼は猛烈に働き、事業は拡大した。

【全米水泳選手権への参加】

1948年、ロンドンで戦後初のオリンピックが開かれたが、日本は参加できなかった。同時期に水泳の日本選手権を開催して、記録の上で競うことにした。1500m自由形では、1位の古橋廣之進、2位の橋爪四郎の記録は、ロンドン大会の金メダリストより、40秒も速かったが、「距離が短い」や「時計が壊れている」等、全く相手にされず、公認されなかった。

1949年、日本水泳連盟は、戦後初の海外遠征で、全米水泳選手権に参加した。当時、日本は、国際水泳連盟に復帰したばかりで、1951年の講和条約前の占領下にあり、選手らは、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥(米国オリンピック委員会委員長を務めたこともあり、スポーツへの理解があったという)を訪ねてパスポートとビザの発給を受け、ロサンゼルスに発った。

【「羅府新報」の記事】

現地での受け入れは、日系人の商工会議所が窓口となった。選手らの渡米に際し、問題となったのは宿舎の確保であった。当時、未だ日本人に対する感情は険悪なものがあり、ホテルで危害を受ける可能性も否めなかった。選手達が安らげる家庭的な環境が望ましいと水泳連盟は考えた。

1949年8月1日の「羅府(らふ)新報」(全米最大の邦字新聞・日系人経営)に、「選手に宿泊提供/奉仕ご希望あれば/招致委員会より発表」という見出しで、次のような記事が掲載された。

「愈々、日本水泳選手の羅府到着は旬日後となり、(中略)今回、選手招致委員会では、出来れば食事等の関係上、奉仕的面倒を見て下さる同胞の家庭を探している。静かな処で、7、8歳の子供がおられる処なれば好都合である。一家庭で選手3、4人の面倒を見て欲しいという。食事及び自動車便等は委員会にて用意あり、奉仕希望者は日商議会頭清水氏迄…」

【宿舎提供】

新聞記事を読んだ和田勇の妻、正子(和歌山県日高郡美浜町出身の帰米二世)は、夕食後の団欒の折、忙しくてまだ新聞を読んでいなかった勇に記事のことを話した。夫妻の決断は速く、チーム全員(選手6人とコーチ2人)を受け入れようと、早速、会頭の清水氏に電話した。日系一世の清水氏は、日本水泳選手団招致委員会の委員長も兼ねた、ロサンゼルスの日系人社会のリーダー的存在で、勇からの吉報に欣喜した。和田は当時、十数店のスーパーマーケットを経営し、ロサンゼルスの高級住宅街サウス・バンネスに日本人でただ一人、(巨額のローンで購入したばかりの)200坪の立派な邸宅を構えていた。

和田夫妻には4人の子供達がいたが、家族ぐるみで選手達の世話をした。勇は朝4時に起きて、市場での仕入れを済ませて自宅に戻り、選手達と朝食を共にし、彼らのオリンピック・プールでの練習には、勇自らがキャデラックで送迎した。食事も正子が茄子の味噌汁やほうれん草のお浸し、魚の照り焼きや刺身、紀州の茶粥等、心尽くしの手料理が並べられた。古橋は後年、「食事は本当に豪華で、ステーキやフルーツ等、それまで見たこともないような料理が振る舞われた」と語っている。 

【“フジヤマのトビウオ”】

8月16日の大会初日、1500m自由形予選A組に出場した橋爪は、2位以下の米国勢に150m以上の差をつけ、18分35秒でゴール、それまでの世界記録を20秒以上短縮した。続くB組には古橋が出場したが、途中から、記者席がざわめき始めた。古橋の記録は、18分19秒というとてつもない大記録で、米国の選手達は唖然と眺めていたという。古橋らを50人程の白人が取り囲み、口々に「グレートスイマー!」「ザ・フライングフィッシュ・オブ・フジヤマ!」と讃えた。

翌日の決勝では、日本人同士の競り合いとなり、1位古橋廣之進、2位橋爪四郎、3位田中純夫と、上位を独占した。日本チームは、3日間で自由形の6種目中5種目に優勝、9つの驚異的な世界新記録を樹立し、団体対抗戦でも圧倒的な強さで優勝した。

日本でも新聞社は号外を出し、「古橋、橋爪選手の世界新記録が、場内にアナウンスされた瞬間こそ、再建日本の姿が、スポーツを通じて全世界に認識された瞬間」と報じた。

和田邸での内輪の祝賀会で、日本チームの監督は、在留邦人への感謝を述べた。それに対して勇は、「本当に御礼を申し上げるのは、私達日系人です。古橋さん達の活躍によって、“ジャップ”と呼ばれていたのが、一夜にして、“ジャパニーズ”になり、皆、胸を張って街を歩けるようになりました。あなた方のおかげで、日本という国がアメリカ社会に認知された。ありがとうございました」と述べた。一世、二世の日系人共通の心意であった。

【私財をなげうち、中南米諸国をまわる】

その後も、和田は日本からやって来る各種競技選手団の世話をした。1958(昭和33)年、和田は東京で、日本水泳連盟会長の田畑政治氏から、「1964年のオリンピックを東京で開催したいのだが…」という相談を受けた。しかし、開催決定には各国代表者の投票による同意が必要である。

同年10月、和田は、岸信介首相から日系人でただ一人、東京オリンピック準備委員会委員・駐米委員を委嘱された。東京招致にあたり、交渉力があり、日本語と英語が堪能な和田に、政府から「中南米IOC委員(13名)の票を集める」という重大任務を要請されたのである。

1959年、岸首相からの親書と藤山愛一郎外務大臣のサポートを得て、特命全権大使並みの権限が与えられた勇は、正子夫人を伴って、約40日間の中南米歴訪の旅に出た。訪問国は、メキシコ・パナマ・キューバ・ベネズエラ・ペルー・ブラジル・アルゼンチン・チリ・ウルグアイ・コロンビアの10ヶ国11都市である。

勇は各地で、日本開催への熱い思いを語り、協力を訴えた。日本政府は外貨不足で、この「中南米工作」は勇の申し出により、費用は勇の自費、全くのボランティアで遂行された。依頼交渉に難航する国もあり、パナマでは、米国寄りのスーザ代表を説得するのに10日間を要した。正子夫人も地元パナマのドレスを着用し、訪問先国の夫人に日本の着物を着せたり、細やかな気配りを怠らなかった。途中、旅客機がアンデス山脈を横断中、1つのエンジンが停止し、激突の恐怖で死を覚悟したこともあったという。

しかし、この行脚で、勇は歴訪各国の「日本・東京」開催への同意を確信した。

【一等国、日本】

1959(昭和34)年5月23日、ドイツのミュンヘンでIOC総会が開かれ、1964年の開催地が決定した。58票中、東京は、第1回の投票で過半数の34票を獲得し、他の3候補地(デトロイト・ウィーン・ブリュッセル)に圧勝した。アジアと中南米票が多くを占めた。

1964年10月10日、東京オリンピック開会式に招かれて、和田夫妻は、ロイヤルボックスの前方シートで万感胸に迫る思いで式をみつめていた。天皇皇后両陛下をお迎えし、続いて、ブランデージIOC会長を迎えた。会長は開会挨拶で、「オリンピックは全世界のものであり、その証左として、ついにここ東洋で行われようとしています」と述べた。

天皇陛下が開会を宣言、聖火台の下でファンファーレが鳴り響いた。この時のことを後に勇は、「敗戦国日本が頑張って立ち直り、三等国が一等国になった…と思うと、うれしくて涙が止まらなかった」と語った。

和田の手腕は、その後、札幌冬季オリンピック(1972)、メキシコ(1968)、ロサンゼルス(1984)のオリンピック誘致にも依頼を受け、発揮された。メキシコのロペス大統領から、礼状と記念品が贈られている。

4.“Keiro”(敬老)――福祉事業の展開

【ロサンゼルス市長らを和歌山港に】

和田勇は、1969年にロサンゼルス市長から要職であるロサンゼルス港の港湾委員会委員(後に委員長)に任命された。ロサンゼルス市は港湾ビジネスを拡大すべく、日本の横浜や神戸等の大きな港との取引を期待したのである。

勇はロサンゼルス市長や市議会議長と共に和歌山を訪れた。「港に船がない!」といぶかる市長らに、勇は「世界でも屈指の製鋼工場が和歌山市にある。この貿易協約を成立させたら、近い将来、ロス港に多大な収入をもたらす」と述べた。そしてロス港との協約成立第1号が和歌山港となり、100万トンを超える鉄鋼が和歌山からロサンゼルスに運ばれることとなった。勇はその後、清水・横浜・神戸・大阪港とも協約成立に尽力し、日米貿易発展に貢献した。

【日系一世への勇の晩年の大きな仕事】

しかし、勇には、他の仕事を擱いてでも完遂させねばならないと決意していたことがあった。1971年、ロサンゼルス市議会初の出来事という、満場一致の勇への港湾委員留任要請決議も辞し、日系人の老人ホーム建設という仕事に邁進した。

出稼ぎ移民としてアメリカに渡り、言葉も習慣も文化も異なる土地で、苦労して自分たちの生活を維持し、日系社会を形作ってきたパイオニア、日系一世。彼らは、既に仕事も引退し、介護も必要である。彼らが安心して余生を過ごせる場、日本食をたのしみ、日本語で仲間と語り合える日系一世のための老人ホームをつくりたいと勇は考えていた。勇らは発起人となり、基金を集めた。

ロサンゼルスには1929年頃から、日系の病院(日系人医師の研修施設)が存在していたが、経営等をめぐる内紛で充分に機能していなかった。1961年、日系人有力者らの応援で、勇らは日系社会福祉財団をつくり、NPO病院として再建した。さらに、翌1962年、この病院を売却し、シティ・ビュー病院を購入した(経営難で1983年に閉鎖)。1969年に「敬老ナーシングホーム」(87床)、1974年に「南敬老ナーシングホーム」(98床)、1982年に「サウス・ベイ敬老ナーシングホーム」も開設した。

【敬老リタイアメント・ホームの建設】

第二次世界大戦前、ロサンゼルスのボイルハイツ地区は、ユダヤ人やセルビア人、日本人が多く住む地域であった。後にユダヤ人が西に移住したため、残されたユダヤ系の老人ホーム(3エーカーの土地と大小13棟の建物)を勇らは、「わずか100万ドルの居抜きで」ユダヤ人協会から買取り、1975年に110床の「日系引退者ホーム」とした。

勇らが折衝し、有利な条件での売買といわれたが、施設の老朽化に加え、1987年のロサンゼルス地震後の耐震基準強化に合わせ、全面建替が必要となり、実に7倍の「700万ドルを要した」という(5階建・124床・154人収容・1989年3月完成)。

勇やロサンゼルス総領事、日系企業も協力し、特例的に寄付に免税措置をつけ、米国だけでなく、日本でも大規模な募金活動を行った(スポーツや政財界、勇の故郷和歌山でもこれに応え、日本での寄付金総額は、4億円余に上った)。

このようにして、勇らは、“Keiro”と呼ばれる日系の高齢者施設群を運営し、日系社会の高齢者のための総合的看護施設網を整備していった。

【日本と米国日系社会の架け橋】

和田勇は、オリンピックの年の1964年に勲四等瑞宝章を、1967年に東京都の名誉都民の称号を受け、1984年に吉川英治文化賞と和歌山県国際文化功労賞、1989年に勲三等瑞宝章を受章するなど、遍くその功績が認められている。

勇は、2001(平成13)年、93歳で大往生した。2004年、勇が幼少の頃、両親の出身地の日高・御坊地方で過ごしたご縁で、御坊市市制施行50周年を記念して設けられた「御坊市名誉市民」の第1号の称号が贈られた。勇の二人の息女が来日、御坊市を訪れ、柏木市長から表彰状と記念の銀杯を受けた。

祖国日本と日本人を愛してやまなかった勇は、同時に、自分達が生活し、彼らを受け入れてくれた米国社会も愛していた。彼は率先垂範の有言実行のリーダーであり、日系社会のみならず、米国やメキシコ等のためにも奮闘したインターナショナルな存在であった。

(参考資料)

  • 「祖国へ、熱き心を」 高杉 良 世界文化社 1990
  • 御坊市HP(御坊市名誉市民)
  • 産経新聞 2001.2.23
  • きのくに論壇「オリンピック 政治化・時の流れ」谷 奈々 ニュース和歌山紙 1996.8

(2010.10)
(執筆者の所属、役職等は発表当時のものです)

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