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根来裂

研究員  吉末 博行

はじめに

中世の遺跡としては、日本三大遺跡の一つとされる根来寺に俗にお殿様の御守袋と言われている『根来裂』なるとってもきれいな袋がたくさんあります。なぜ根来寺に、また、たくさん残されているのか?日頃は、一般に公開されることなく大切に保存されているこの袋についてご紹介します。

袋の発見

奉納厨子(根来寺展より)
奉納厨子(根来寺展より)

根来裂は、昭和55年(1980)6月に根来寺の本堂である大傳法堂に安置されている三尊像(本尊の大日如来・脇仏の金剛薩・尊勝仏頂尊)の調査が行われた時に、多くの奉納品が納められていた大日如来(大きさは約5m)の胎内に納められていた真鋳製(高さ46.3cm)と木製(高さ54.5cm)の2基の厨子の中に納められているのが発見されたものです。

平安時代以降、大きな仏像の胎内に小仏像を納めたり、祈願文や願文を仏像の胎内に納めたりすることが多く、2基の厨子には、紀州徳川第八代藩主重倫の母である清信院(1718〜1800)がこの世を去る前年(1799)に、長年にわたって収集した御守や旅日記、清信院の娘光安院の手紙など約1,300点もの品々を主に神社に関するもの36袋と寺院に関するもの49袋に分け入れて納められていました。

江戸時代中期の国学者 本居宣長の講義を受けたこともある清信院の旅日記や手紙などは、技巧を凝らした料紙とともに紀州徳川家に関する資料として大変価値のあるものですが、それらを分け入られた85点の袋が『根来裂』と命名された200年程前に作られたにも拘わらず今もって鮮やかな色彩をもつ貴重な袋です。

根来寺と紀州徳川家

根来寺――正しくは一乗山大傳法院根来寺といい、大治5年(1130)新義真言宗の宗祖覚鑁が高野山に大傳法院密厳院を創建したのが始まりといわれています。室町時代末期の最盛期には坊舎2,700、寺領72万石と伝えられ、警護のための僧兵は、根来衆とよばれ、1万余を擁する一大集団でした。天正13年(1585)秀吉の討伐を受け、大師堂、大塔などを残すのみで他は 焼失してしまいましたが、焼け残った大塔は、我国最大の木造大塔で、国宝に指定されています。

根来寺の大塔
根来寺の大塔

根来寺に現在残っている建物は、紀州徳川家の援助を受けて復興したものが多く、それは、和歌山城の東北つまり鬼門にあたる根来寺への帰依心とともに江戸の護国寺の影響があったと言われています。中でも重倫は、本堂である大傳法堂の再建、三尊像の修復に多大な援助を行っており、母である清信院によって奉納された2基の厨子は、大日如来が安置された文政10年(1827)に胎内に安置されています。根来寺には他にも重倫が寄進した約200点の能面が、一部散逸したものの今なお約160点が残っており、何故か清信院の墓石も建立されています。

また、清信院は、極めて信仰心の篤い人であったと伝えられており、明和5年(1768)51歳のときに江戸から紀州へと出立し、紀州の地で生涯を閉じるまでに和歌山市にある羅漢寺の本尊である釈迦如来座像や粉河寺の阿弥陀如来像(露座仏)などを寄進しています。根来寺復興の大旦那であった紀州徳川家と清信院の信仰心の篤さの結果多くの奉納品が根来寺に残されていました。

袋は特注品

根来裂は、生糸、絹糸、金箔糸などで作られおり、大きさ・形・デザインも多種多様であり、その図柄のパターンなどから、江戸中期の西陣織の基準作として十分に意義があると考えられるものです。しかし、当時から複製技術も高かったこと、清信院の時代は、江戸幕府の度重なる奢侈禁止令(倹約令ともいう。幕府や大名から出された、ぜいたくを禁止し、倹約を強制する法律のこと。)や西陣を襲った享保15年(1730)と天明8年(1788)の二度の大火による西陣織の一時衰退期にあたることから、根来裂が作られたはっきりした年代はわからないそうですが、それぞれの袋に納められた品がぴったり納まるサイズであることから、手元に偶然あった袋に奉納品を納めたのではなく、奉納品を納めるために作られたものであると考えられています。また、約1,300点もの品々を85の袋に分け入れ、わずか50cmほどの厨子2基に納めることは、大変な作業であることは容易に想像がつきます。それぞれの厨子には、奉納品に合わせて厨子が作られたのか?厨子に合わせて奉納品を整理したのか?丁寧にまさにぎゅうぎゅう詰めに納められていました。

木製奉納厨子ならびに納入品(根来寺展より
木製奉納厨子ならびに納入品(根来寺展より
真鋳製厨子ならびに納入品(根来寺展より)
真鋳製厨子ならびに納入品(根来寺展より)

保存状態良好

今でも着物や帯は、直射日光・湿気・衣類を食べる虫が大敵とされ、保存には、適度な通気性を保つ日の当たらない場所に置かれた桐の箪笥が最適などと言われますよね。湿気取りも防虫剤もなかった200年も前の製品が当時の美しさを失う事なく保存されていたのは、どうしてだろう。

まず、直射日光には、色あせや黄ばみの大きな原因の一つである紫外線が多量に含まれています。昭和55年に調査が行われるまで、人知れず、取り出されることなく、厨子に納められ、容易に動かすことの出来ない大きな大日如来の胎内に安置されていたので、直射日光(紫外線)から守られていたと考えられます。

次に、カビ・黄ばみなどの原因となる湿気は下に行くほど高くなり、絹は水に濡れるとふやける(膨潤)性質があり少しの摩擦でも傷が付きやすくなります。大日如来は、像高3.5mで、約1.5mの台座の上に座っており、湿気から守られていたと考えられます。

また、衣類などを食べる虫は春から秋にかけて、暖かい季節になると活動します。年中暖かいと季節に関係なく虫の被害にあいやすくなりますが、周囲を山に囲まれた緑豊かな根来寺に建つ大日如来が安置されている大傳法堂は、夏でもとっても涼しく、衣類などを食べる虫から守られていたと考えられます。

いろんな袋

お殿様の御守袋ではなく、お殿様のお母様が奉納品を納めるために作られたデザイン性に優れた高級な西陣織の袋である根来裂のデザインは、徳川家の家紋である丸に三葉葵を配した金襴の見るからに豪華絢爛のものから、赤地に四重になった菱型などを配し、単純な幾何学模様を繰り返した素朴なものなどいろいろあります。ここでその中から少しご紹介します。

黄地丸に三葉葵・宝尽し文金襴
黄地丸に三葉葵・宝尽し文金襴
(根嶺學報 No.3より)
赤地四弁花重菱段文糸錦
赤地四弁花重菱段文糸錦
(根嶺學報 No.3より
白地雲竜に破れ 紗綾型文金襴
白地雲竜に破れ 紗綾型文金襴
(根嶺學報 No.3より)

おわりに

前段でご紹介した以外にもまだまだたくさんある根来裂は、今から約20年前の昭和56年10月30日〜11月1日の3日間、2基の厨子とともに岩出町文化祭で一般に公開されたことがあり、当時を知る人の話では、「根来寺からお借りして、中央公民館に自分達の手で並べて展示した。」とのことです。最近では、平成14年に和歌山県立博物館で一部展示されたことがあるなど、極まれに一部公開されることがあるそうですが、今回は、管理上拝見することは叶いませんでした。

根来寺文化研究所の中川先生は、「紀州徳川家の宝は和歌山県の宝。和歌山県の宝を根来寺がお預かりさせて頂いている。」ともおっしゃられていました。根来寺には他にも1998年に修理が完成した第八代藩主重倫が寄進した「能面」や昨年12月に国の登録文化財に指定され、本年度から修復保存が進められている旧県議会議事堂「一乗閣」など紀州徳川家・和歌山県の宝があります。いつの日かこの宝物が当時の輝きを保ったまま、一同に拝見することができる日が来ることを願っています。

参考資料、お世話になった方々

  • 「根嶺學報 No.2」 1982年7月1日 根来寺文化研究所
  • 「根嶺學報 No.3」 1984年7月1日 根来寺文化研究所
  • 根来大伝法院700年記念「根来寺展」  昭和63年4月20日 根来寺展実行委員会
お世話になった方々
  • 根来寺文化研究所 中川委紀子様、岩出町教育委員会 榎本栄進様
  • この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。

(2005.3)
(執筆者の所属、役職等は発表当時のものです)

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